第五十九夜 窓の向こう
葛城が高所作業の清掃業を辞めたのは、臆病だったからではない。
実際にその清掃会社では人の入れ替わりが激しかった。
葛城がバイトとして雇い入れられた時も、それらの事実は提示された。葛城はそのとき仕事に苦慮していたし、高所も別に苦手ではなかった。
最初の一回は年上の先輩につき、作業を教えてもらいながら見て覚えた。もちろん最初ということもあり、多少の緊張はあったものの、それほど極端につらいと感じることもなかった。恐ろしくはあったが、なんだこんなものか、というくらいだ。
二回目はある程度自分一人でやれるようにして、三回目ともなると既に慣れたものだった。
この清掃会社では区役所や市役所の清掃も請け負っていた。
その日は世見町にある鬼王区役所の窓清掃で、屋上からロープで吊り下げられながらの作業ということだった。
――早めに終わったら呑みに行くか。
少し楽しみにしながら、窓清掃を行っていく。
鬼王区役所は古い割にお洒落な作りだった。窓の面積が大きく、おそらく建物内も天井が高い。外国人のお客も迎えることがあるからだろうか、とそれらしい理由を探しながら、一つ一つの窓をワイパーで拭いていった。
一階下がり、もう一階下がり、とやっていくと、人のいるところやいないところがよくわかる。
その窓を拭いていた時は、ちょうど人がいない廊下のような場所だった。
中の廊下を、何がボールのようなものがごろんと転がってきた。
こうした窓での作業は既に慣れたが、中にいる人たちと目があったり、顔を合わせないようにするのが大変だった。それだけは慣れない。
子供が追いかけてきているくらいならまだいいが、大人だと余計に気まずい。足元近くなんかだと余計に目線に気をつけないと、セクハラになってしまう。といっても向こうも慣れたもので、人がいるとわかると窓から離れて歩くのだが。
「……!」
葛城は思わず口を押さえそうになった。
窓の向こうを転がっているのはボールではなかった。
そこにあるのは顔だ。何かしらの生首だった。
――え……え? 生首? いや、マネキンか? それにしては首元が……。
マネキンはいまだゆらゆらと揺れていて、目はまっすぐに上を見ている。その見た目はほぼ人間そっくりだ。ショーウィンドウに飾られている無機質な見た目とは違う。それとも蝋人形なのか。
しかし窓の向こうの人間たちは、生首のことなど存在しないかのように振る舞っている。
――目を合わせたら、ダメだ!
葛城はとっさに目をそらし、窓を拭く業務に戻ろうとした。
中のことなど気にせず仕事をすればいい。ぞくぞくとした、高所とは違う恐怖が体の中を駆け巡ってくる。
葛城はそれでも気が付かなかったふりをした。
洗剤をスプレーし、目の前が白い泡に覆われる。これをワイパーで拭いてしまえば、もういなくなっている。きっと目を戻したら消えている。そう信じて。
そして、ワイパーで窓を拭き取る。
白い泡が取り払われたその向こうに、生首はいなかった。葛城はほっとして、残りの部分の泡を拭き取った。
その瞬間、生首が葛城の近くまで来ていて、じっとこっちを見ているのに気が付いた。
目が合う。
血走ったその目がぱちりと瞬き、ニタリと笑んだ。
「う……うわっ!」
葛城が思わず声をあげた時には、もう生首はいなかった。




