目覚めの時
「マチルダ・サントーロが日本にいる?」
その言葉を聞いた時、極悪マフィア、サントーロファミリーへの襲撃計画を立てていたヴィオレッタ・ガネーロは、耳を疑った。ヴィオレッタは電話口に、その情報をよこした日本の協力者、江崎牧雄に問いかける。
「なんで日本なんだ。確かにあの野郎最近ここらで見てなかったが、サントーロファミリーは今こっちで抗争中なんだぞ」
「そのはずなんですが、どうも今私の保護している少女が目当てらしく、追われているところなんです。どうでしょう、ファットマン。お力添えを願えませんか?」
江崎が助けを乞う。江崎は裏社会の人間専門の弁護士で、ヴィオレッタはかつてサントーロファミリーに追われていたとき、江崎に助けられた事があった。あの時ヴィオレッタは家族も、当時していた研究成果も、すべてを失った。だが、江崎が居なければ命すら失っていただろう。お互いが相手のtありないところを補えるため、それ以来協力関係になっているのだ。
「わかった!あんたの頼みだ、力を貸そう」
ヴィオレッタは江崎の要請を受け入れる。助けられた仮もあるし、何かと有能な男だ、これからも頼りにさせてもらうこともあるだろう。そして何より、すべてを奪う指示を出したサンロートファミリーのボス、マチルダ・サンロートと、実行犯であるジョン・ティターノに復讐するチャンスだ。
「助かります。瑠璃も喜んでいるようです。あと数日は逃げおおせられると思うのですが、だんだん逃げ場もなくなってきましてね。奴らはこの国でお構いなしに銃を持ち歩いています。気を付けてください」
「おうよ、任せとけ!ファットマンの名に懸けて、守ってやるぜ」
ファットマン。身の丈2メートル、体重150キロ超のヴィオレッタについたとおり名だ。かつて自分で開発した特殊な錠剤を用い、肉体を一時的に超活性化させて戦う様子から、畏怖を込めてそう呼ばれている。ヴィオレッタは情報交換を終え、遠征の準備を始める。
「ボス!目的地はどこですか?」
ヴィオレッタは、せわしなく手を動かしながら、部下に言い放つ。
「日本の大阪だ!」
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大阪某所、ピザ専門店「エーデル」は、今日も大勢の客であふれていた。外国語が話せる店員がおり、味もおいしいということで二月前に海外メディアの日本特集番組の取材を受け、それ以来、観光地の近くに位置することもあり、客足は増える一方なのだ。
最近やたらと忙しくなったことに嬉しい悲鳴を上げる店主とは裏腹に、ウェイトレスとして働かされているエレーナは、内心不満を募らせていた。というのも、この店でチーフシェフとして働く母にあこがれ、そばで修業をするためにここで働いているのに、英語が堪能なのはエレーナと母しかいないので、最近はいつもウェイトレスをさせられているのだ。もともとピザ職人として雇われた身として現状が面白くないエレーナは、むしゃくしゃした気持ちで給仕をしていた。窓際の席の老人に英語で呼びかけられて、しぶしぶオーダーを受けに行く。顔に傷のある、体格のいい老人だった。
「お嬢さん、一番おすすめのピザを頼むよ」
「承りました」
「…君、何か武術をやっているね?」
「え?どうして…」
「いや、昔取った杵柄でね。歩き方でわかるんだよ。ふむ、剣道かな」
「そんなことまでわかるんですか」
「はっはっはっ、すまんね、勘だ。さすがに得物までは分からない。いやあ、言ってみるものだな」
「んぅ…勘って」
もやもやしてるところに驚かされて茶化されて、複雑な気持ちになりながらオーダーを厨房に伝える。客に呼ばれることがなかったのでテレビで流れる連続猟奇殺人の臨時ニュースを眺めながらこっそり仕事をサボり、しばらくして出てきたピザを老人の席に持っていく。
「お待たせいたしました。本日のピザ、明太子とジャガイモのピザになっております」
「ほおぅ、どれどれ」
老人が早速食べようとしたとき、店の前の道で銃声が轟いて窓カラスが割れた。食事客がパニックに陥る中、老人は素早くエレーナを窓際の壁の裏に引き込むと、腕でかばいつつ、通りを覗く。エレーナも興味が湧いて、老人の後ろから通りを覗いた。すると、長身の男が、小柄な少女の手を引いて走っていた。スーツを着込み、サングラスをかけ、大きなカバンを抱えている。少女の方も、風呂敷で包まれた身の丈ほどもある大きな板を背負っていた。二人のあとに続き、数人の男が拳銃を撃ちながら走ってきた。
「待ちやがれ!その娘を渡せ!クソ、お前らこのまま追い続けろ!俺は別働隊を手配する」
追手の中のリーダー格らしき白いスーツにボルサリーノ帽のいかにもマフィアな男が、英語で手早く追撃の指揮をして去っていく。
「お嬢さん、頼んでおいて申し訳ないが、急用ができてしまった。お代はここに置くよ」
「えっ?ちょ、おじいさん?」
老人は手早く荷物をまとめると、一万円札を机において店を飛び出し、乗ってきたレンタル自転車で走り出した。逃げた二人の方へ向かう老人を見てエレーナはしばらく唖然としていたが、さっきの光景を思い出し、私も助けに行こうかと考える。武術には多少自身がある。だが、銃の恐怖に怖気づいてしまっていた。
「…私も行こう」
それでも、決心を固める。銃は怖い。でも、追われていたあの女の子のほうが怖いはずだ。武士道的にも、見捨てるのは道義に反している。
エレーナはエプロンを脱ぎ捨てて、老人の後を追った。
ーーーーー
江崎は裏路地の室外機の後ろで身を屈め、マフィアの追手から隠れていた。江崎の隣には、まだ12歳の少女が腰を下ろしている。江崎は室外機の隙間から様子を窺い、一応の安全を確認してから少女…削刃やすりに聞く。
「やすりちゃん、足は大丈夫かい?」
首を振るやすりを見て、江崎はやすりの足首を確認する。先程逃げる途中に転倒し、足をひねってしまったのだ。足は大きく晴れ上がっている。これでは走れないだろう。
「仕方ない。少しここで隠れていよう」
やすりは足首をさすりながら、少し怯えたような表情で頷いた。年相応の反応とは裏腹に、やすりは一癖も二癖もある少女だった。チラリと、やすりの前の地面に倒してある大きな板を見る。大きな風呂敷で包まれた板は、巨大なおろし金だ。風呂敷を取ったそれはところどころ赤く染まり、禍々しい凶器に見える。
事実、これは凶器だ。なにせ彼女は、巷で話題の連続猟奇殺人事件の犯人なのだ。警察では、猟奇擦殺事件という名前で捜査されているその事件は、ある夫婦の亡骸が発見された事から始まった。犠牲者である削刃夫妻は縛り上げられ、全身のいたるところがすりおろされた状態で、家の中で見つかった。そして、鍵のかけられた家からはそのひとり娘である少女が行方不明になっているのだ。世間では少女はもう亡くなっていると思われているが、少女はフラフラと夜の街を歩き回っては人を擦りおろしていた。それを見たアメリカのマフィア、サンロートファミリーに目をつけられ、監禁されていたのだ。そして、サンロートファミリーを調べていた江崎は、サンロートファミリーに捕まっていた彼女を半ば偶然助け出したのだが、結果、江崎も秘密を知ってしまい、二人して追われることになった、というのが事の顛末。
本当に面倒な事になったと、江崎はフランス人形の瑠璃を撫でる。かつて無くなった妹の忘れ形見だった。不確かな状態でヴィオレッタに連絡するべきではないと思って連絡をためらったのが仇になった。電話をしたのは一昨日なので、そろそろ到着した連絡があってもいいころなのだが、肝心の連絡はない。江崎としては、追手が見失ってる間に無理にでも距離を放したいところだった。というのも、ここは袋小路になっていて、これ以上先がないのだ。ここから逃げるとしたら、十mほど戻って路地を曲がらなければならない。だが、その通路から追手であるサントーロファミリーの男たちが現れた。
「おい、どこにもいねえぞ。もう遠くへ逃げたんじゃねえか?」
「いや、この辺りのはずだ。先回りしてた別動隊から遭遇していないと連絡が来た」
男たちは英語で会話しながら、路地をこちらに向かって歩きながら話している。江崎はやすりに静かにするようにジェスチャーをしつつ、策を考える。とはいえ、袋小路で入口からは六人もの拳銃を構えた男が迫ってきている。万事休すか、そう思った時、とても陽気な英語が、裏路地に響き渡った。
「おお!あなた方は英語を喋れるのですか!いやあ、英語が通じる人がいてくれるとは、私はラッキーですなぁ。実は道に迷ってしまいまして、お尋ねしたいのですが…」
現れたのは、自転車を押した老人だった。驚いたマフィアが集まっていてよく見えないが、見たところ旅行者のようだ。拳銃を持った男に平然と話しかける老人に、江崎は肝を抜かれていた。
「なんだてめぇ?」
「おい、どうする?」
「処理する死体が増えただけだ、気にするな」
マフィアの一人が、老人に銃を突きつける。
「血の気が多い若造め、そんなんだからあの二人を見失うのだ」
「んだとてめぇ!」
パン!乾いた銃声。そして響き渡る、青年の悲鳴。江崎は横目にやすりを見る。やすりは少し興奮したようで、室外機の脇から老人の方を覗いている。彼女は重度の悲鳴フェチ、悲鳴中毒なのだ。悲鳴を聞くために、今までで一番良い悲鳴を上げるやり方…巨大おろし金で相手をすりおろす…で、連続猟奇殺人犯になってしまったくらいに重症なのだ。老人は撃たれる寸前に銃を握る腕をひねり、そのまま肘を極めてへし折っていた。状況を飲み込んだマフィアの男たちが動き出す。老人は腕を折った男を突き飛ばして、機敏な動きで次の男に手をかける。老人が一人一人無力化していく中、離れていたマフィアの男達は距離を取りながら老人に狙いを定めて、視界の外に消えていく。老人はそれを見て、撃てばマフィアの仲間が危ない状況を作りつつ近くにいるマフィアのメンバーを無力化し、近くにいる最後の一人を盾にして、盾にしたマフィアからひったくった銃を距離を取った男たちに向ける。にらみ合いの構図になったようだが、ここからだと老人と盾にされているマフィアしか見えない。人数の減ったマフィア、謎の老人、今の自分、全てを総括して最善の一手を考ていると、今度は威勢のいい掛け声が響いた。
「えやあああ!」
バッチンとものすごい音と悲鳴とともに、老人が視界から消えた。江崎はチラリとやすりを見る。やすりは恍惚とした表情を浮かべ、悲鳴に聞き入っていた。やすりが変な気を起こさないように祈る。マフィアの男たちが逃げていく声が聞こえ、死角だった場所から竹刀を持った若い女性と老人が現れる。
「君、なかなか無茶をするね」
「あ、あなたのせいです。あなたが無茶をするから、私まで」
「そういう人を放っておけないところ、気に入ったよ。で、ここいらにいるんだろう?敵じゃない、出てきてくれないか?」
二人は英語で少し会話をした後、老人が拳銃を地面に置く。まっすぐこちらを向いたところを見ると、どうやら、この路地にいることに気がついていたようだ。敵…にしては、害意を感じない。さっきの戦闘を見る限り、信用して良さそうだ。
「お二人のおかげで助かりました、ありがとうございます」
二人に通じるように、江崎も英語で自己紹介をする。もちろん、やすりのことはある程度隠して。
「先程の奴らを見ればお分かりになるかもしれませんが、マフィアに目をつけられてしまいまして、追われています。ぶしつけなお願いで恐縮なのですが、私たち二人では、とても逃げ切れません。あなた方は腕が立つ、私たちを守ってはいただけませんか?」
「私は元よりそのつもりだが、君は?」
「わ、私もお手伝いします」
「…引くなら今だよ?このまま続けたら、あのマフィア共に目をつけられる。最悪、撃たれて死ぬ。今ならまだ、無関係に戻れるかもしれない」
老人は女性に問う。女性は少し悩んで、口を開いた。
「もう一人叩いちゃったし、私もこのまま行きます。それに、あの子、かわいそうだし。武士道的に、見捨てるのは義に反します」
「そうか、覚悟ができてるならいいがね。私はエリックというものだ。この通り老いぼれだが、昔は傭兵として活動していた。役立てるように頑張らせてもらおう」
「エレーナです、よろしくお願いします」
2人の自己紹介を聞いていたやすりは、不安そうに首を傾げる。唯一英語のわからない彼女は、完全に置いてけぼりだ。
「お名前は?」
エレーナがやすりに日本語で聞いた。二人は言葉をかわし、次第に仲良さげに話し続ける。江崎はやすりの関心がエレーナ本人にある事を祈りながら、かかってきた電話に出る。
ーーーーー
のどかな町だった。空港近くのレンタカーで借りたSUVで道を急ぎつつ、ヴィオレッタは江崎の姿を探していた。連絡では、二人の用心棒とともにこの辺りに潜伏しているらしい。送られてきた地図を頼りに進んでいくと、近くで銃声が聞こえた。断続的に続く銃声を追って車を走らせると、正面の十字路を、二台の黒いセダンが横切っていった。その窓に、白いスーツにボルサリーノ帽の男…サントーロファミリーの幹部で、実働部隊を指揮するジョン・ティターノの姿を見て取った。江崎に電話をかける。
「江崎、どこにいる?近くまで来たぞ」
「わかりました、今から通りに出ます。うおっ?!」
電話の奥から、マフィアのメンバーらしき怒号と銃声が聞こえる。電話外から聞こえる銃声から判断するに、どうやら直進した先にいるようだ。こっちに逃げてきてくれれは、拾ってやれるかもしれない。アクセルを踏み込み、信号を無視して直進する。すると、少し先の路地から、少女を背負った若い女性と、大荷物の江崎が飛び出してきた。
「江崎!乗れ!」
路地の前に急停車して、江崎に声をかける。
「ファットマン!助かった、エリックさん、こっちです!」
女性と少女が後部座席に飛び込み、江崎が荷物を適当に投げ込んで、運転を交代する。ファットマンは助手席に移り、時間稼ぎに応戦してから走ってくるエリックと呼ばれた老人が後部座席に乗り込むのを確認して、江崎に合図をする。SUVが全速力で走り出す。
「助かったぁ。やすりちゃん大丈夫?怖かったね」
女性がため息をつき、涙目の少女を抱きしめる。エリックは鋭い目つきで後方を警戒する。
「江崎、どこに逃げる?」
「港です。港の私のセーフハウスに船があります、それで逃げましょう」
「ふむ、ただで行かせてはくれなそうだな」
エリックが後ろを見ながらそう呟く。ファットマンも後ろを見て、江崎はミラーで確認する。黒いセダンが二台。その後方に、猛スピードで追いついてくるセダンが更に二台。
「エリック、これを使ってくれ。江崎もこれを」
ファットマンは、もしものときのために密輸したアサルトライフルをエリックに、拳銃を江崎に渡す。
「ありがたく使わせてもらうが、君はどうする、ファットマン」
「俺は大丈夫だ」
「来ます!やすりちゃん!エレーナさん!伏せてください!」
江崎の声の直後に、後ろから銃声が響く。エレーナがやすりを庇うように座席に伏せる。短機関銃の弾丸が、SUVに襲いかかる。二人の悲鳴を聞きながら、エリックは窓を開けて銃を突き出し応戦する。
「エリック、あっちのやつを頼む」
そう言い残すと、ヴィオレッタは錠剤を口に含み、ドアを開けて、もう片方の車めがけて飛び出した。空中で錠剤を噛み砕き、自身の肉体を兵器に変換する。鋼鉄の如く鈍く輝くヴィオレッタの肉体は、今や銃弾を弾く鉄塊へと変貌していた。弾丸をものともせずセダンのボンネットに着地すると、そのままボンネットを叩き潰し、エンジンを破壊する。制動を欠いたセダンは煙を上げながら急減速していく。ヴィオレッタは車から飛び、SUVの屋根の上に着地する。エリックも、ヴィオレッタの方に気が向き銃撃が弱くなった間に狙いを定め、もう一台のセダンのタイヤを撃ち抜いてスピンさせていた。
「恐ろしい力だな、本当に人間か?」
「あんたこそ、よくあのタイヤを狙撃できるな」
ファットマンはエリックが僅かに開けたドアを押し開け、助手席に戻ってくる。
「二人とも、まだ来るようです。引き続きお願いします。やすりちゃん、エレーナさん、もうしばらく伏せていてください」
エレーナはやすりを抱きしめ、もう一度伏せる。やすりも震えているが、エレーナを抱きしめ、懸命に恐怖に耐えている。江崎はアクセルを緩めず、大通りを爆走する。後ろからついてくる無数のセダンをヴィオレッタとエリックが抑え込み、どうにか港までたどり着く。穴だらけになったSUVは港に入ったが、タイヤに弾丸を受けて減速し始める。江崎はどうにか車を制御して、積み重なったコンテナの後ろに止める。
「車はもうだめです。こっちです!船まで走ってください」
江崎の先導で、一行は港を駆ける。だが、コンテナに挟まれた広めの通路のような場所で、前後の入り口をサンロートファミリーのマフィアに抑えられてしまった。ゾロゾロとマフィアの男たちが現れて、5人は囲まれてしまう。サンロートファミリーの幹部、ジョンが、取り巻きを連れて現れる。
「随分遠くまで逃げるじゃねぇか、弁護士さん。女の子を返してもらおうか」
「それはできない」
江崎の言葉を聞いて、ヴィオレッタが盾になるように立ちふさがる。
「そうか、残念だよ。それでは、この場で最終試験を行おう」
ジョンが右手を上げる。ヴィオレッタがそれを見て突撃を敢行した。ジョンは口に錠剤を放り込むと、ヴィオレッタと同じく身体が鋼質化し、突撃を正面から受け止める。
「くくく、久しぶりだな、ファットマン。いつまでもお前だけの力だと思ったか?」
「なんだと!?」
ジョンはヴィオレッタに頭突きを食らわせる。ヴィオレッタもそれに応戦し、ジョンの顔を殴りつける。二人はしばらく殴り合ったが、決定打にかけることに気が付いてやがてお互いに距離を取る。
「ッチ、完全再現は遠いか。まあいい。主役は俺じゃない」
ジョンはひび割れた顔を抑え、無傷のヴィオレッタを睨んでつぶやいた。突然の銃声と悲鳴。エリックが反応して、左のコンテナ上の狙撃手を狙撃する。狙撃手は倒れたが、放たれた注射器はしっかりとやすりの腰に命中していた。
「やすりちゃん!?」
エレーナが、身体を震わせてうずくまるやすりを確認する。全身が痙攣し、ものすごく顔色が悪い。エレーナは注射器を抜いて必死に声をかけるが、言葉が届いている様子はない。
「そいつは特性だ。身体を強化しつつ、理性の一部を吹っ飛ばしてくれる。さあ、お楽しみの始まりだぜ」
サンロートファミリーのマフィアたちは、蜘蛛の子を散らすように撤退していく。ヴィオレッタが追おうとした時、やすりがふらふらと立ち上がった。
「やすりちゃん!やすりちゃん!!」
エレーナが呼びかけると、やすりはうつろな目でエレーナを見た。その目に浮かんだ狂気の色に、エレーナは身をすくめてしまう。やすりはあたりを一瞥すると、不敵な笑みを浮かべてジャンプした。やすりは高く舞い上がり、壊れかけのSUVの屋根に頭から落ちて行く。豪快な音を立ててSUVの天井がゆがみ、ほどなくして、爆炎を上げながら粉々に砕け散る。その中から巨大なおろし金をもって歩み出るやすりは、裏社会で生きるヴィオレッタや江崎、ベテランの傭兵であるエリックにすら、鮮明な恐怖を植え付けるほどの濃密な殺気を纏っていた。
「ひっ…」
静寂が続いた中、エレーナが恐怖に負けて小さな悲鳴を上げた。それを聴いたやすりは、エレーナへむけて満面の笑みを浮かべる。
「あなたの鳴き声、もっと聞かせて?」
次の瞬間、弾丸のような速度でやすりがエレーナに襲い掛かる。エレーナはとっさに竹刀でおろし金を受けるが、その身体は軽々と宙を舞い、絶叫とともにコンテナにたたきつけられる。
「もっと、もっと!」
やすりが追撃に飛ぶ。そこへヴィオレッタが割り込んだ。やすりはヴィオレッタをすり抜けようと試みるが、ヴィオレッタはそれを許さない。二人は互角に打ち合い、鋼鉄の嵐が巻き起こる。あまりに早く重い打ち合いに、江崎もエリックも手を出すことができなかった。エリックはこの隙にエレーナを助け起こし、江崎はエレーナが落とした注射器を拾う。
「動けるか?」
「なんとか、いけます」
エレーナが立ち上がる。
「江崎、何か策は?」
「あの薬の大本を作ったのはファットマンのはずです。私のセーフハウスに彼が行けば、可能性はあるかもしれません。ですが…」
そこで、江崎は言葉を濁す。エリックも察して、エレーナを見る。
「…やります。それしか、あの子を助けられないんでしょう?」
「わかった。可能な限りフォローはしよう」
エリックが銃をリロードしながら言う。
「エレーナ、コンテナの中を逃げ回れ。追いつかれそうになったら私が狙撃してやすりの足を止める。とはいえ、大した時間は稼げないだろう。江崎はファットマンと一緒に行ってくれ」
「二人で大丈夫ですか?」
「ファットマンはここに来るのは初めてだろう。そちらが一刻も早くできることが重要だ」
「…わかりました」
「位置につく。エレーナはあそこだ。江崎、私の合図が見えたら、全員に聞こえる声でファットマンに合図を出してくれ」
三人は分かれて位置につく。エリックが合図を出した。
「ファットマン、離れろ!」
ファットマンが一歩引く。すると、やすりはエレーナにとびかかる。エレーナは全力で走り出す。
「江崎、策があるのか?」
「ああ、こっちだ。私のセーフハウスに君に頼まれた実験道具が一式そろえてある。」
江崎とファットマンはセーフハウスに向かう。しばらく走っていった先のコンテナを江崎が開けると、小さな実験室が現れる。ファットマンは研究用の…脂肪に蓄えたエネルギーを脳に集めて思考力を高める…錠剤を呑み、細マッチョになってから注射器を手に取った。
ーーーーー
エレーナの身体が悲鳴を上げる。すでに鬼ごっこが始まって三分が立っていた。エリックの狙撃は正確で、やすりが防御している間に視線を切り、距離が離せる位置できれいにやすりに防御されている。エレーナは視線が切れた間に距離を稼ぐが、またすぐに距離が埋まってしまう。心臓が破裂しそうになった時、エリックが銃を連射した。エレーナはやすりが防御で動けない間に息をひそめ、様子をうかがう。エリックは銃のリロードをしており、怒ったやすりはエリックに飛び掛かっていった。
「邪魔しないで!」
エリックに向かって振りぬかれたおろし金は、コンテナをひしゃげさせた。エリックはぎりぎりで回避し、コンテナの間に姿をくらます。
「もう!」
やすりはキッとエレーナを睨み、飛びかかってくる。エレーナは逃げるために足を動かすが、常に全力疾走をしていた足はもつれてしまう。
「っつ!」
覚悟した時、目の前に鋼鉄の肉体になったヴィオレッタが割って入った。エレーナは急いで距離を取り、江崎とエリックに合流して作戦をきく。おそらく、チャンスは一回。三人は一につき、チャンスを待った。
ーーーーー
やすりの力は、若干だがヴィオレッタを上回っていた。打ち合うごとに、ヴィオレッタの身体はほんの少しづつ削れていく。だが、そんな中に、ヴィオレッタは活路を見出していた。やすりが大きく振りかぶり、おろし金を叩きつけた。その瞬間、あらかじめ含んでいた薬を片方、かみ砕く。ヴィオレッタの体が爆発的に縮み、おろし金の穴をすり抜ける細さになった。そして、自身の腰のあたりまで聞いた時に、もう片方の薬をかみ砕く。驚異的な膨張と鋼化。おろし金の穴を押し広げ、ヴィオレッタはおろし金を自分の身体に固定する。その一瞬、やすりの動きが止まる。そこへ、エリックと江崎が囲むように飛びかかった。やすりは逃れるために、姿勢を低くする。その目に映ったのはおろし金と地面の隙間から飛び出してくるエレーナの姿だった。エレーナはやすりがおろし金をたたきつけた時、おろし金とヴィオレッタの影になるように、この隙間に潜り込んでいたのだ。かがむ途中のやすりは、エレーナの動きに対応できない。
「ごめんね、やすりちゃん!」
ーーーーー
一週間の月日が流れた。エレーナは相変わらず、ウェイトレスをさせられてため息をついていた。そこへ、江崎が現れる。
「いらっしゃい、江崎さん」
「どうも。この間はありがとうございました」
エレーナがここで仕事がでいるのも、江崎のおかげらしいことは知っていた。どうも、この人は日本ではかなりコネクションがあるらしい。この人の暗躍で、カーチェイスの銃撃戦は暴力団の抗争として方が付き、港の損壊はなかったことになっている。
「やすりちゃんは元気ですか?」
「彼女はファットマンと一緒にアメリカに渡りました。ファットマンとエリックさんが協力して守るそうです。彼女、あなたに謝りたいと言っていましたよ」
やすりに注射をした後、警察のサイレンが聞こえ、江崎の誘導でみんな散りじりに逃げたのだ。そのとき、薬のせいでしばらく目を覚まさないやすりは、江崎が負ぶっていた。それ以来、だれとも音沙汰がなかったのだ。
「そうですか、それなら安心ですね。あの、また、会えるでしょうか」
「状況が落ち着いたら、きっと会えますよ。これ、私の名刺です。あなたも下手をすれば奴らに狙われます。何かあったら連絡を」
そこまで話した時、店長に呼びつけられた。店をほったらかしたことで目をつけられているのだ。エレーナは名刺をしまい。江崎に挨拶をして店の奥へ向かう。
今度、おいしいピザをご馳走してあげよう。
そう心に決めて、エレーナは気持ちを切り替えた。




