第五十一夜 駅前のサトル
『駅前のサトル』を知っているだろうか。
世見町の北東には、東鬼王駅がある。その駅前にある小さな広場にある、子供の像のことだ。子供がボールのようなものを掲げている像で、今の世見町と比べるとあまりマッチしているとは言えない。そのうえ、像の名前は『希望』だ。
だがたいていの人間は像があろうがなかろうがたいてい気にせず、目立つような大きさでも場所でもない。なんてことない町中の像、という印象だ。
だがこの『希望』像――、一部の人間からはサトルと呼ばれている。
なぜそう呼ばれるようになったか。
これは、小坂という男が体験した出来事だ。
ネット掲示板にこの話が上がった頃、どうも書いた本人はネットリテラシーや名前を伏せるということそのものをまだ知らなかったらしい。文章の感じから中学生かそこららしいと噂された。(とはいえそれから数年が経っているので、さすがに本人も成長しているだろうが)
小坂は書き込んだ者の叔父にあたり、酒に酔った勢いで話し始めた。
小坂は毎日の通勤に東鬼王駅を利用していた。
区役所勤めだったらしい。
ある日のこと、偶々遅くなって帰ろうとした時のことだった。
その日は朝から苛々が溜まっていた。いつもよりも一時間近く遅れて目覚めたこともそうだし、走ってギリギリ間に合った電車では人が多すぎて倒れ込みそうになった。痴漢になりそうなのを無理な体勢で避けて腰を痛め、役所についたらついたでおかしなクレームの嵐。
食堂で現金を出そうとして財布を落として小銭をばらまき、缶コーヒーを机の上にぶちまけた。苛々が募って連絡ミスを起こし、危うく大惨事になりかけるなど、とにかくいいことがなかった。
その苛々は今の今まで続いていた。
東鬼王駅は西にある世見町駅と違って、遅くまで賑わっていることもない。東鬼王駅はきっちりとしたスーツ姿の勤め人も多いうえ、一番多い時間帯は五時から六時にかけてだ。だから、その時間になると人もまばらだった。
小坂は急いで駅に向かっていた。だがもうすぐ駅につくというところで、不意に目の前を横切るものがあった。急に道路に向かってボールのようなものが投げられたのだ。もう少しで足に当たるところだった。
――なんだ、危ないな!
一体何がと思って見ていると、広場にある木の陰から子供が飛び出してきて、ボールを拾い上げるのを見た。
――子供!?
時間はとうに夜の十時をまわっているはずだ。
それなのに、小学生ぐらいの子供がいるなんて。
「おいお前、危ないじゃないか!」
小坂は正義感というより、イラッとして叫んだ。普段なら嫌な顔をしながら立ち去るだろうが、生意気な悪戯をされたことや、朝から感じていたストレスが爆発したのだ。
「名前は何だ? どうして此処にいる? 親はどうした! 今、お巡りさん呼ぶからな!」
小坂は首根っこを捕まえ、たたみかけるように言った。
傍から誰かが見ていれば、あわや事件と思われたかもしれない。しかし、こいつは人の渡っているところにボールなど投げやがったのだ。車でも来ていたら危うく死ぬところだったのだ。殴られても文句は言わせない。
「――サトル」
暗闇でにやにやと笑った子供がそう答えた気がした。
その声に思わずぎくりとする。
「サトル!? ああお前の名前か。そういう時は名前を全部言えないのか? 親は何してるんだよ」
「サトル」
一瞬ぎょっとした。
ひょっとして変な子供に関わってしまったのではないか?
「サトル。サトル。サトル」
頭のおかしな子供だと、小坂は直感した。
「遊ぼう」
ぐいっとスーツを引っ張られ、小坂は動揺した。
怒りにまかせて関わってしまったが、無視したほうが良かった。
「お、おい……離せ」
「遊ぼう。遊ぼう。遊ぼう」
「だから離せって……!?」
どん、という重みが急に来た。
「うぐっ……!?」
投げられたボールが胸に当たったのだ。
ただのボールだと思っていたが、石のように重い。そんなものを軽々と持っていたなんて信じられない。
こいつは、まずい。
なんだ、こいつは。
いったいなんなんだ。
バランスを崩して尻餅をつくと、自分の上に
「や、やめろ。やめ――――」
どん、と胸に痛みが走った。
小坂の意識はそこで一瞬途切れた。
しばらくした頃に、小坂は自分にかけられている声で目を覚ました。
「ちょっと。お兄さん。お兄さん?」
そんな声だった。
驚いたように飛び起きると、目の前には制服を着た男がいた。警察官の制服だというのは見ればわかった。
「こんな所で寝てると、危ないよ」
小坂はしばらく男をびっくりしたように見ていたが、近くにあった自分のカバンをひったくると、慌てて立ち上がって駆けだした。
「う、うわ――うわああああっ!」
小坂は悲鳴をあげて逃げ出した。警察官はそれを見て大丈夫と判断し、さっさと帰ってしまったらしい。
慌てて電車に飛び乗り、「急いで来たんだろう」という視線をかいくぐって家まで帰った。
それにしても、嫌な夢を見てしまった。小坂は家に帰ってからも、妙な痛みを感じていた。びっしょりと嫌な汗をかいている。シャツは濡れて、このまま洗濯機に放り込まねばならなかった。
そうして服を脱ごうとして、胸のあたりの痛みが本物であると気付いた。
「いてっ……!?」
嫌な予感を覚え、すぐさまバスルームに行って鏡の前に立つ。シャツを脱ぎ、続けて下着を脱いだ時、思わず息が詰まった。
小坂の胸には、丸い物にうちつけられたように、丸く、青黒いアザが広がっていたのだ。
小坂の話はすぐに、ネット上で『希望の像』であると突き止められた。
それ以来、『希望の像』は『駅前のサトル』と呼ばれるようになった。だが所詮はネットの話である。現実はどうなのか、本当の話なのかはよくわからない。それに一瞬だけ盛り上がったが、すぐにネットの海に流れてしまった。
しかし時折、思い出したかのように、駅前で遊んでいる子供がいると通報されることがあるらしい。




