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15:陛下と王妃殿下

 数日が経って、フランシスカは己の変化を感じていた。

 まずは、体が以前より軽いということだ。今まで体が重いと感じていたわけではない。しかし体が軽く感じるようになると、以前は重たかったのだとやっと気が付くことができたのだ。人は常に不調だと己が不調と気が付かないものであるらしい。

 同様に、挨拶へ返事がもらえないことも気にしていないと思っていたが、そうではなかったようだ。いつものようにおはようございますと挨拶をしたとき、フランシスカはいつもと感覚が異なるのを感じた。自分の口から出た言葉が、軽やかな気がしたのだ。今まではさぞ重たい心地で言っていたのに違いない。

 挨拶をする心地が変わればされるほうも心もちが変わるのか、コルトーが少し驚いたようにこちらを見て「おはよう」と返してくれた。初めてのことである。かといって嬉しいと飛び跳ねるような気持ちも起きず、ただ穏やかな気持ちだけがあった。

 思えば自分は気を張りすぎていたのかもしれない。周囲に認められたい。認められなければいけない。そう思ってむしろ周囲に対して攻撃的になっていなかっただろうか。睨み付けるように挨拶をされたのでは、返そうという気になるはずはないだろう。

 そういうことに気付いたフランシスカの心は凪いでいた。書類仕事も以前よりずっとはかどるようだ。頭がすっきりと冴えている。



「だあ!」



 コルトーの叫び声に、財務室にいた人間は肩を揺らした。しかしすぐに穏やかな声が聞こえると、皆ほっと息をつく。



「おやおやコルトー、軍務卿殿かな? それともルーデック様かい?」

「……両方です」



 ジャンベールが穏やかな口調で問いかければ、コルトーはつられるように少々落ち着きを取り戻して答えた。

 本日はジャンベールが在室である。こんな日は平穏が約束されている。



「ではお二人に、注意をしていただくようにと私から一筆を添えよう」

「……お願いいたします」



 にこやかに言い放つ言葉でコルトーの導火線についた火をすっかり消してしまう。さすがの手腕だ。

 ジャンベールはコルトーから書類を受け取ると、ささっとしたためた一筆をその上に重ねる。



「軍務卿殿へはグーラ、ルーデック殿へはベックマン、頼んだよ」



 指名をされ、フランシスカは席を立ってジャンベールから書類を受け取った。ルーデックへの書類を任されても、以前のように悪い考えが浮かぶことはなかった。ジャンベールに任されたからではない。自分の心もちが変わったからだとわかっていた。

 ラフーケが面白くなさそうな顔でこちらを見ていたのにも気付いたが、フランシスカは特に気にすることなく財務室を出るのだった。





 フランシスカの顔を見たルーデックは「おや」と言った。



「なんだか顔つきが変わったようだね」



 そう言われ、フランシスカは少し驚いたように「そうでしょうか」と返す。確かに気の持ち方は変わったが、顔つきまで変わって見えるだろうか。

 いや、ルーデックは他人の――特に女性の――ちょっとした変化に敏感な人だ。そのルーデックが言うのだから、自分ではわからないが、確かに変わっているのだろう。



「うん、穏やかになった。これもゲオルク殿下のおかげかな」



 ゲオルクの名前が出ると思わず「えっ」と声が出る。



「トーマスから聞いているよ、殿下のチェスの相手をしているのだろう」



 ルーデックはフランシスカが聞く前にそう言った。とはいえ、どこまで知っているのか。彼ならすべての……それこそ、女装の件まで知っている気もするが、この場で口にすることではないだろう。



「はい、殿下に顔色が悪いことを指摘されてしっかり休むようにと言われてから、少し生活を見直しました。顔つきが変わったと見えるのなら、おっしゃる通り殿下のおかげです」



 そう言葉にすれば、思い出してまた恥ずかしくなる。ルーデックが納得したように息をもらして「なるほど」と言ったのは、このことも父から聞いているからだろうか。だが、もしかして父から聞いたのかと聞けるはずはない。そんな恥ずかしいことができるものか。

 どうか話題を変えてくれないだろうかというフランシスカの願いも空しく、ルーデックはふふっと微笑むと、


「まるで、陛下と王妃殿下のようだね」


 と言った。

 一瞬間を置いて、フランシスカは言葉の意図を理解する。ゲオルクは母が父を休息に誘っていたと言った。つまり、王妃が王を。ルーデックもそれを知っているのだ。

 休息を取るのが下手な王。それを、優しく休息へ導く王妃。自分が王と並べられてしまうのは畏れ多いが、以前の自分を思い出せば確かに休息を取るのが下手だった。王と王妃のようだとは、そのことを言っているのだろう。

 だがルーデックの意図はもっと多くのことを含んでいたようで、彼は懐かしむように思い出を語り出した。



「お二人が結婚された当初、陛下は政務に明け暮れて王妃殿下のことを省みられなかった。だが王妃殿下が陛下を休憩にお誘いするようになってから、陛下は変わられたよ。顔つきが柔らかくなられて、以前よりもずっと生き生きとされるようになった」



 聞きながら、フランシスカは王の顔を思い浮かべる。最も間近で見たのは王立大学を主席で卒業した式典でのことだ。ゲオルクによく似た精悍な顔つきで、誰にも平等に接する誠実な笑みが印象的であった。



「それに、変わられたのは陛下だけではない、王妃殿下は望まれて嫁いだわけではない負い目からふさぎがちの日々を送っておられたが、陛下と同じ時間を過ごされるようになってからはどこか頼もしく、それでいて傲慢ではない、全てを包み込むような大きな存在になられた」



 王妃の姿を見たのはもっと幼いころだ。母に連れられたお茶会で、彼女は人々の中心にいた。母の隣に立つ幼い自分に目線を合わせて、ゲオルクと同じ紺碧の瞳で笑いかけられたことは忘れられない。



「本当にお二人は、互いに支え合っておられた。陛下が実は王妃殿下を疎んじていたから、亡くなった後に愛妾を持ったのだと言う人間もいるが、それは大きな間違いだ。王妃殿下はご自分の死期を悟られると、後のことを心配されてゾフィ殿に陛下を託されたのだよ。陛下は酷く思い悩んで、やっと、王妃殿下の思いを受け入れられた」



 ルーデックは遠い過去に思いを馳せるように目を閉じ、それからゆっくり開くと、目の前のフランシスカをじっと見つめた。



「お二人と同じように、フランシスカ嬢も変わったが、殿下も君のおかげで変わられたよ。近頃は素直に笑っておられることが増えた」



 その言葉には、ゲオルクの姿を思い出した。寄り添ってくれていると言った姿。人の裏を疑う自分が、フランシスカのことはまっすぐな人だと思えると伝えてくれたあの姿は、確かに出会ったころとは違う姿であった。ルーデックの言う通り、ゲオルクが変わったということだ。

 ――それが、自分の影響?

 そんな、まさかとは思う。だが人の――特に女性だが――機微に聡いルーデックが言うのだ、事実かもしれない。そして、事実ならばそれは。



「そうだとしたら、とても光栄です」



 そう返せば、ルーデックは嬉しそうに笑った。それからひとつの質問を投げかけてくる。



「殿下と過ごす時間は、楽しいかね?」



 楽しい?

 はたして、その言葉は適切だろうか。

 ゲオルクとの時間は、あくまで彼のための時間だ。ゲオルクがもう必要ないと思えば、フランシスカのほうから続けたいと言うことはできない。

 それでも。

 フランシスカは己の心に浮かんだ素直な気持ちをルーデックに告げた。



「私にとって、かけがえのない時間であることは間違いありません」



 ルーデックは目を細めて「フランシスカ嬢も、素直に笑うようになったね」と言った。



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