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16:見ている世界が違う人

 ゲオルクと過ごす休日はこの日もティータイムから始まっていた。フランシスカの前には湯気をあげるシナモンティーと、チョコレートのトルテ。濃厚でしつこい甘味がシナモンティーに合う一品である。



「うん、以前とは頬紅の映え方が違うね、随分顔色がよくなったみたいだ。それに顔つきもだいぶ変わった」



 フランシスカの顔をじいっと見つめたゲオルクは、笑みを浮かべてそう言った。その言葉の通り、化粧はしていても顔色のいいのと悪いのとでは頬紅の映え方が違う。

 それを見抜くとは、まさかゲオルクの女装はドレスだけではなく化粧まで徹底されているのだろうか……と考えたことは口にしなかった。ゲオルクへの理解は少し進んだ自負はあるが、女装への理解はまだ追いついていないのだ。うっかり深く想像をしすぎてつまずいて転んで顔面をすりむくことはしたくない。



「殿下のおかげです。あれから毎夜手のひらのつぼを押すことを習慣にしていまして、そうすると以前より眠れるようになりました」

「ああ、それはよかった」

「まだ寝る前に本を読む習慣はやめられないのですけど……それでも、区切りをつけることができるようになったのは大きな変化だと思っています」

「うん、区切りをつけられるのなら、寝る前に本を読むのはいいことだと思うよ」



 そう言われると少し安心した。ゲオルクに本を読んでいるうちに眠ってしまうことを咎められて以来、ベッドの上で本を読むのは悪いことのような気がしていたのだ。

 一言謝辞を述べ、フランシスカは一つの話題を切り出した。



「実は、殿下に一つお聞きしたいことがあるのです」



 ゲオルクは「うん」と言って微笑む。



「教えていただいたつぼを自分で押したり、アンネに押してもらったりしているのですが、前に殿下に押していただいたときとは違って、どうもいまひとつのような気がしているのです。ですからなにかこつのようなものがあれば、殿下に教えていただきたいと思っているのですが」

「うーん、こつかあ。そうだなあ、ちょっと手を貸してもらえるかな」



 ゲオルクは考え込むような仕草をした後、フランシスカに向けて手を差し出す。フランシスカは迷うことなくその手に自分の手を重ねた。

 ゲオルクの手がフランシスカの手を包み込んで、指が手のひらを探る。熱い手のひらから体温が伝わると、じわりとしびれるような心地がした。



「殿下の手は、とても熱いですね」

「確かに、体温は高いと言われるよ。冬場なんかは重宝されて、少し困るくらいだ」

「体温……それが、違いでしょうか」



 しびれるほどの熱はとても気持ちがいい。手をお湯で温めてから押せばいいのだろうか。確かに、そんなことには考えが及ばなかった。



「うん、それもあるだろうけれど……」



 ゲオルクはそこで言葉を止めて、いよいよ手のひらをぐいと押し始めた。途端に痛みが走る。ぐいぐいと押す動きに連動して感じる痛みは、やはり自分で押したときよりも鋭いものだった。



「い、いた、いたた……」

「どうだい、やっぱり自分でするのとは違う?」

「は、はい……痛みが、強烈です、あ、いたい……」

「強く押す必要はないんだ、そうだなあ、正しい位置を押すことが大事かな?」



 そう言われるとフランシスカの手のひらを押す指が一度止まった。それから今度は教えられた正しい位置を自分で押してみる。痛みは遜色ない気がするが、なにかが違う。素直にそう言葉にすればなぜか笑われてしまった。

 そうして再び手を取られる。心地のよい熱が返ってきてじわりとしびれさせた。しびれたのは手だけではない。心臓と、それから頭。それはとても心地がよかった。



「フランシスカ嬢、人はね、他の誰かに触れられることで気持ちが安らぐと言われているんだ」



 どき、とした。まるで今の気持ちを見抜かれたようだった。



「けれどそれにはひとつ条件がある」

「条件ですか?」

「それは、心を許した相手に限るということだよ」



 フランシスカは言われた言葉を頭の中で繰り返した。ほかの誰かに触れられることで、気持ちが安らぐ。それも、心を許した人物に限る。それはつまり。



「つまり、殿下に触れられているから、心地がよいということでしょうか」



 言葉にすれば思いのほか恥ずかしく、少し顔が熱くなった。



「そうだとしたら、とても嬉しいことだ」



 更にはゲオルクが雲一つない真夏の空のような目でこちらを見つめて笑うものだから恥ずかしさは余計に増す。そのまま手のひらを指でぐいと押され、痛みが走る。

 恥ずかしい、痛い、恥ずかしい、ああ痛い。

 この状態のフランシスカを表す言葉はまさに『踏んだり蹴ったり』であった。


 それだからやっと始まったチェスもうまく集中できなくて、結果は散々なものだった。



「すみません……」



 悲惨な盤上につい謝罪の言葉が口をついて出る。だが帰ってくるのは朗らかな笑い声だ。



「少し気分転換でもしようか、せっかく天気もいいし、外でも行こう」



 それから、そう提案する声。気を遣ってくれているのだ。そうわかれば断ることなどできるはずもなく、だが申し訳なげに「はい」答えた。






 宮殿の中庭は、鮮やかな緑が燦々と降り注ぐ午後の日差しに輝く場所だ。回廊の柱からはその石肌を覆い尽くしたツルバラがいくつもの花をつけて人間を見下ろしている。ゲオルクの従者はツルバラのふもとで立ち止まり、日差しの中に進むゲオルクとフランシスカを見送った。

 丁寧に整えられた、幾何学模様を描く生垣の間をゲオルクの後について歩く。やがて現れたのは円状に咲き誇る小さな花畑だ。

 立ち止まったゲオルクと共に薄紫の花を眺めた。花弁は小さく、控えめに、けれど決して緑に埋もれてしまわない美しさが主張している。

 こうして、花を眺めるのはいつ以来だろう。そもそも、眺めたことがあっただろうか。フランシスカは思い返してみるが、記憶になかった。



「今年は暑くなるのが早いから、花の時期も早くなっているな」



 暑くなるのが早い。その言葉に共感することはできなかった。フランシスカにとって季節の移り変わりはただ自分の周りを過ぎていく現象でしかない。それが早かろうが遅かろうが、気にすることではないのだ。

 だから「早い、ですか」とゲオルクの言葉を繰り返すことしかできない。



「うん、ウナのほうではもう渡り蝶が現れたというからね、彼らが来たなら気温はこれから上がるばかりだろう」



 そう言ってゲオルクは青空を見上げる。眩しそうに細められる紺碧の目。見上げた青空と同じ色だ。

 渡り蝶とは暖かい場所を求めて北から南へと渡る蝶のことである。このあたりには初夏のころに訪れる。そのため夏の始まりを知らせる蝶だとされ、人々はその姿に季節の移ろいを感じるのだという。そういう知識はあっても、やはりそれに情緒を感じることはできない。



「この分だと別荘に移るのも早めになるかもしれないなあ、でもそうしようにも完成しないことには移れないし、少し困ってしまうな。以前の別荘はもう買い手がついているから、間に合わなければ行き場がないよ」



 困ったように言うのに、どこか楽しそう。

 ゲオルクは自分の周りで過ぎていく季節の移り変わりという現象にしっかりと目を向け、味わっている。

 自分とは、見ている世界が違うのだ。



「おっ」



 空を見上げていたゲオルクが声をあげる。



「ほら、あの木のてっぺんあたりで蝶がひらひら舞っているよ、渡り蝶かな? うーん、でもそれにしては、少し小さいかな?」

「蝶、ですか?」



 ゲオルクが指す場所に目を凝らすが、遠すぎるせいかよく見えない。するとゲオルクが「もう少し近くに行こうか」と提案するので、フランシスカは「はい」と頷いて返した。

 少し歩いたところで、ふとゲオルクが立ち止まる。



「あ、ちょっとそこ、段差があるね」



 彼の視線の先には確かに下へ降りる段差があった。よく見ると溝もあるようだ。小さな子どもなら飛び越えるのをためらってしまうだろう、というほどの幅だ。



「手を貸したほうがいいかな?」



 ゲオルクが振り返って聞いてくる。段差がなければ手を借りずとも飛び越えられただろうが、下へ降りる段差があるだけで少し不安になってしまう。

 なにより今のフランシスカは、ゲオルクの気遣いに素直に甘えようと思えた。

 フランシスカが「お願いします」と答えると、ゲオルクは先に降りて手を貸してくれるのかと思いきや、予想外の行動に移った。

 なぜかこちらに向き合って、少し腰を折る。そうしてフランシスカの足と背中に手を回し、幼子を抱きあげるようにひょいと持ち上げたのだ。

 フランシスカは思わず「ひゃ」と声をあげた。

 ゲオルクはフランシスカを抱き上げたまま、溝になっている段差を危なげなく降りる。それからゆっくりとフランシスカの体を地面に降ろした。

 地に足がついても、フランシスカはほっと息をつくことはできるはずはなかった。恥ずかしい、と、なぜ? が頭の中をぐるぐると巡る。



「ああ、ごめん、怖かった?」



 ゲオルクの声がきこえてはっとする。ああそうだ、何はどうあれ、段差を降りるのに手を貸してもらったのだ。お礼の言葉を言わなければ。



「あ、あの、ありがとうございます、けれど幼子ではありませんから、その、抱き上げていただかなくても、手を貸していただくだけでよかったのですが……」



 なんとかそう言えば、ゲオルクはん? という顔をした後「あ」と声をあげる。



「あ、あー……そうだったね、ごめんごめん、えーっと、そう、幼いころこの段差で、兄上に同じようにしてもらったから、つい」



 あはは、と笑う態度は明らかになにかごまかしているし、言い訳の内容も到底納得のできるものではない。

 だがそれ以上追及はできない。してはいけない、と警鐘が鳴らされている気もする。

 それだから息抜きのはずの散策は結局息抜きにならず、この日の戦績は全戦全敗に終わるのだった。







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