11:邂逅
本日の財務室は視察のためにジャンベールが不在である。
こんな日、財務室は荒れる。
「あの適当男め!」
一人の文官が乱暴に立ち上がって叫んだ。周囲は肩を揺らし、それから刺激をしないように息をひそめる。
叫んだのはこの財務室で最も古参の文官だった。名はルドルフ・コルトー。少々気性の荒い人物で、普段はジャンベールがまあまあと言ってなだめるのだが、そのジャンベールがいなければこの通り荒れ放題である。
「軍務卿殿はいつになったら見直しという言葉を覚えるんだ! また不備だらけじゃねえか!」
本日彼の導火線に火をつけたのは、軍務室のサリュー軍務卿だった。本日も、と言うべきだろう。気性は荒いが仕事は丁寧なコルトーと、同じく気性が荒く仕事が少々雑なサリューの相性はいいはずがなく、書類を介して衝突することは常なのだ。
そもそも同年代の二人は若いころ、それも幼少期のころより衝突を繰り返していたらしい。年月を経てサリューのほうが軍務卿となってもコルトーが彼に物怖じすることはなく、変わらず衝突の日々である。とはいえ立場的には上のあちらを『軍務卿殿』と律義に呼ぶところは、コルトーの几帳面さをよく表しているといえるのだろう。
「誰か、軍務卿殿のところに行ってこれを書き直させてこい!」
フランシスカはすかさず手を挙げた。
「私が」
「あ? あれの相手は女じゃ無理だ」
しかし彼はフランシスカに向かってぞんざいに言い放ち、すぐさま別の文官……ラフーケに頼んでしまった。ラフーケがコルトーから書類を受け取って出ていく。その際にフランシスカに侮るような視線を向けたのは恐らく気のせいではない。
それに何かを思う間もなく「ベックマン」と呼ばれ、フランシスカはコルトーに視線を戻した。
「お前はルーデック様のところへ行け、あのお方のも相変わらず不備が多い。というか、お前をよこさせるためにわざとやってんじゃないだろうなあの色ボケジジイ」
眼前に書類の束が突き出されている。コルトーはすでにフランシスカのほうを見てはいなかった。フランシスカは「承知しました」と言ってそれを受け取ると、足早に財務室を出た。
王の側役を務めるルーデックは、しわだらけの顔をくしゃりとさせて人懐こい笑みを浮かべた。
「いやあ、年を取ると若いころのようにはいかんな」
言いながら、受け取った書類に「どれ」と言って目を落とす。そんな彼の姿にフランシスカが思うのは、白々しい、ということだ。
年を取ったと言うのなら地位を退いて隠居すればいいものを。そうせずにいるのは責任感とか後身がいないとか、そういった理由ではないことをフランシスカは知っている。
「ふむう……年を取ると目も悪くなるものだ。すまんが、なんと書いてあるのか教えてくれないかね」
ルーデックがそう言ってフランシスカを傍へ呼ぶ。フランシスカは少々呆れ心地ながらも傍へ寄り、隣に立つと腰を折ってルーデックが指す場所を覗き込んだ。
その隙にルーデックの手が動いたのを、フランシスカは見逃していなかった。
「ルーデック様」
「む」
フランシスカが後ろ手にルーデックの腕を押さえ付ける。彼の手はフランシスカの背後に回され、腰に触れる直前であった。
「フランシスカ嬢は手強いな」
「奥様からルーデック様の手口は全て教え込まれておりますので」
「いや、あれも抜かりのないことだ」
手をひっこめながら、ルーデックはいたずらが見つかった子どものように笑ってみせる。幼いときからこの老人のことを知っているフランシスカは、ただただ呆れるばかりだった。
彼が今の地位を退かない理由。それは若いころからこういうことを繰り返しては妻に叱られているため、隠居してひがな一日妻と顔を合わせているのが気まずいというだけなのだ。
「しかしあの小さかったフランシスカ嬢がこんなに立派になるとは、どうりで私も老いるものだよ」
しみじみと言ったルーデックに、フランシスカはまた始まったと思う。この老人はフランシスカと顔を合わせる度にこんなことを言うのだ。
彼はフランシスカを女性だからと侮りはしない。しかし、こうしてあの小さかったフランシスカ嬢扱いしかされないのは、侮られているのと同義なのだろう。いや、侮られて当然なのかもしれない。ルーデックは女性関係こそだらしないものの、優れた調整能力で長年王の側役として勤めてきた人物だ。
そんなルーデックに比べれば、自分はまだまだ未熟な小娘だ。努力だって、まだ足りていない。
「コルトーは今日も軍務卿殿に怒り狂っていたかね?」
沈みかけた思考を、ルーデックの声が引き上げる。フランシスカは慌てて「はい」と答えた。
「今日はジャンベール様がいらっしゃいませんから、余計に。……それと、ルーデック様にも腹を立てていらっしゃいました、相変わらず不備が多い、と」
「ははは、いや、毎度申し訳ないと伝えておいてくれ」
「……伝えておきます」
「しかしあの二人を見ていると、友人関係には様々な形があるのだと思うよ。トーマスとディルクなど学生時代から今まで、喧嘩ひとつしなかったというのに」
なぜそこでジャンベールと父の話が出てくるのか? 思わず「ジャンベール様と父ですか?」と言うと、ルーデックは意外そうな顔をした。
「おや、トーマスに聞かされていないか。トーマスとディルクは学園のころからの学友なのだよ」
「いえ、父からは何も……そうだったのですか」
「なるほど、トーマスはきっと、君が気にすると思って言わなかったのだろうね」
もしかしてジャンベールが気にかけてくれるのは、それが理由なのだろうか。もやりとした不安が頭にたちこめる。
「さあ、できた。コルトーに届けておくれ」
ルーデックの声に、はっと思考を中断する。目の前には、差し出された書類。ルーデックは口を動かしている間、手もしっかり動かしていたのだ。
女性関係はだらしないルーデックといい、短気なコルトーといい、仕事のできる人間はどうしてクセのある人間が多いのだろうか。何か理不尽な思いを感じつつ、フランシスカはルーデックの差し出す書類を受け取った。
部屋を出たところでこちらに歩いてくる人物が見えて、フランシスカは廊下の端へ寄った。それから姿勢を低くして前を通り過ぎるのを待つ。
しかしその人物はフランシスカの前で立ち止まり、親しげに呼びかけてきた。
「やあフランシスカ嬢、ああいや、今はベックマンと呼ぶべきだったね」
姿勢を低くしたフランシスカを見下ろすのは軍服に身を包んだゲオルクだ。後ろの従者も今日は軍服姿である。
「君もルーデック殿を訪ねてきたのかい?」
「はい、書類を受け取りに」
「なるほど書類か、ルーデック殿のことだからまた書類に不備を出してコルトーを怒らせたのだろうね。かくいう俺も、ルーデック殿の尻拭いだ」
ゲオルクはそう言って手に持った書類を揺らしてみせた。ルーデックはだれかれかまわず、どこでも同じように困らせているらしい。
ルーデックを擁護するべきか、ゲオルクに同調するべきか。フランシスカは迷って、無難に「尻拭い、ですか」とゲオルクの言葉尻を繰り返した。
するとゲオルクは急に眉をひそめてじっと見つめてくる。
「ところで君、顔色がよくないけれど」
しまった、と思うと反射的に顔を伏せた。
今は勤務中だ。つまり、化粧をしていない。休日に会うときはアンネに化粧で目の下のくまなどを隠してもらっていたが、この場ではそれがさらされてしまっているのだ。
先日ラフーケに絡まれたことを思い出す。顔色が悪いのは醜いだけだ、と。顔色がよくないことなどフランシスカにとっては日常的だが、ゲオルクにはさぞ見苦しいものなのだろう。あるいは偽りなくありたいと言っておきながら、化粧で偽っていたことを不快に思ったのか。
なにしろ不快にさせてしまったことは間違いない。
「見苦しいものを殿下の目に入れてしまいました、すみません」
「いや、見苦しいなどとは思っていないよ。それより、きちんと眠れているのか? 食事は? 昼食は何をとる予定でいる? 帰りは遅くなっていないか? 夕食も適当に食べていないだろうな?」
「え? あ、あの……?」
立て続けに降ってきた質問に、フランシスカは思わず視線を上げた。ゲオルクはやはり眉根を寄せているが、それは不快とは別の感情を示しているように見える気がした。かといって、では何なのか、というのはわからないのだが。
ひとまずその正体は置いておいて、ゲオルクの質問を頭の中で繰り返す。
きちんと眠れているかといえば眠れてはいないし、昼食をとる予定もない。そんな暇はないし、食欲もないのだ。いつも最後まで財務室に残っているから、帰りは毎日やや遅くなっている。そして夕食は、用意された食事は適当ではないだろうが、時間をかけたくないので早食いになっているという点では適当に食べているのかもしれない。
しかしなぜだか、そのまま答えることをためらってしまう。そんなことを言えば、なにかもっと面倒な事態になる気がする。例えばどうして眠れないのかとか、どうして食欲がないのかとか、更なる質問の大波が予感されてしまうのだ。
とはいえゲオルクを前に嘘をつくことも抵抗を感じると、フランシスカはとっさに何も答えることができないのだった。
「あの、体調に問題はありませんから」
少し考えて、そう答えた。ゲオルクの問いに暗に答えつつ、それでも問題はないと告げることができる、我ながら最適の答えだ。しかしそう思ってほっとしたのも束の間だった。
ゲオルクがなおも眉根を寄せた表情でフランシスカに迫ってきたからだ。
「それは君が若いからだよ、けれど若いからといって無茶を続けていてはそれが蓄積して、ある日突然倒れたりするんだ。そんなことになっては……」
「殿下」
ついに一歩前に踏み出してきたゲオルクを後ろの従者が冷静に引き止めた。ぴたりと言葉を止めたゲオルクに、小さく「そろそろ」と言う。ゲオルクは彼の言葉にはっとした顔をして、とりつくろうように笑みを浮かべた。
「ああすまない、すっかり引き止めてしまったね」
「い、いいえ……」
「けれど、君の顔色は本当によくない。昼食をちゃんと食べて、はやく帰って、きちんと肉と野菜を食べて、しっかり眠るんだよ。ああでも、きちんと肉と野菜を食べてとは言ったけれど食べてすぐに眠るのはよくない、横になる程度ならいいけれど眠ってしまうと胃腸に負担がかかるし、深い眠りにも……」
「殿下」
再度従者が引き止める。ゲオルクは再びはっとして、またとりつくろうように笑みを浮かべた。あるいはそれは、ごまかすようにも見えた。
「いや、たびたびすまないな、もう何も言おうとせずに別れたほうがいいみたいだ、それじゃあ」
と言って、ゲオルクはフランシスカの返事を待たずに背を向ける。そうして扉の向こうへ去るのを、フランシスカは頭を下げて見送った。
――やはり、ゲオルクという人間を理解するのは、困難をきわめることだ。
分かりきっていることを何度も突きつけられるのは辛いものがある。けれど、辛いからといって立ち止まっていてはいけない。
そう思うとすぐに手の中の書類を思い出して、フランシスカは財務室へ戻る廊下を足早に歩き出した。




