第八十六夜 緑の泥
喜覚が借りた物件は、すこぶる安かった。
どうも前に入っていたのがぼったくりバーだったらしく、すぐに入ってすぐに引っ越していったという。
まあ曰く付きというのもあれだが、前回がぼったくりだったから今回も……と思われる可能性は高い。ゆえに、安かったのだろう。喜覚はそう納得した。
実際にそこに入った物件は、ぼったくりであろうがなかろうがすぐに出てしまうということなので、やはりそういう店の影響というのは強いのだろう。
店の準備を手伝ってくれた友人たちも、わけを聞かされて妙な目をした。
「お前、そんなとこ借りて大丈夫かあ?」
「大丈夫だよ。見てくれはお前たちがなんとかしてくれるだろ」
「よくいうよ」
笑いながらも手伝ってくれた友人たちには感謝してもしきれない。
不安もあったが、店は無事に開店した。
店は中世ヨーロッパ風居酒屋というコンセプトで、いわゆる「酒場」の空気を重視していた。ゲーム好きなのもあって、掲示板に偽の依頼も出したりと細部までこだわった。
それまでの店と違い、ちゃんとしたおしゃれな外装にしたのもあって、目を留めてくれる客もそこそこいた。
SNSでもアカウントを作り、客を募る。
ツイッターでうっかり誕生日に開店日を入力してしまい、即刻凍結されるという事態に陥ったものの、拡散されたこともあって調子はまずまず。凍結中にインスタも登録して、ひとまず二つの体勢で始めることにした。
出だしとしてはまあ初めての出店としてはまずまずといったところだろう。
盛況とはいかぬまでも、客が入ってくれるまでにはなった。
勝負はここからだ。
喜覚は心をこめて準備をし、毎日念入りに掃除も欠かさなかった。ところがあるときから、バーの中に泥が落ちているのに気が付いた。
「……なんだこれ?」
店内をモップ掃除していると、緑色の泥のようなものが落ちていた。
昨日、店を閉めるときには無かったはずだが――何か客が汚したのだろうとそのときは気にせず、そのままモップで拭き取って水で流した。
だが、次の日も、その次の日も泥はそこにあった。
そのたびに喜覚は拭き続けたが、泥はそのたびに増えているように思われた。
一ヶ月も経った頃には、ツイッターに「面白い店だが、泥のようなものがあってちょっと汚い」などと書かれてしまうくらいには目立ち始めたようだ。
「なんとかしないとなあ」
つい口に出てしまうくらいには、もはやどうしようもできなかった。
とはいえ、どこから泥が入ってきているのかわからない。
最初こそ商売敵の悪戯かと思ったが、それらしいことは起きない。
自分一人で見るのも限度があるし、防犯カメラでもつけたほうがいいのかもしれないと思い始めた。
だが泥はどんどんと範囲を広げていた。
誰がどんな目的で泥を撒いているというのだろう。
だが、喜覚がそんな疑問と悩みを抱えながら店にやってきたある日のこと。相変わらず緑色の泥が店の隅にあり、その大きさはどんどんと大きくなっていた。
仕方なく掃除から始めようと、キッチンの蛇口を回す。その途端。
「うわっ」
蛇口から緑色の泥が出てきたのだ。
思わず後ずさった。だが緑の泥のすぐあとに水が勢いよく噴射して、シンクに落ちた泥をそのまま洗い流してしまった。
――なんだ、いまの?
目の錯覚だろうか。
まさかここから出ていたっていうのか。
それにしたって、と思った。
ここから緑の泥が出ていたとして、はたして店の方に影響が出るのか。むしろ、誰かがここに泥を突っ込んだと考えるほうが現実的だろう。
いちおう、緑の泥のことは隠して管理人に貯水槽も調べてもらったりもした。しかし特に何もなく、ひとまず清掃はこの間やったので、の一言で終わらせられてしまった。「この間」がいつなのかはわからないが、変なものはなかったということだろう。
もし自分のところだけでなくすべての店から苦情が入るようなら、もっと大ごとになるはずだからだ。
――やっぱりこの泥は、誰かに……?
それでも、緑の泥のようなものは日に日に増してきているようだった。
そして、喜覚がある日、店にやってくると――。
べちゃり。
その音に、思わず床を見る。
足下には、緑色の泥。踏みつけていたそれは、店中の床に広がっていた。それもうっすらとなんて可愛いものではなく、川が氾濫した後のように、ねばっこい泥に足跡がつくほどだった。
汚泥のような匂いをまき散らしたそれは、キッチンの蛇口からどろどろと流れ続けていた。喜覚が引きつってそれを眺めていると、まるで生きているように緑の泥がうねりをあげた。そしてずるりとシンクの外へと飛び出すと、床の上の緑色と一緒になった。その途端、床の緑の泥が大きくうねったように見えた。
視線を落とす。
泥がいつの間にか靴の上にまで登り、靴下を緑色に染め上げたあと、喜覚はようやく逃げ出すことができた。
その日は店を閉め、一ヶ月もしないうちに閉店のお知らせを載せることになった。
友人たちには不審がられたが、喜覚もまた「長続きしない店」の範疇から逃れることはできなかったのだ。




