(四)
「うまくいったのですね」
目の前の自分の顔に確かめる。
「ああ。君のお陰で」
私は答えながら寝台の側を離れ、慣れた動作で部屋の隅に置いてあった椅子を持って戻ってきた。
衾の中から天蓋を仰ぎ見る。
安堵した、と同時に密儀の成功に驚いた。
本当に、私は彼に——彼は私になったのだ。
彼の書き残した手法をなぞっただけだが、そもそもその手法を発見した知的探究心に感服する。
「伯爵の研究の成果です」
賞賛すると、私は当然だとばかりに不遜な笑みを浮かべた。
「しかし君が用意した苦礬柘榴石も良かった。美味かったな」
「ええ。とても」
気の遠くなるほどの美味だった。
一度味わえば舌に残って忘れられない。中毒性がある。
思い出し、思わず唇を舐めてみる。
当然ながらもう同じ味はしない。
あれだけ美味い石を見つけてくるとは、やはりあの宝石商は大した目利きだったようだ。
「どれくらい眠っていたのだ? 私は」
「百年ほど」
「思ったより早かったな」
残念そうに私が言う。
「寂しいことを仰いますね。僕は早くお会いしたかったのですよ」
そう伝えると、私は眉を顰めた。
「君の人生を狂わせた男だぞ。憎いとは思わないのか」
「どうして憎むことなどできましょう。だって、貴方は僕の半身、僕自身なのですから」
愛しさこそ募らせても、憎しみなど微塵も抱かない。
私が私でしかなかったら、高い所から飛び降りてこの姿形を壊してしまいたいと願ったかもしれない。
私は私でなくなって、私になる。
彼は彼でなくなって、私になる。
だからこそ、私は自分の生を受け入れたのだ。
「貴方のために私が在る。貴方の身を賜れる。それに優る幸福などありはしません」
「幸福、かね?」
問われて私は頷いた。
「心底。このまますぐに眠りたいほどに」
そう。私の仕事はまだ終わっていない。
K伯爵からこの身体を引き継ぎ、眠りにつく。
それが私が生まれた理由。この夜まで生きてきた理由。
私は寝台の横の抽斗を開けた。中にはびっしりとコルクで栓をした小瓶が収納されている。その中の一つを取り出し、蓋を開けた。一度光に透かし、匂いを嗅ぐ。小さく頷いて、小瓶を私に差し出した。受け取って小瓶を傾けると、中身がさらさらと片寄った。入っているのは暗紫色の砂状のもの。
「紫水晶の粉薬だ。飲むといい。ゆっくりと長い眠りへ沈んで行ける」
「すぐ眠らせてはくれないのですか」
「おや。私に会いたかったというのはお世辞だったのかね」
「まさか、そんなことはありません」
「なら、もう少し付き合ってくれても良かろう? 眠りはいくら待ったとて、必ずやって来るのだから」
椅子に足を組んで座り、探るような目でこちらを見てくる私。挑発的で、蠱惑的な。そんな表情、私にはできない。
——もう、私は私のものではないのだ。
私に与えられる供は眠りだけ。余計なものに煩わされることもなくなる。K伯爵から眠りを引き継ぎ、この身体を守る。それはずっと憧れた名誉であるはずだ。なのに何故か、こわい。
「…百年の眠りは如何でしたか」
「何も感じない。静かなものだよ」
「…夢は見ないのですか」
「さて、どうだろう。憶えはないな」
流石に研究者らしい簡明な答え。しかし問うている方は、そういう答えが欲しいわけではないのだ。幕切れに顔を覗かせた臆病を隠すために瑣末な問いを重ねているに過ぎない。本当に訊きたいことは、実に愚かだ。
「…僕が眠るまで、側を離れずにいてくださいますか」
そう問う声は微かに震えた。
きっと痛くも苦しくもないだろうが、何せ未知の経験だ。躊躇はないが不安はある。意識が閉じるそのときまで一人でいるのは厭だった。
「勿論だ」
自分の喉からは聞いたことのない頼り甲斐のある声音で、私は私の望む答えをくれる。お蔭で不安が少し和らいだ。
私は小瓶の紫水晶を呷る。唾液と共に嚥下した。
これで、役目が果たせる。
「夜伽話でもしてやろうか」
そう尋ねる私に首を振る。
「ありがたいお申し出ですが、貴方の手を煩わせるわけには参りません」
「だが、ただ寝入りを待つのも退屈だろう」
妙に明るいその口振り。実のところは自分の退屈を案じているだけなのかもしれない。結局私はどこまでもこの人のために在るに過ぎないのだ。
「でしたら、僕の方からお話をして差し上げますよ。それなら、眠ったかどうかも判りましょう?」
そう提案すると、私は破顔した。
「では、君の——否、私の幸福な人生とやらについて聞かせてもらおう」