21:影の正体
様々な音が同時に鳴り響いた。扉を勢いよく蹴り飛ばす音。誰かが叫ぶ声。それから「ぐえっ」という悲鳴と、人が地面に叩きつけられる音だ。
複数の足音が聞こえる。何人かの人間が部屋に入ってきたのだろう。
「フランシスカ嬢!」
だがフランシスカのすぐ傍で名前を呼んだ声も、体に触れて助け起こした手も、たった一人のものだった。自分の体を支える腕に手を添えて、フランシスカは顔をあげた。
そこに見えたのは、紺碧の目を心配そうに歪めたゲオルクの姿。思わず「殿下」と口にした言葉は震えた。
ゲオルクは、大丈夫か、とも、何をされた、とも聞かなかった。
「怖かっただろう、もう、大丈夫だ」
フランシスカの目をまっすぐに見つめて、ただ、それだけを言った。
「なんということだ!」
叫び声がこだまする。フランシスカはそちらへ視線を向けて、目を見開いた。
ジャンベールが、さも絶望したというような顔で部屋の中央に立っている。彼は無事だったのか。そう思えたのは一瞬だった。
「ベックマン、私は君を信じていた、まさかあの噂が真実などとは思いもしなかったことだ! 君が本当に、男に熱を上げて、横領をした金を貢いでいたなんて!」
血の気が引く、というのはこういう感覚なのだとわかった。ジャンベールの言ったことは、男が言ったことだ。フランシスカを横領の犯人に仕立て上げようとする誰かが、企んだこと。
「ジャンベール……」
悲痛な声が彼を呼んだ。それは扉の傍に立つ父、トーマスであった。隣にはルーデックも立っていて、父と同じ表情をしている。
「お前は、本当にそう思っているのか?」
父が問う。ジャンベールは己に向けられた非難とも憐憫ともつかない目を見つめ返し、やがてはっと乾いた笑いをもらした。
「……いいや、ただの負け惜しみだ」
「ジャンベール……いや、ディルク、けれど、信じたくはなかった、どうしてこんなことを……」
「そういうことを言っている間はわからないだろうよ、トーマス」
悲痛の面持ちでいる父に対し、ジャンベールの表情は憎々しげであった。
「俺はずっと、お前を疎ましく思っていた。俺がどれだけ血のにじむような努力をしても、ベックマン家の人間というだけでお前のほうが俺より評価される。お前がいる限り、俺はどれだけ努力したって無駄だと思い知らされた! お前さえいなければと、何度考えたことか!」
ジャンベールの叫びは、薄暗い室内に空しく響いた。
「彼女を横領の犯人に仕立て上げれば、トーマスは今の地位ではいられない、そう考えたのかね」
そう聞いたのはルーデックだ。ジャンベールがふっと笑みを浮かべたのは、肯定の態度だった。
「ニコラスがちまちまと横領しているのを見つけて、お前がこんなことをしては私の立場もないのだぞと叱ったとき、ああと思った。これが、ベックマン家の娘がしたことだったら、と」
つまり横領の犯人はラフーケだったのだ。そしてジャンベールは、それをフランシスカの仕業にするために見逃していたということになる。
「ニコラスの後始末をしながら彼女に疑いが向くように仕向け、頃合いを見て横領が発覚するように仕組むまでは簡単だった。だが、発覚したところですぐに動かないことは予測していた」
「だから、こんなことを仕組んだというのか」
「さすがに城内でこんな現場が目撃されたなら、トーマスでも庇いきれないでしょうからね」
毅然とした態度でジャンベールに問いかけるルーデックの隣で、父が震えた声で「ディルク」と呼んだ。
「私は……俺は、フランシスカがこんなことをするはずはないと思って、必死に調べた。だが俺は、お前だって、こんなことをするはずはないと思っていた。ラフーケが、お前がついているから平気だと触れ回っていると突き止めても、彼の戯言に違いない、と。あれだけの証拠をそろえるにはお前の関与なしにはとてもできないと分かっても、誰かがお前を陥れようとしているのだ、と。だから、今日、お前に話を聞こうとして……」
「俺が財務室にいなかったものだから、殿下とルーデック様まで駆り出して、この部屋の前にいた俺を探しあてたのだろう? そこへフランシスカ嬢の悲鳴が聞こえて、この通りだ。もういいだろう、さっさと俺を憲兵に付き出せ」
抵抗はしない、というようにジャンベールが両手を投げ出す。それでも父は彼に手を伸ばそうとはしなかった。ただ悲しげな視線を送り続ける。
「ディルク……俺が、お前をここまで追い詰めたのか?」
その言葉を聞いた途端、ジャンベールは一気に憎悪を顔に表した。
「お前のそういうところが、嫌いなんだ……! お前が、お前がそうだから……これじゃあ、勝手に劣等感を抱き続けている俺が、馬鹿みたいじゃないか……!」
「ディルク」
彼の名を呼んだそれは、ルーデックの声だった。震えることなく、はっきりとした声。
「少なくとも私は君を評価していたよ。だからこそ君を財務卿に推した」
同情、落胆。ルーデックの言葉は父と同じ感情をはらんでいた。だがそれを聞いたジャンベールは悲しげに顔を歪めて、力なくうなだれてしまった。
父とルーデックの後ろからゲオルクの従者が顔を出す。するとすぐに数人の憲兵が部屋に入ってきて、ジャンベールを拘束した。そしてソファの後ろでのびていた男も拘束し、ルーデックと二言三言言葉を交わしてから、憲兵は彼らを連れて去っていった。
全ての顛末を、フランシスカはゲオルクの腕の中でただ茫然と見ていた。
ジャンベールは父のことを憎んでいて、フランシスカを陥れることで、父を陥れようとしていた。
ラフーケの横領を発見した、そのときから、フランシスカを利用しようとしていた。
ジャンベール自身が、その事実を、今目の前で、認めた。
じゃあ、それじゃあ、自分を庇ってくれたのは、信用をさせるため?
――少なくとも私は君の努力を認めているよ。
あの言葉も。信用をさせて、警戒心を抱かせないための、嘘だった?
いや、それはきっとジャンベールに聞かないとわからない。けれど、ジャンベールはもうこの場にはいない。
それに、ジャンベールの口からはっきり嘘だったと言われてしまったら。信用させるための嘘だったに決まっている。女など認めるわけがないだろう。所詮、女は男より劣った存在にすぎないのだから。
「フランシスカ嬢」
自分を呼ぶ声がフランシスカの思考を中断させた。視界いっぱいにゲオルクの顔が映る。心配そうな顔。いや、心配している顔だ。
「いいんだ、君は何も悪くない。だから今は何も考えないでいい、大丈夫だ」
諭すような低い声が、聴覚を満たす。
何も考えないでいい? どうして? だって、自分が無力だったから利用されたのに。いや、でも、ゲオルクは心配してくれて、そんなことを言ってくれている。言われた通りにするべき? ああ、わからない。頭が上手く、回らないのだ。
「フランシスカ……すまない、私のせいで」
「トーマス、彼女のことは俺に任せてくれ、お前はルーデック殿と後のことを頼む」
「……承知しました」
だから父が傍に来たのも、ゲオルクが従者を呼び寄せて何か告げたのも、フランシスカはぼうっと眺めるだけで、何をしているのかよく理解できなかった。
「さあ、ひとまずこの部屋を出よう、俺の肩につかまって」
ただ、優しくて、地に染みる水のような声に促されるまま、その肩にすがるように手をかける。触れた肩は、軍服越しだというのに、酷く熱く感じた。




