第五十八夜 ぶつかる
人の多い鬼王駅で、塚本は相手を物色していた。
どん、と塚本が女とぶつかると、相手は一瞬驚いたような目をして去っていく。主に当てるのは肩だが、時折胸の感触も楽しむ。
これは一種の遊戯であり、塚本はこの遊戯の虜だった。
塚本は以前、ネットで「わざとぶつかるおじさん」が出たというのを知って、なるほどと思った。
最初こそなんという暇な人間だと思ったものの、思い直して自分でもやってみると、確かにこれはやみつきになった。
生意気にも睨み付けてきても、舌打ちひとつで自分の立場というものを理解するらしく立ち去る。
もちろん女とみれば毎度やるつもりではない。
塚本だってぶつかるターゲットくらいは選んでいる。そういう気分でない時だってあるから、そういうのが重なった時にしかやらない。
それに肩がぶつかった程度でぎゃあぎゃあ言う女なんてモテないし可愛くないに決まっている。
その日も塚本は鬼王駅でぶらぶらと歩きながら相手を物色していた。
この時間は人数も多く、急いでいる人間も多い。ぶつかっても文句を言ってくるような面倒なことにはならない。
しかし、塚本は別の理由で苛々としていた。
さっきから、塚本の前を歩く女が気になっていたのだ。
黒髪の、黒い服の女だった。
――なんだ、こいつ?
ふらふらと歩いていく女はあきらかに誰かにぶつかりそうだった。
だが、その実絶妙に相手が避けていたので、ぶつかりあいになるのは避けられていた。
そんなことをされては困るのだ。
時折、驚いたような目で女を見ている者たちがいるが、関わり合いになりたくないのか、すぐに目を伏せて立ち去ってしまう。
なんて奴らだ――文句のひとつも言えないとは。
しかし、その歩き方には苛々としていた。他人に迷惑極まりないし、この女が前にいては動くこともできない。それに反対側から歩いてくる人間も多いので、移動することができなかった。
塚本はわざと聞こえるように舌打ちをしたが、前の女はそれにも関わらずふらふらと歩き続けている。髪の毛を気にするように時折頭を触っている。
それどころか女のせいで、あきらかに塚本の歩くスピードは落ちていた。このままでは面倒なことになる。
――女のくせして。
歩く邪魔をしようとは、自分の立場というものが理解できていないんじゃないか。
そんなことは許されない。
塚本は自分が邪魔されているという事実を認めたくなかったし、許せなかった。
苛々は頂点に達しようとしていた。
もうこいつを追い越して前へ行くしかない。塚本は足を速めると、前の女を突き飛ばすようにして肩をぶつけた。
何か冷たい感触があって、塚本は一瞬顔を顰めた。黒い髪の毛がべったりと顔に張り付き、塚本は舌打ちをした。
――なんだ、この髪!
文句を言ってやりたい気持ちをなんとかおさえ、そのまま無理矢理前へと押し出た。後ろでどしゃんと音がした気がした。
一瞬、ぎくりとする。だがたいしたことはない。悪いのは前の女だったのだ。転んだからといって何だったのだ。いい気味に決まっている。
自分は善行をしたのだという気持ちを前に、塚本はそのまま歩きすぎようとした。
不意に目の前の人垣から、別の女が現れた。
急いでいるらしく慌てたようにすれ違おうとしている。一瞬見えた顔はなかなかいい。及第点ではないが、六十点くらいはやれるだろう。さっきの穢れを払うように肩でぶつかろうとしたそのとき。
「きゃあっ!?」
女が塚本を見て悲鳴をあげた。
直前で悲鳴を上げられたので、ぶつかることができなかった。目をかけてやったのに、生意気にも自分を避けたのだ。ブサイクのくせに!
突然悲鳴をあげられれば塚本だって驚いた。
「……うわっ!?」
だが、その声に視線をあげた男もまた小さな悲鳴をあげて戸惑った。やがてその戸惑いは周囲に広がり、誰もが塚本を遠巻きに見るようにして波が広がった。あっという間に塚本の周りには空間ができ、誰も近寄りたくないというように見えた。
これには驚きという言葉だけでは足りない。
いったいなんだ。何が起こった?
塚本自身が戸惑いながらも自分の顔を触ると、ぬるりとした感触があった。ぎょっとして手を見ると、真っ赤な血がべったりとついていた。
ピンク色の肉の断片のようなものが付着して、指先を滑り落ちていく。
「うわっ、うわあああっ」
塚本が情けなく腕を振ると、周囲にいた人々は嫌悪感を露わにした。
そういえばさっきぶつかった女は……頭に……。
それも構わず情けない叫び声をあげ続けていると、塚本を追い越して歩いていく、ふらふらとした黒い女が見えた。
女の頭は半ば陥没していて、その頭を気にするように手で触れていた。ぐちゃりと音がして、中身がこぼれる。
女は誰にも見えないようで、ふらふらと歩いていき、やがて人混みに消えていった。




