(二)
眼下には薄ら白い見慣れたはずの街。
しかし私が見ているのは見慣れぬ雪化粧の街。
犇めき合う家々の屋根も、僅かな隙間に走る路地も、いつもとは違って見える。
少しだけ積もった雪のせいだ。月の光を反射して、朦朧明るい。
雪は先刻降るのを止めた。心做しか、静かになった。
雪の降るときに立つ微かな音がしないからだろうか。それとも雪が皆を眠りにつかせてしまったのだろうか。
何れにしても、視界を遮るものがないのはありがたい。
もうすぐ迎えが来るだろう。
あの人の許へ急がなければ。
私は窓を開けて夜空を見つめ、耳を澄ます。
星原の彼方から響く音。
蹄の音。
目を凝らせば、星に紛れてちらちらと光るものがある。
襲歩の足が分厚い闇を蹴り上げるせいで火花が散っているのだ。
近づく音と共に現れたのは、銀白の四肢と体躯に大きな翼。
その美しい獣は窓辺の私の前で足を止めた。
「お迎えご苦労」
宵闇を駆けてきた天馬の首を優しく叩いてその功を労う。褒美に片手一杯に掬った青宝玉を食べさせる。
行儀よく褒美を頂戴する様を見届けて、私は濡羽色の外套を翻し、天馬の背に跨がった。
「さあ、連れて行っておくれ」
勇ましい嘶きと共に、天馬は夜陰を駆け上がる。
早くあの人に会わなければ。
早くあの人を起こさなければ。
雪を降らせた雲は過ぎ去って、天球と私の間を遮るものは何もない。
星の瞬きは冴え、一等星はいつもより尚明るい。
空は澄み、オリオン座の三つ星の下にも小さな三つ星が見えるくらい。
ベテルギウスの暗い赤が、懐の柘榴石にも似て今は好ましい。
山羊座と水瓶座の間の方角を目指すのが近道だが、生憎この季節の夜には見えない。蟹座と獅子座の間から急降下するしかない。
——疾く、疾く。
——駆けよ、駆けよ。
透明な手綱を握り、天馬から振り落とされぬよう身を低くする。
白い翼を翻し、天馬は地上へ向けて旋回する。
向かい風に眇めた目は、細い視界の中にあの人の館を捉えた。
悲願のときはもうすぐだ。
滑空を終え、羽搏きと共に天馬は館の庭に着陸した。
下馬し、送迎の礼に再び青宝石の欠片を与える。この馬の好物とは聞いていたが、本当に旨そうに食むものだ。
一頻り食べ終えて満足すると、天馬は庭の奥にある黒い森へと走り去った。
あの天馬はこの館の主、K伯爵の愛馬である。
よく馴らされており、忠実に主人の意を汲む。K伯爵は乗馬を好んでいたらしく、かつては敷地内に馬場もあったという。彼の馬が私の許へ真っ直ぐにやって来たことは流石と言えよう。
さて、と私は眼前に聳える館を仰ぎ見た。
月明かりの下、広い森に抱かれた石造りの館の壁は、すっかり黝んでしまっている。時の流れに晒されて、元の色など忘れ去られてしまったに違いない。その有様に、主の孤独の長さを思い知る。
「お待たせいたしました。愈々、御許へ参上します」
首にかけた紐を手繰り寄せ、鈍い金色に光るものを取り出した。幼い頃から肌身離さず常に持ち歩いている、代々我が家に受け継がれてきた秘密の鍵だ。
閉ざされた館の扉は、主と同じく深い眠りについているかのよう。古びたその鍵穴に、鍵をそっと射し込んだ。鍵の凹凸が穴の中で噛み合う感触。そのまま右へ持ち手を廻す。
——嗚呼、ついに。
鼓動が煩い。
分厚い扉を押し開ける。
隙間から覗く暗闇。
漂う甘やかな香り。
その中へ、迷わず一歩踏み入った。