第九夜 タクシーに乗った客
Yさんは世見町の支店で働くタクシードライバーだ。
夜間ドライバーであり、その中では様々な人間模様を見てきたという。
酔っ払って気が大きくなって殴りかかろうとする若者から、顔見知りで毎回丁寧な対応なので好感を持っていたらテレビで逮捕を知ったヤクザの幹部、あんな店辞めてやったとすっきりした顔で語る女性に、百本くらいあるバラの花束とともに乗り込んできて号泣する中年の男性までいろいろな人間を乗せてきた。
そんな数多くの人間模様のなかでは、やっぱり変なものを乗せてしまうことは多いのだという。
それは、Yさんが駅前で客待ちをしているときのことだった。
一組の男女のカップルがタクシーに乗り込んできた。
女のほうが先に乗り込み、静かに座った。彼女のほうはごく平然としていたが、男のほうはかなり酔っているようで、少しふらつきながら車に乗り込んだ。
「お客さん、どこまで?」
Yさんが尋ねると、男が眠そうにンアアとうなった。
「あー……ええっとねえ……えへへぇ」
ぼんやりとした対応だったが、住所は言えたらしい。頭がふらふらと前後に揺れ、今にも眠りこけそうだった。
案の定、車を出して駅前も抜けぬうちに、男は口を半開きにしたまま眠り込んでしまった。
「お二人は、今日は飲み会か何かで?」
Yさんは女のほうに話しかけてみた。
「はい。そうです」
女がしっかりとした受け答えをしたので、Yさんはホッとした。多分、お酒に強いか呑んでいないのだろう。
「へえー。会社の同僚さんとかですか?」
「恋人なんです」
「そうですか! 彼氏さんかなり酔ってますけど、大変ですねえ」
そこまで関係が近しい女がしっかりしているから、これなら大丈夫だろうと思った。
ぐでんぐでんに酔っ払った人間なんて、男だろうが女だろうがちょっと面倒なものだ。ある程度話ができればいいのだが、タクシーの中で吐くくらいなら可愛いもので、わけもわからず暴れ出したり支離滅裂な文句を言ってくる者がいると困ったことになる。
Yさんは運転中、しばらく女と話をした。こういう静かなタイプは話をするのを暗に拒否する人も多いのだが、女はYさんと嫌がる様子もなく会話を続けた。
代わりに、男のほうからは時折フゴッという寝息が聞こえてきた。
やがて車が住宅街まで入り、目的地に到着した。
「つきましたよ。お客さーん」
声をかけたが、男はフゴフゴいうだけで起きる気配がない。
すると、隣にいた女がスッと男の手を握った。
「んあっ!?」
男はビクッと手を払いのけ、急にハッとしたように飛び起きた。きょろきょろとあたりを見回している。しばらく呆然としていたが、次第に現状を理解したらしい。
ぼんやりとした頭で財布を取り出し、もたもたと金額を払おうとする。
こんな状況でも自分が払うのか、意外にいい奴じゃないか、とYさんは少し感心した。そのくせ扉が開いてもふらふらと出ていくので、Yさんは思わず声をかけた。
「じゃあ、頼みましたよ」
女に言うと、彼女はにこやかに笑い返した。
「ええ。……ありがとう」
そのときYさんは、女の物言いに、ふっと嫌なものを感じたのだという。
「……んあ? なにをです?」
男がぼんやりとしたように言ったが、男はぼうっとしながら自宅とおぼしき方向へと歩き出した。
Yさんはすぐには発車せず、しばらくそこで金額をしまったり、タクシーの表示やメーターのリセットをした。用意が終わってちらりと窓の外を見ると、男が頭を揺らしながらアパートに入っていくところが見えた。その後ろを、彼女がついていっている。
まあ、彼女がついているなら大丈夫だろう。
ところが扉が開いて男が部屋の中へ入っていくと、そこで扉が閉められてしまった。彼女のほうが廊下に取り残される形になる。すぐに隣の窓の明かりはつけられて、女は影のように立ちすくんでいた。
なんだ、同棲しているわけではないのか。Yさんは少し驚いた。女はあそこからまた帰るのだろうか?
近くならいいのだが、この時間に女一人は危ないだろう。もしかしてまた乗ってくるのだろうか。気になって見続けていると、不意に女が動いた。
女はそこに扉なんか無いように、スッと通り抜けてしまったのだ。
Yさんは我が目を疑った。
確かに扉は閉まっていたのに。
驚いていると、隣の窓に人影が立った。そこにぺたりとつけられた両手。顔ははっきりと見えないが、まるで笑っているようだった。
ありがとう、と言ったあの言葉が蘇る。
ひょっとしてあの言葉は……。
Yさんはすぐさま慌てて車を出した。気付かないようにして夜の街を走り、急いで住宅街を離れ、落ち着くまでしばらく車を止めていた。
あの男は世見町で何を拾ったのだろう。
いずれにせよ、碌なものではないとYさんは思っている。




