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13:寄り添われているのは

「さて……フランシスカ嬢、手を貸してくれるかい?」



 クッキーとシナモンティーが空になったところで、ゲオルクがそう言ってフランシスカに手を差し出した。ここに手を重ねろ、という意味なのだろう。素直に従い、手のひらを下にして重ねる。するとゲオルクはその手を掴んでひょいと裏返した。

 そうして握ったフランシスカの手のひらを親指で探り始める。何をするつもりなのかと目を丸くして見ていると、ゲオルクは親指である一点を、ぎゅう、と押した。



「いたた……!」



 途端に強烈な痛みが走り、フランシスカは声が出た。対するゲオルクはなぜか「ははは」と笑う。



「ここは肩こり」

「い、いた……」

「ここは緊張だ」

「あ、いたい……!」

「ここはいろいろな不調に効くんだよ」

「あう、いたた……」



 言いながらゲオルクは痛む箇所をぐいぐいと押し、そのたびにフランシスカの口からは悲鳴がもれる。ぐいぐいと押す指は容赦などない。痛い。非常に痛い。



「これは東洋に伝わる医学の一種でね、体中にあるツボという箇所をこうして押すことで健康効果を得るんだそうだ」

「ツ、ツボ、ですか」



 痛みのあまりに相槌を打つ声が裏返りそうになってしまう。ゲオルクの説明もうまく頭に入ってこなかった。



「俺はね、あれから君の顔色が悪い理由をずっと考えていたんだ。食事は使用人が考えて用意してくれているだろうし、真面目な君はそれをちゃんと食べているだろう。だから顔色が悪い原因は睡眠不足じゃないかなと思っているのだけど、どうなのかな?」



 ――どうと言われても。

 フランシスカは咄嗟に言葉を返すことができない。痛みでうまく頭が回らないのもそうだが、正直に言えば己の不調を不調と思ったことはないのでどう答えていいのかわからないのだ。



「ああ、もしかしたら君には自分が睡眠不足だという自覚もないのかもしれないな。じゃあ聞き方を変えようか、毎日どんなふうに眠っている?」



 それすら見透かされてしまう。更には手のひらをぐいぐい押して痛みを与えながら質問を続けるではないか。フランシスカはまるで拷問を受けている気分だった。

 正直に話せば、この痛みから解放される?



「……その、私には、まだまだ勉強することがありますから、毎夜本を読んでいるうちに、いつの間にか眠っているということが常の状態です」



 フランシスカが話し出すと、ゲオルクは少しだけ手のひらを押す指の力を弱くした。



「それはどのくらいの時間までそうしているのかな?」

「正確な時間はわかりませんが、アンネを……小間使いを下がらせてから、ランプのろうそくが燃え尽きる寸前まで……でしょうか」

「つまり夜中まで読んでいて、しっかり寝ていないというわけだね」



 そういうことになってしまうのだろうか。

 しかしそれは悪いことだろうか? 確かにアンネにもしっかり寝てくださいと言われるが、結局は寝ているのだからいいのではないだろうか。

 それでもゲオルクに手のひらをぐいぐいと押されながら言われ、フランシスカはなぜか自分が悪いことをしているような気になっていた。



「すみません……」



 思わず謝罪の言葉を告げると手のひらをぐいぐいと押す指が止まった。それから手首の方へ移り、探し当てたくぼみをぐいと押す。ここも痛い。



「ここが安眠のツボだ、覚えておいて」

「は、はい……」



 ゲオルクはそう言い、やっとフランシスカの手を解放した。だが終わった、とほっとしたのも束の間、


「さあ、もう片方の手を出して」


 と言われる。きらきらとした笑顔でもって。

 フランシスカがためらうと、ゲオルクは笑顔のままで身を乗り出してきてあっというまに手を取った。そうして再びぐいぐいと押し始める。痛い、非常に痛い。

 ゲオルクはそのまま、諭すような口調で語り出した。



「フランシスカ嬢、勤勉は美しいことだし、努力もまた美しいことだ。でもね、生き物は休息を取らなければ弱ってしまうものだよ。父は勤勉で知られているが、それもきちんと休息をとっているからこそ勤勉で居続けられるんだ。まあ自分で休息を取るのは苦手だから、母上がいつも父を休息に誘っていて……今は、その役目を担うのはゾフィ殿だけれどね」



 ゾフィとは、王が王妃亡き後に迎えた愛妾の名だ。何か思うところがあるのか、ゲオルクは少し考え込むように口を閉じた。それから一呼吸おいて、「つまりね」と言う。



「君にも同じように、休息を取ってほしい。これは、俺からのお願いだよ」



 ――そう言われても。

 ゲオルクの言葉を受け入れることができない後ろめたさに、フランシスカは目を伏せた。同じようにと言うが、両者の間には決定的な差があるのだ。



「……けれど私は、女ですから」



 男女の差という、大きな差が。



「女は男性の倍、いえ、それ以上です、それほどの努力をしなければ、認めてはもらえません。男性と同じように休息をとっていては、とても、追いつくことなどできないのです」



 休んでいる暇などない。休んでいてはいけない。今まで漫然とそんな気持ちに駆り立てられていたが、言葉にしたことでようやくその理由を理解した。

 女は、男性よりも劣ると見られているから、何倍もの努力をしなければいけない。それこそ休む暇も、眠る暇も惜しんで。

 誰かに言われたことだったか。それとも自分で思ったことか。わからないが、それは確かにフランシスカの中に巣食う思いだった。

 ゲオルクに顔色がよくないことを指摘されてから、フランシスカは眠ろうとした。しかし、そもそも横になっても眠れないのだ。眠れないのなら、暗い部屋でただじっと横になっていることは酷く苦痛だった。だからその時間をもっと有効に使おうと、体が勝手に眠るまで本を読むことを始めたのだ。

 そうなったのはいつからだっただろうか。王立大学に入学したころ? それとも、学園で、女の分際で生意気だと噂されはじめたころから?



「フランシスカ嬢」



 名前をよばれて、いつの間にか手のひらを押す指が止まっていることに気が付いた。しかしゲオルクの手は優しくフランシスカの手を包み込んだままだ。視線を上げると、紺碧の目がこちらを見ている。まっすぐに向けられた目は、フランシスカの間違いを正すときの父に似ていた。



「男性と女性は決して同じ存在だとは言えない。だから何をもって対等と言うべきなのかは難しい。けれど俺は、男女の対等とは、どちらが優位とか劣っているとかを争わないことだと思っているよ。だから君が休む暇も寝る暇も惜しんで努力するならば、その理由は女だからということじゃなくて、もっと別の理由であるべきだ」



 それはすとんと落ちてくるような言葉ではなかった。けれど、地に水が染みこむようにじわりと落ちていく。あまりにゆっくり落ちるものだから言葉が出てこなくて、フランシスカはじっとゲオルクの瞳を見つめ返すことしかできなかった。



「と、言われても、難しいことだよね、差別を感じている当事者ならなおさらだ」



 ゲオルクの笑う顔に、はっとする。何か、言葉を返さなければ。



「い、いえ……殿下のおっしゃることは、はっきりとは言えませんが、なんとなく理解ができます。ただおっしゃる通り、何が正しいのか判断するのは難しいことですから……自分の中で、答えが出せないのです」

「うん、簡単に答えが出せることではないから、ゆっくり考えてくれ。あ、だからといって夜通し考えてはだめだよ、夜は心と体をほぐして、なるべく考え事をしないのがいい、それが難しければ……そうだなあ、眠りとか眠たいとかの響きに似た言葉を頭の中で繰り返してみるといいよ、例えば、ネムノキとか、アーネムタイナーとか」



 答えが出せないとしか返せないフランシスカに、ゲオルクは引き続き安眠の助言をする。アーネムタイナーがいったい何であるかはともかく、心配してくれているという証だ。

 ――ああ、情けないなあ。



「あ、浮かない顔をしたね、さては何かを考えて落ち込んだな?」



 そんなことを思えばあっという間に言い当てられる。止まっていた指が動きを再開して手のひらをぐいぐい押した。やはり痛い、非常に痛い。



「す、すみません……自分が、情けなくて」

「どうしてそう思うのかな?」



 フランシスカが白状すると、ゲオルクは指を止めて優しく問いかける。



「私が、殿下に寄り添うべきだというのに、これでは、私のほうが殿下に寄り添われてしまっています」



 顔色が悪いことを心配され、クッキーと茶でもてなされ、ツボを押された。――ツボに関しては拷問かと思う程の痛さではあったがまあ、それはそれとして――

 そして何より、ゲオルクにかけられた言葉によって、長く己をむしばんできた思いに向き合うことができた。もちろん感謝の念が一番にある。けれど情けないという思いが薄く膜を張ってそれを覆ってしまうのだ。

 そんなフランシスカの弱音を明るく笑い飛ばす声は聞こえてこなかった。代わりに聞こえたのは、静かに語り出す声だ。



「……幼いころ、病弱だった兄にもしものことがあれば次は俺だと思った人間が多く寄ってきた。そういう人間は必ず裏があって、本心を隠しているものだ。子どもというのは不思議なもので、そういう大人の心をなんとなく見抜いてしまうんだな」



 ゲオルクの本心だと思った。それを見抜いてしまったゲオルクの幼い心は、どれだけの衝撃を受けただろうか。きっと、大人への不信感を抱いて当然に違いない。



「トーマスの優しさでさえも、どうせ兄のためだと素直に受け止めることができない。それなのに今俺は、フランシスカ嬢はまっすぐな人だと、そう思っている。それはきっと、俺が君に寄り添われていると感じている証ではないかな」



 ゲオルクはそう言って、やっと明るく笑ってみせた。



「大丈夫、君はちゃんと、俺に寄り添ってくれているよ」



 ――ああ、やっぱり自分のほうが寄り添われている。

 そう思うが、不思議と情けないとは思わなかった。思うのは満たされたような、穏やかな気持ち。それは自分が長く忘れてしまっていたものである気がした。

 誰かの言葉や行為を、心の底から嬉しいと思う気持ちだ。

 練習したものではない、心からの笑みがフランシスカの顔に浮かんだ。



「そのお言葉、嬉しく思います」

「はは、どういたしまして。それじゃあ左手の施術が完了したら、チェスを始めようか」



 ゲオルクの言葉に思わずひっと息をのむ。しかしゲオルクは気に留めず手のひらをぐいと押し始めた。

 非常に鋭い痛みがフランシスカの手に走る。思わず「痛い」と言った後に返ってきたのは、朗らかな笑い声だった。





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