第四十六夜 一人部屋
彼女が入院部屋として選んだのは一人部屋だった。
部屋の号数のところに高橋、と書かれたプレートを見ると、自分だけの部屋という気がして妙ににやついてしまう。
一人部屋が空いていたのは幸いだ。特に高橋は五十代を過ぎて初めての入院ということもあって、一人のほうが気が楽だった。
病名は癌。
癌といっても、手術で取ることができるくらいのものだった。
「お母さん、癌なんだって? 大丈夫?」
息子夫婦やいまだ独り身の娘も心配そうに駆けつけてくれたが、世の中で言われているような深刻なものではない――発見されたのが早かったそうだ――ので、手術をすればなんとかなる。もちろんその後も経過観察的に病院通いが続くものの、自覚症状もそれほどなかった。
慌てた様子でやってくる子供達に、「あら~、よく来たわねえ」などと言いながらケロッとした風に相手をすると、ぽかんとした顔で見返してきた。息子夫婦につれてこられた孫のほうが祖母に会えてうれしいという単純な顔をしていた。
確かにショックではあったものの、ここまできてしまうと気楽なものだった。生来の性格も影響したのか、それほどでもないなと自分で思っていた。
さて、それでも手術までには日数がある。
三日前から入院して、検査や測定をしてから手術という段取りだ。夫も最初の日は来てくれたが、反応は割と淡白だった。
「じゃあ、次は手術当日になったら来るからな。もし何か足りないものがあれば連絡してくれ」
「はいはい。じゃあねえ」
夫はいまだ会社勤めだったので、そう言って別れた。
若い頃は一人暮らしで、今も時折家事をするにで問題ない。気に掛かることもなく、気楽なものだった。
それでも一日、また一日と手術の日が近づくにつれて、少しずつでも不安になった。
今になってようやく、自分が、人が死ぬような病なのだという自覚が現れてきた。土壇場になって緊張感が高まる。
今まで夫と一緒の部屋で眠っていたので、広い部屋に一人で眠るのも実はストレスになるということもわかってきた。
――早く寝ないと。
消灯時間をとっくにすぎ、深夜の二時になっても眠れない。
こうなっては明日の手術にも差し支える。もちろん彼女の体は健康体ではないものの、手術にあたってある程度健康にしておかないと、という意識があった。せめて普段通りの体調にしておこうというのだ。
それなのに、ふと、壁の向こうからボソボソと人の話し声がしてくるのに気が付いた。
一度気になってしまうと、どうしてもそちらに意識を集中させてしまう。ほんの少しの野次馬根性で、知らぬ間に耳をすませた。
しかし彼女はすぐにそれを後悔することになる。
『あ……ああ……どうして、どうして……!』
『うううっ……』
聞こえてきたのは嘆きとすすり泣きだった。
――誰か亡くなったのかしら。
そう思うと、妙にそわそわとした。すすり泣きが頭の向こうから聞こえるものだから、変に不安になってしまう。
――いやだわ、すぐ隣の部屋ね。こんなときに……。早く寝てしまわないと。
こう言ってはなんだが、縁起が悪い。
さすがの高橋も、夜中ということもあって不安に駆られた。
病院では連鎖するように人が死ぬともいうが、その人たちは他の人たちに悟られないように霊安室に運ばれ、数時間もしないうちに裏口から運び出されてしまうのだという。この病院でも当然そんなことはあったのだろうが、こんな時間に起きては不安しか感じない。
――怖い……。早く寝てしまおう。
高橋は白い布団を頭からかぶった。
『……いかないで、いかないでよ』
『どうしてなんだ……!』
そしてぎゅっと目をつぶり、聞かなかったふりをした。
次に気が付いたのは、朝のまばゆい光の中だった。彼女は昨夜のことを思い出してぞっとしたが、晴れていたことで胸をなで下ろした。
さすがに手術前の深夜にあんな声を聞くことになるとは思わなかった。
ふうっと息を吐き出し、朝の光に感謝する。今の時間なら、もう遺体の運び出しも終わっていることだろう。
朝の準備を一通り済ませたあと、確認にやってきた看護師の女性と軽く話す。
「それじゃあ高橋さん、今日の十時から手術ですので」
「はい、わかりました。荷物はどうすれば……」
「あ、貴重品だけ金庫にお願いします!」
にこやかな女性を見送り、ひとまず貴重品の整理だけしておこうと、立ち上がった時だった。ふと、自分のいる場所を確認する。
彼女の部屋は、角部屋の一等地。ベッドは頭のほうが壁を向いているものの、その壁の向こうは外だ。しかも外といっても、地上からはだいぶ離れている。もし隣や廊下から声がするとしても、そんなに大きな声がするはずはないのだ。
――え。それじゃあ、昨日の声は……?
急にぞっとして、それから看護師が来るまでベッドで青ざめていた。




