第八十七夜 小袖の手
鵜飼には忘れられない思い出がある。
鵜飼がAと出会ったのは、大学生の頃。三年生になったばかりの頃だった。入学までの試験勉強と、二年間の必須科目の講義。それが三年になって緩んだ途端。反動からか、新人コンパに合コンにと出会いのほうに精を出しはじめてしまった。東京に出てきて一人暮らしなのもあったし、急にたがが外れてしまったようだった。
いわゆる飲み会中心のサークルに誘われたこともあって、コンパでは成年も未成年も入り交じって酒を飲んだ。現在ほど拡散力も無かった時代のことだったので、みなこっそりと、しかし堂々と居酒屋に入り浸ったのだ。
そんな中で出会ったのがAだった。
Aは驚くほど美人だった。あまりの美人だったので、その場の男全員が息を呑んだほどである。ところがAは仕方なく連れてこられたという風に装っていて、あきらかに浮いていた。美人なのにもったいないと男たちが代わる代わる声をかけたが、Aはつれない態度だった。
そんなAを無視するように、女子たちは男たちを盛り上げようとした。
Aの態度もあったが、次第に無理矢理でも女子たちによって引き離され、Aはぽつんと隅で静かに酒を飲むばかりになった。
だが、そんなAの姿に鵜飼が惹かれたのは言うまでもない。
鵜飼は何かにつけてAに話しかけた。
かろうじてわかったのは同じ大学であることと、文学部であることだった。
そういえば今日のコンパには文学部のメンバーがいて、その女子たちに連れてこられたようだった。
だがどうも、聞いてみると複雑だった。
まず「文学部に物凄い美人がいる」という噂が立ち、男たちが文学部のメンバーに声をかけ、連れてきてくれるように頼んだのだ。
もちろん女子メンバーたちは快く了解したものの、内心面白くない。
だが、人数あわせの関係でどうしても必要になる。
なだめすかして連れてきたはいいものの、話さないなら話さないでそれでいい、というスタンスで、いつも以上に目当ての男に群がった。
そんな中で鵜飼だけがAと交流を持ってしまったのだ。
Aは本当に美人だった。
どちらかといえば和顔で、ドレスよりも着物が似合いそうだった。ミスなんとかに選ばれるような派手さも無ければ、テンションを上げていくようなタイプでもない。
面白くなさそうに目を伏せる表情さえ、どきりとするほど奇妙な色気がある。
少し骨ばって無骨な白い指先は、少しだけその容貌とはちぐはぐだ。
「どうして文学部に?」
そんな面白くもない問いに、Aは聞いたこともない作家の名を出した。
不真面目な学生ならそこであきらかに脈が無いことを理解するか、そうでなければ的外れなことを言ってため息をつかれるかのどちらかだろう。
だが、鵜飼は本が嫌いではなかった。
自分の知っている作家の名を出し、それが文豪と言われる作家の一人であることを聞き出し、オススメの本を聞いた。
Aも本の話になるとやや饒舌になり、その作家がどのような運命を辿り、どのような本を書き、どのような偶然に導かれて人生を終えたのか。それを蕩々と語った。
その語り口は人を魅了するものだった。
だがAは決して心を開こうとしなかったし、踏み込ませない精神的な強さがあった。
結局番号の交換すらできなかったが、鵜飼はまた会いたいとさえ思った。
鵜飼が大学の中で探すと、Aはいつも図書館で見つかった。
オススメの本を教えてもらうだけの、そして四苦八苦しながらそれを読み、感想を伝え合うだけの関係。
はたしてこれは恋といえるのか。
友情と呼べるのかすらわからなかったが、鵜飼はそれでも良かった。次第にサークルからも足が遠のき、本を読むようになった。
反動がようやくおさまったような気さえした。
だがそのころになると、Aの奇妙な噂が耳に入ってきた。
Aは世見町で体を売っている、というものだ。
鵜飼は本気にしなかった。
Aが孤立しているのは知っていたし、あの一件以来、女子たちにやや疎まれているのも知っていた。というのも、一度呼んでしまったので、「今度はこっちも」という男子が増えたのである。
いくらA本人がやる気なくそこに居るだけだといっても、そこまで言われると面倒になってくる。一度女子たちが「あの子はメンバーじゃないし、そもそも知り合いでもない」と抗議したのだが、その対応がまずかった。一部の男子が単なるブスの嫉妬と片付けようとしたおかげで、メンバー間の対立が激化し、更に止めようとした男子がいたことで泥沼化したのである。
我に返った何人かのメンバーがこそこそとサークルを抜け、鵜飼もそれに続いた。
それ以来誘われることはなかったが、変な噂だけが残ったのはときおり耳に届いた。
「鵜飼。お前、Aと仲いいらしいじゃん。もしかしてヤラせてもらったの」
「そんな関係じゃないよ」
「じゃあ、何話してんだよ。お前とは学部も違うし、Aはサークルに入ってないんだろ」
「オススメの本を教えてもらって、俺が感想を言う」
鵜飼が言うと、友人たちは変なため息をついた。
「お前なあ……まあお前がそれでいいならいいけど。やるときにやっとかないと誰かに取られちまうぜ」
「別にそういう関係じゃねえんだよ」
「はいはい。あ、そうだ。ひとつ教えておいてやるけど、Bには気をつけたほうがいいぞ。Aちゃんにも言っておいたほうがいい」
「B?」
サークルメンバーの中心であるBが、Aのことを聞きつけて探し回っているというのだ。
Aの噂をどこからか聞きつけたらしい。
まさか図書館にいつもいるとは思わなかったのだろう。Aもそのことに気付いているのか、次第に図書館にすら姿を現わさなくなった。
鵜飼もAに忠告しようと探し回る羽目になったが、ついぞAは見つからなかった。
それから二週間近くが経ったころ、突然Bが鵜飼の前に現れた。
「あいつ、男だったぜ」
Bは吐き捨てるように言った。
「ほら、これ」
せせら笑いながら見せられたのは、一枚のカードだった。世見町にあるゲイバーの名刺だ。顔すら映っていないし、それがAのものだという確証も無かったが、Bの態度を見れば一目瞭然だった。これが演技ならプロでもやっていける。
「残念だったな」
そのときの鵜飼の記憶はほぼ無い。
後から聞くと、どうもBたちに殴りかかったようだったが、何故激高したのか自分でもわからない。
そいつらがAに襲いかかったことか。
Aが男だったことか。
そんなことを信じたくなかったからか。
「嘘じゃねえよ! あいつただのヘンタイだったわ。お前も騙されたんだろ? それとも……」
鵜飼は慌ててAを探し回ったが、ここ一週間ほど講義に顔を出してないということがわかっただけだった。
失踪してしまったのである。
なんでもBがAを無理矢理襲おうとして、それでAが男だということを知ったのだという。カバンの奥のほうからは例のゲイバーの名刺が出てきて、一枚ではなく何枚も同じものが入っていたというから、これはもう本物だという確証が出てきたのだという。
鵜飼はしばし悩んだ。
果たして自分はAとどうなりたかったのだろうか。男だった以上、自分も騙されていたのだろうか……。だがAは単に美人で色気があるというだけで、本が好きな人だったのではなかろうか。
鵜飼は悩んだ末に、名刺の場所へと向かうことにした。
世見町で住所と店名を頼りにたどり着くと、物珍しげな視線が突き刺さった。
「あの、この人を探してるんですが」
店主らしき人間は、ごく普通の男に見えた。
「Aちゃんの恋人?」
「……いえ、そういうわけでは……」
その時なんと聞かれたのかは忘れてしまったが、いわゆる異性愛者を表現する言葉だと教えてもらった。
要は鵜飼は異性愛者でしょう、と聞いたのだ。
「じゃあ友達?」
「いえ……わかりません」
友達だったのだろうか。店主の鋭い目が痛かった。ただでさえアウェーなこの場で、どうして自分はここまで追いかけてしまったのだろうか。
「傷ついてるかと思って」
鵜飼はAと出会うまでの経緯と、Aと出会ってからの出来事と、Aが失踪するまでの出来事を話した。
ところどころつっかえつっかえ、自分がまだ何をしたいのかわからないことまで。
ただAがどうであろうと自分は友情を感じていること、本を通じて話し合っているときは楽しかったことを話した。A自身が男だろうが女だろうがもはや変わらないと。
正直に話したのが功を奏したのか、店主はそこまで言ってようやく納得してくれたようで、ぽつぽつと話し出した。
「あの子ね」
目を伏せる。
「三日前に、首くくっちゃったのよ」
そこから鵜飼は、引きずられるように裏につれていかれた。
通されたのは控え室のような場所で、そこには豪奢な着物が一枚、壁にかけられていた。
「あの子、和顔でしょ。着物着て出てきて、ここで脱いで、お金もらって大学行ってたの」
そこまでの稼ぎ頭だったのだ。
諦めきれない何かがあったんでしょうと店主は続けた。
「たくさん本を読みたいって言ってたわ。最近楽しそうだったのはアンタのおかげだったのね」
「……」
「でも、バレちゃった」
着物を眺める鵜飼を気遣ったのか、店主はそのまま扉を閉じて一人にした。
今思うと、店主が話してくれたのはもうAが死んでいたからなのだろう。生きていたとしたら、はたして鵜飼と会わせてくれたかどうかも怪しい。
少しだけ着物に触れようとして、やめた。
自分の知らないAがそこにいるようだったが、せめてあんな形でバレなかったら、とすら思う。息を吐いて後ずさり、部屋を後にしようとしたそのときだった。
掲げられた豪奢な着物から、するりと白い手が出てきたのだ。
「……っ」
あんなところから手だけが出てくるはずがない。
鵜飼は思わず息を呑んだ。
その白い手は、確かにAの手だった。どういうわけかそう確信できた。
あれはAだ。
少し無骨で、まだ男であることを隠しきれていない腕。
「A」
名を呼ぶと、呼応したように白い手がゆらりと揺れた。
鵜飼に向けて振られた手は、さよなら、と言っているようだった。




