第六十四夜 壁のシミ
田島が世見町のマンションに住んでいた時の話だ。
世見町に住んでいる、などと言うと、他の人々は華やかな繁華街のイメージを想像して羨ましがるが、なんのことはない。繁華街から少し離れた裏手にある古いマンションの一室である。
近くにはラブホテル通りもあり、昼間はともかく夜は怪しい。
とはいえそれもあってか賃貸価格は格安だった。
少なくともそのときはそう思っていた。
マンションに住み始めて少ししてからのことである。
いい加減、放置したままになっていた段ボールを片付けなければと思い始めた。
前に住んでいたマンションでぎりぎりまで粘ったせいか、引っ越しの翌日からまた仕事という有様だった。当然、引っ越し初日に荷物をすべて取り出すこともできず、仕方なく生活に必要不可欠なものだけ取り出して過ごしていた。
残りは一週間くらいで折を見てやればいいと思っているうちに、二週間経ち、三週間経ち、一ヶ月が過ぎてしまったのだ。
そのままだったらまだいいが、世見町に住んでいることを聞きつけた友人の一人が、面白がって遊びに来たがったのだ。
本当にいい加減片付けないと、自分のズボラさが露呈するだけである。
――はあ~あ、めんどくせえ。
自分の荷物には変わりないのだが、何より段ボールを片付けるのが面倒臭い。以前に買った据え置きゲームも、せめて古いのは売ってこれば良かったとやや後悔する。
そんなことを考えながら荷物を取り出し、さて段ボールを解体しようと動かした時だった。
壁に、何かしら黒いものが目に入った。
小さなシミのようなもので、一センチくらいの丸いものが横並びに点々と二つ。
「しまった、気付かなかった」
あとで汚されたなどといって金銭を要求されては溜まったものじゃない。カビか何かかと思ったが、入った時に写真を撮っておかなかったのを早速後悔することになった。とはいえ今更後悔してももう遅いのだ。
仕方なく、田島は段ボールの解体に着手した。
とはいえその甲斐あって、友人たちを迎え入れた時にはちゃんと体勢が整っていた。
その友人は友人で、「案外普通だな」などとのたまって笑ったのだが。
当たり前だ、繁華街の一等地とは違うのだ。
だが繁華街に近いことが幸いし、世見町で飲んですぐ帰れる場所は魅力的だった。友人たちはたびたびやってきて、田島の家で飲み直すことも多くなった。
そんなことをしている間に、田島はとんでもないことに気が付いた。
シミが増えているのだ。
二つ並んだシミの横に、ぽちりぽちりと点が増えて、四つになってしまった。心なしか元からあった点もほんの気持ち程度大きくなったように感じられる。
――まずいなあ……。せめてカビ取り剤か何かでも買わないと。
しかし生来の面倒くさがりが災いし、田島は見なかったことにして放置してしまった。だがそんなことをしていても現状が良くなるはずもない。
一ヶ月ほどが過ぎた頃には、シミは更に大きくなっていた。
一番最初は横並びに点々が二つだったのが、今やすべて合体して四~五センチの大きな楕円型になっている。
もはやこれは「気のせい」では片付けられないというか、確実に自分のせいにされてしまう。
「も~、マジかよ……」
今度こそカビ取り剤を買おう。
せめて買おう。
買って置いておこう。
だが、そんな休みの日に「ちょっと飲みに行こう」などと友人に誘われてしまった田島は、「用事があるから」を理由に壁を放置することにした。飲みに行くのは夕方からなのに、動くと飲みに行く体力が奪われるからという自分への言い訳だ。
結局、だらだらとスマホゲームを弄っただけで一日が過ぎ、田島はそそくさと世見町の居酒屋へ出かけていった。
酒が入っていい塩梅になった頃、田島は自分から口を滑らした。
「実はさあ、今、壁にカビがなんかが発生しちゃって。俺の部屋で見たことないか? なんか小さくポチポチ出てるやつ。あれ、いつの間にか四つくらいに増えてて、今じゃ全部合体してこういう楕円型になっちゃってさあ」
けらけらと笑いながら言うと、友人は急に言葉を濁した。
「ああ、その話なんやけど……」
田島は笑っていたが、友人は眉間に皺を寄せたままだった。
どきりとする。この友人は霊体験やら霊現象やら詳しいタイプで、その友人が真面目な顔をしている――という事実そのものがぞっとしてしまった。
「……なんだよ。なんかあるのか?」
「……あれなあ」
友人はどう言うかを迷った末に、こう切り出した。
「あれ、手やねん」
「は?」
「手が出とる。一番最初に来た時は指二本分くらいやったけど、二回目あたりにはもう四本くらい指が出とった。それが今は楕円になってるってことは、もう手首まで出てきてるってことやろ。それがだんだん大きくなっとるなら、もう手首通り越して腕まで出てきてる可能性が高い」
友人は自分の腕を指さす。
「壁から部屋に入ってこようとしとるんや」
田島は生来の面倒くさがりである。
だがそんな面倒くさがりの田島は、家に帰るとすぐに引っ越しを決意した。
解体したばかりの段ボールに荷物を詰め込み、二週間もしないうちに部屋を引き払ったのだった。




