17:気付いた影
フランシスカが宮殿から帰ると、出迎えたアンネに父が呼んでいることを伝えられた。
ゲオルクとのことは報告しなくていいと言ったのに。それでも呼び出すとは、それ以外のことか、あるいはよほど何かがあったのか。いずれにしろ、気を引き締めるべきであることは確かだ。
フランシスカは緊張しながら、父の部屋の扉を叩いた。「フランシスカです」と呼びかければ、中から父の声で「入りなさい」と聞こえる。部屋へ入ると父は執務机の前に立っていて、フランシスカを近くに呼び寄せた。フランシスカはすぐにその表情が真剣なものであることに気が付いた。
父が緊迫した声色で「フランシスカ」と呼ぶ。
「財務室は、どうだ」
「……どう、とは?」
随分と曖昧な問いだ。聞き返すと、父は一呼吸をおいて答えを返した。
「……建築中の別荘で、テタリオ地方のものではない大理石が発見された」
父の言葉に、小さく息をのむ。
「よく似てはいたが、ルーデック殿が違和感を訴えられ、耐水実験をしてみたのだ。すると……一方は、表面が剥離して砕けてしまった」
テタリオ地方の大理石は黄色みがかった石肌をした王の愛する大理石だ。だが王が愛す理由はそれだけではない。この大理石は他の産地のものに比べて水に強いという特徴を持つのだ。表面が剥離して砕けたとは、テタリオ地方の大理石ではないと示したことになる。
「もちろん陛下がそれを用意しろとおっしゃったわけではない」
そうであったなら、ルーデックが違和感を訴えることもなかっただろう。それはつまり。
「誰かが、産地の違う大理石を紛れ込ませたということだ。そして、今は調査をしている最中だが、財務室の人間が何かしら関与している可能性は高い」
父はフランシスカが推測した通りのことを言った。財務室の人間の関与を疑っている。だからこそ財務室はどうだと、曖昧な問いをしたのだ。フランシスカもまた財務室の人間だったが、これは父から自分への信頼の証だと思った。
「フランシスカ、お前は周囲の動向に注意をしていなさい、怪しいと思ったら近づき過ぎないことだ、決して」
父の忠告を胸に刻み、確かに理解したうえで「はい」と答えた。
いつものように就寝の準備を整えたが、今日はやけに寝つきが悪かった。仕方がないので体を起こして手のひらを探る。そうしているうちに先ほど聞いた父の言葉が頭に浮かんだ。
――財務室の人間が何かしら関与している可能性は高い。
まさか、と思う。けれど、疑わなくてはいけないときもある。そもそも、産地の違う大理石を紛れ込ませた理由はなんだろう。テタリオ地方の大理石と、その他の大理石の違いといえば耐水性だ。それから……値段だろうか? ブランドがつくのとつかないのでは価値がまったく違う。
そこで、あっと思って思考を中断させる。いけない、ベッドの上で考え事をするのはよくないとゲオルクに言われたのだった。
こんなときは、ネムノキを数えるに限る。
ネムノキが一本……ネムノキが二本……ああ、今日もまたネムノキの陰からこちらを覗いている。アーネムタイナーが一匹……アーネムタイナーが二匹……アーネムタイナーが三匹……うん? 三匹目が柵を飛び越えた後にこちらに向かってきた。アーネムタイナーは尻尾を左右に振りながら、親しげに声をかけてくる。
『ねえねえ、今日はいっぱいドキドキしたね』
なんということだろう、アーネムタイナーは人語を解すというのか。しかしいっぱいドキドキしたとは、何のことを言っているのだろう。不思議に思っていると、アーネムタイナーは無邪気な様子で言葉を続けた。
『ゲオルク殿下に、いっぱいドキドキしたでしょ?』
ゲオルクにいっぱいドキドキした。やはり何のことだろうと思いかけて、はっとする。
――つまり、殿下に触れられているから、心地がよいということでしょうか。
声にすると思いのほか恥ずかしかったその言葉。その後ゲオルクに『そうだとしたら、とても嬉しいことだ』と、雲一つない青空のような目で見つめられ、更に恥ずかしくなってしまう。
そうなると情けないことに集中を欠いてしまい、それを見かねたゲオルクに中庭の散策に連れ出されたというのに、そこでもゲオルクの挙動に心を乱されて、徹頭徹尾散々な姿をさらしてしまった。
アーネムタイナーは、それを『ドキドキした』と言っているのだ。
恥ずかしいとか緊張したとかをドキドキしたと言うのは子どものようで、少しむずがゆい。でも。
「そうだね、すごく、ドキドキした」
アーネムタイナーにそう告げると、たくさんの細くて白いひげがはえた長い耳をぴょこんと揺らして『そうでしょ!』と笑った。
ゲオルクのおかげで睡眠時間を見直しはしたが、フランシスカの起床時間は変わっていなかった。朝早くに目を覚まし、身支度を整え、誰より早く出勤することはまだ続けている。
この日も一番に出勤してきたフランシスカは、まだ誰もいない財務室で机上を整えていた。間も無く一人の文官が出勤してきたので、顔を向けて挨拶をする。ラフーケだ。こんなに早く来るのは珍しい。と思っていると、彼は何か嫌な笑みを浮かべてフランシスカのほうへ近づいてきた。
「ここ最近、調子に乗ったツケが回ってきたみたいだな」
朝からわけのわからないことを言うラフーケにフランシスカは少し顔をしかめた。
「ついにお前が例の男といるところが目撃されたんだよ。動かぬ証拠が押さえられたってわけだ。真っ昼間から堂々と会うなんて、ずいぶん浮かれているじゃないか。売れない画家の割に身なりはキレイだったというが、いったいどれだけ投資したんだ?」
続けられた言葉に、ああ、と思う。そういえば、そんな噂があったのだったか。近頃耳に入らないからすっかり忘れていた。
いや、今思えば、最初からごく限られた人間しかその噂に夢中になってはいなかったのだ。気を張っていたから、小さな声が大きく聞こえていただけだ。
彼はそんなことを言うためにこんな朝早くに出勤してきたのだろうか。だとしたらむしろ感心である。そう思えばつい呆れたように「そうですか」と声が出た。ちっ、と舌打ちの音が聞こえる。
「何だよその態度は、それとも、言い訳する言葉がないのか?」
ラフーケに視線を合わせると、彼はなぜか一瞬たじろいだような顔をした。
「いえ……真実を追求する気のない人に、これ以上何かを言うつもりはないというだけです」
そう言えば、ラフーケは目を丸くする。それから何か言おうとしたが言葉がないのか、ただ口元を震わせた。
フランシスカが視線をそらそうとしたとき、足音が聞こえる。
「おはよう、二人とも。ベックマンはともかく、ラフーケがこんなに早いのは珍しいな」
挨拶と共に財務室に入ってきたのはジャンベールだ。彼は挨拶を返すフランシスカに笑顔を向けてから、気まずげな顔のまま黙っていたラフーケに視線を向けた。
「ちょうどいい、ラフーケ、保管庫から紙を取ってきておいてくれ」
「……はい」
指示を受けたラフーケが財務室を出ていくと、ジャンベールは申し訳なげな表情でフランシスカに声をかけた。
「身内の恥をさらしてしまったようで申し訳なかったね。根も葉もない噂話をうのみにして、まったく浅慮なことだ」
「き、聞いていらしたのですか」
「ああ、決して君が困っているのを見過ごすつもりではなかったんだ。ただ、このごろの君は自信がついてきたようだったから、自分でやり過ごすことができるのではないかと思ってね、つい盗み聞きするようなことをしてしまった。不快にさせたのなら申し訳ない」
「いえ、そんなことは。それにおっしゃる通り、本来は自分でやり過ごすべきことです。それなのにジャンベール様には何度も庇っていただいて、私のほうこそ申し訳ないと思っております」
頭を下げたフランシスカに、ジャンベールは「気にしないでいい」と言う。
「実のところ、彼が君に辛く当たるのは彼自身の問題があるんだ」
「問題、ですか?」
「彼の父親は女性に手ひどい目に遭わされてね、その女性というのが彼の母親で、父親にはことあるごとに母親を引き合いに出されて辛く当たられたのだよ。だからどうも、女性は悪い存在だと思い込んでいるところがあるんだ」
「そうだったのですか……」
ジャンベールの口から語られたラフーケの事情に、フランシスカは彼に対して的外れなことを言うものだと呆れていた自分を思い返した。辛く当たる理由があるのかもしれないなど、思いもしなかった。少しは視野が広くなったと思っていたが、まだまだであったのだ。
「とはいえ大学で様々な考えに触れただろうに、見分を広めることができなかったのは彼の落ち度だよ、君が気に病むことではない」
ラフーケの問題を知っていて、それでも同情しすぎることなく冷静な判断で、彼の責任だと言う。ジャンベールはやはり公正な人であった。
尊敬と感謝の念にフランシスカはもう一度頭を下げる。ジャンベールはまた笑って「気にしないでいい」と言うだけだった。
「君は、変わったな」
それからジャンベールがそんなことを言う。ルーデックだけではなくジャンベールにまで言われるとは。フランシスカは驚いた心地で「そうでしょうか」と返した。
「以前の君ならこんなとき、どこか思い詰めたような顔をしていた。だが今は吹っ切れたように晴れ晴れとしている。……少し、羨ましく思うくらいだよ」
最後の一言。そこでジャンベールの表情に影が差したことに気が付いた。控えめに「羨ましい、ですか?」と聞き返すと、困ったような笑みと共に答えが返ってくる。
「私が君くらいの年だったころは、トーマス……君の父と比べられて、ずいぶん卑屈になっていたものだ」
「そんなことがあったのですか?」
思わず聞き返す。卑屈なジャンベールなど想像ができなかった。
「ああ、トーマスとは、ずっと比べられてきた……。彼とは、学園からの仲でね、もしかして君の父から聞いているかな?」
「あ、いえ、それはルーデック様から」
そう返せばジャンベールは一瞬驚いた顔をしたあと、「トーマスが言わないことを、まったくおしゃべりなお方だ」と笑った。
「学生のころからずっと互いに切磋琢磨してきたが、やはり一歩先を行くのはいつでもトーマスだった。主席の座にしても、王城での地位にしても……あいつが上で、私が下だ」
再びジャンベールの表情に影が差した。
優れたトーマス・ベックマンと、劣ったディルク・ジャンベール。
そうやって周囲が勝手に二人を比べたのだ。異なる二者を比べて優劣をつけることに、意味などないというのに。
――君自身も、君の努力も、正当に評価されていない。
その事実が悔しいか、とフランシスカに聞いたジャンベールは険しい顔をしていた。それは、こうした自身の苦い経験のためだったのだ。
「ジャンベール様も、悔しかったのでしょうか」
そう聞けば、ジャンベールは少し曖昧に笑って、
「……ああ、悔しかったね」
と答えただけだった。
それは、まるで今でも悔しいと思っているように聞こえて、フランシスカは言葉をかけようとする。
しかしすぐにコルトーが入ってきたため、何も言えずに終わってしまうのだった。




