23:ちょっと受け止めきれないのですが
今、なんと聞こえただろうか? なにかとてつもなく衝撃的な言葉が聞こえた気がするが、聞き間違いか? いや、聞き間違いに違いない。そうであってほしい。
「今は何も考える必要はない、俺をママと呼んで、ただこうされていてくれ」
また聞こえた。二度も聞き間違うとは。冷静になったと思っていたが、まだショックで頭がうまく働いていないらしい。まさかそんな。そんなことを言うはずは。
「大丈夫……ママがここにいるよ、ママはいつだって傍にいるから安心して」
「すみません! ちょっと何をおっしゃっているのか!」
ついに聞き間違いではないと認めざるをえなくなって、フランシスカは衝動的にゲオルクの胸を思い切り押し返した。
何も考えなくていいと言われた通りフランシスカの頭からは他のことが全てはるか彼方へすっとんでいた。もしかしてそのために? と思えたのは一瞬である。
見上げたゲオルクの表情は、思いのほか真剣だったからだ。
思わず、息をのむ。
「……ごめん、こんなときに言うのはずるいとはわかっている。本当は、次の休日に言うつもりだった。でも、今の君を前にしてはもうとりつくろうことはできないんだ」
固くつながれたままの手から熱が伝わる。熱い紅茶を注いだティーカップかと思う程の熱で、フランシスカの手はしびれるのを通り越して溶けてしまいそうだ。
「フランシスカ嬢、俺は……」
息を呑むほどに真剣な目。ゲオルクの形のいい唇が、ゆっくりと動いて見える。
「俺は……君の、ママになりたい」
まるで冗談にしか聞こえない言葉なのに――いや、冗談としても成立しているかどうかわからないほどなのに――間違いなく、冗談などではない。そう理解した。
だからこそ言葉の意味が理解できない。いや、恐らくママになりたいというのは、甘えてほしいということなのだろう。
だが、なぜ? どうしてそうなった?
「そ、それは、どういった経緯で、そうなったのでしょうか?」
やっとのことで出した声で聞くと、ゲオルクの答えはすぐに返ってくる。
「幼いころ、一人寝のベッドを抜け出して母のところへ行こうとしたことがある。でも、母のベッドにもぐりこむことはできなかった。そこにはすでに父がいて……母の胸に顔を埋めて、ママ、と呼んで甘えていたからだ」
開幕早々なかなかに衝撃的な場面である。ゲオルクの父といえば、王だ。あの王が。精悍な顔つきで、堂々たる姿をしたあの王が。……ああ、ダメだ、想像してはいけない。それは非常に危険な行為である。
「母はそんな父の肩を優しく抱いて、頭を撫でて、とても慈悲深い瞳で見守っていた、その姿は、まるで惜しみない愛を注ぐ慈愛の女神……。そんな母の姿に、幼い俺の胸は苦しいほどに高鳴った。でもその胸の高鳴りは、俺も父と同じようにしてもらいたいと思ったからではないと、なぜだかわかっていた。俺も母のようになりたい、誰かのママになりたい……そう思ったからなんだと、本能的に確信していた」
――俺はずっと、母になりたいと思っていた。
それはあの日、秘密の場所で、ゲオルクが打ち明けてくれたことだ。その言葉の真意がこういうことだったとは、どうして想像ができるだろうか。
「でもそれは簡単なことではなかった。甘やかすのは誰でもいいわけではなかったから。母にとって父が唯一だったように、この人だけだと思える相手ではないとダメだったと、早々に理解したよ」
誰でもいいわけではない。その言葉にほっとした気がしたが、今はそんなことに気を取られている場合ではなかった。
「けれど俺が唯一の人に巡り合うことは容易ではない。なにせ俺はひねくれ者だから、人を信じない俺がそんな相手を見つけられるはずはなかった。それに、母と妹への負い目もあった。二人の代わりに生きているだけの俺が、そんなこと、望んでいいのか、と」
二人の代わりに生きている自分が、誰か唯一の人のママになりたいと望んでいいのかという葛藤。それこそが、ゲオルクが目を背けていたと言った葛藤だったのだ。
……どうにも前半と後半のバランスがうまく取れない。前半が大人しくしているのに対して後半は暴れすぎではないだろうか?
「そう思っていたのに、君に出会ってしまったんだ」
言葉と共に手を強く握られると、途端に心臓が切なく音を立てた。
「初めて会った日は、兄が送り込んだ刺客としか思っていなかった。けれど、俺に対して偽りなくありたいとすごく必死な顔で言われて、驚いたんだ。それから、参ったなあ、と思ったよ。唯一の人に、巡り合ってしまったのかもしれない、とね」
思い出すのはゲオルクが『いや、参ったな』と呟いた姿だ。そんなことを思っていたというのか。
「俺はどんな相手でも裏を疑ってしまうのに、この人は、まっすぐでしかないと思える人。だから、自分を甘やかさないで、無理をしてしまう人。君を知る度に後には引けなくなっていった。心配で、放っておけなくて、なにより心の底から、この人のママになりたいと思ってしまった」
経緯はわかった。ゲオルクが自分のことを信頼してくれていて、心配もしてくれているのだということもわかる。
……だが、最後の一言がどうしても思考の邪魔をするのだ。そこでつまずく。それどころかつまずいた後に勢いよく転んで顔面を擦りむいている。
はるか遠くを見つめたくなるフランシスカを現実に引き戻したのは、「フランシスカ嬢」と、切なげな声色で自分を呼んだゲオルクの声だ。
「君は俺に対して、偽りなくありたいと言ってくれた。だから、偽りなく言ってくれ、君が受け止めきれないなら、逃げてほしい」
握られた手の力が緩むのがわかったと思うと、ゲオルクが一歩下がるのと同時に手が離れた。フランシスカの手は熱を失って、急速に冷えていく。
すると今までさびついていたかのように動かなかった頭の歯車が、ゆっくりと回り出した。
受け止めきれない。正直その思いはある。ママになりたいと言われて、どうしてわかりましたと素直に受け入れられるのだろうか?
――けれど。
フランシスカは手を伸ばして、離れたゲオルクの手を引き戻すように掴んだ。ゲオルクが驚いた顔をしたのが見える。
「……あの、ママになりたいというのは、まだ少し、いえだいぶ、受け止めきれないというのが正直な気持ちです」
正直にそう告げれば、ゲオルクの青空を閉じ込めた目が少しだけ悲しげに揺れるのがわかる。その瞳に映り込む自分の姿が見えそうなほどにじっと見つめて、言葉を続けた。
「けれど、私は殿下と出会えたことに感謝しています、その思いは何があろうと変わりません。ですから、逃げたいなどと、思うはずは、ありません」
自分から一歩近づいた。紺碧の目が近くなって、丸く見開かれていく様子がよく見える。
「じゃあ、君を甘やかしても、いい?」
フランシスカはゆっくりとうなずいた。
ゲオルクの手がそろそろと肩に触れる。その手は凡庸な茶色の髪を梳いて、フランシスカの頭をそっと引き寄せた。頬が、胸に押し付けられる。
「薄い胸で申し訳ない、女装をしていればもっとあるんだけど」
……聞こえたそれには、返事をしなかった。
「よし、よし……」
それから幼子をあやすような声が聞こえると、ゲオルクの熱い手が頭をゆるゆると撫ではじめる。硬い胸板に頬を押し付けながら、フランシスカの頭にはなぜか、豊満な胸を揺らす母の姿が浮かんでいた。
母は幼い子どもを胸に抱いている。いや、違う、子どもが母の胸にすがりついて、顔を埋めているのだ。凡庸な茶色の髪をしたその子供の正体は、幼いフランシスカだった。
母の手はフランシスカの頭を押さえつけたりなどしていない。困ったように笑いながら、頭を撫でているだけだ。ぼよぼよと跳ね返ってもめげずにぐいぐい押し付けるのは、誰あろう幼いフランシスカ本人だった。呼吸も満足にできない。けれどぐいぐい押し付けてぼよぼよ跳ねるのをひたすら繰り返すフランシスカに、母は優しく語りかける。
『よし、よし……フランシスカはいい子、いい子よ、可愛い、可愛い、私のフランシスカ……』
ぐいぐい、ぼよぼよと、フランシスカを甘やかすそれは、母が始めたのだと思っていた。けれど違ったのだ。幼い自分がその豊満な胸に甘えたから。だから母は、自慢の胸を使って娘を甘やかしたのだ。
「よし、よし。君はいっぱい頑張った。だからいいんだよ、今だけは、何もしなくて。ママの胸で甘えていて。君は……とても、いい子だ」
今、ゲオルクの手はフランシスカの頭を押しつけてなどいない。優しく、優しく撫でているだけだ。薄く硬い胸はぐいぐい押し付けてもぼよぼよ跳ね返ったりしないし、隙間はスカスカなので呼吸は非常に楽である。
けれどつい先ほど思い出した幼いころの心地と同じ気持ちが、今、フランシスカにあった。
――ママと呼びたくなる気持ちは、まだ、よくわからないけれど。
この胸に甘えたいという気持ちは理解ができた。すがりつきたい。すべてをゆだねたい。
……ぼよぼよ跳ね返る胸はないけれど。薄くて、固い胸だけど。
幼いころ母の豊満な胸でそうしたように、フランシスカはゲオルクの貧相な胸で声をあげて泣いた。




