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百話奇談Ⅱ ―眠らぬ町の怪―【コミカライズしました】  作者: 冬野ゆな


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第四十三夜 老医師

 守屋総合病院は、戦後の復興期から世見町にある古い病院だ。

 数年前に建て替えられ、建物自体は比較的新しい。だが人間のほうはそうでもなく、建て替え前からいるような医者は老人一歩手前が多い。

 病院内での派閥の対立というのはあくまでフィクションの世界であるが、守屋には一人、フィクションもかくやという老医師がいた。


 彼は羽柴といい、既に六十を過ぎて定年を迎えている。本来なら退職しているはずなのだが、嘱託職員としてそのまま勤務し、もう七十になろうとしている。

 そしてこの老医師。

 とにもかくにも、頭が固い。

 もちろん物理的にという意味では無い。精神的にだ。常に不機嫌で、苛々していた。

 例えば自分の症状を訴える患者に対してはこんな風だ。


「先生、自分はこんな症状があるんです。いったいどうしたらいいかわからなくて」

「ああ? こんな事でいちいち病院に来るんじゃない、迷惑だ」


 ……と一蹴することもあれば。


「まだ痛みが引かないんですが、痛み止めの許可は……」

「もう手術で治っとる。痛いのは当たり前だ、薬は出せん!」


 とまあ、悪い意味で平等だ。

 それは患者だけではない。


「今はこういう治療法があるらしいですね」


 と、若い医者がした世間話に対しても「たわごとをぬかすな!」と睨み付ける始末。


 それでも外科医としての腕は良かったし、一応古株でもあったので誰も何も言えなかった。しかも重篤な病に限っては見逃すことがないというのだから、ますます誰も何も言えない。一蹴した患者はたいてい軽度か勘違い、気にしすぎというタイプで、彼の非難は一定の説得力さえ備えていた。

 加えて、手術をすればほぼ成功というレベル。老いた今になってもたいていの手術は手が震えることさえない。

 つまるところ、その能力がまったく衰えていなかったので、「この人はこういう人だ」というのが通用した。


 とはいえ不満が出るのは看護師たちである。


「あの羽柴先生、腕はいいけどちょっと患者さんに対してどうかと思うわ」

「まあ、そうよね。あたしたち看護師に対しても扱いが酷いし」

「この間なんか、準備にそんなに時間をかけるなって、びっくりするくらい罵倒されたのよ」


 そんなひそひそ話も、実際に羽柴が近くを通るとぴったりと止んでしまった。


「ふん。どいつもこいつも、煩わしい」


 その地獄耳には看護師の噂話などとうに聞こえてきていた。


「噂話などする時間があるのなら、黙って患者の処置ぐらいできんのか。余計なことばかりしゃしゃり出る。気にしすぎの単純な馬鹿ほど時間を奪っていくし、重篤な馬鹿は自分の病を認めたがらない。おまけにそういう奴ほど民間医療なんて言う眉唾にはまっていく。女はおしゃべりで、男はいつでも自分が偉いと思っている」


 羽柴はぶつぶつと愚痴を吐いた。

 羽柴にとっては何もかもが苛立っていたのだ。むしゃくしゃしながら、廊下の角を曲がろうとしたときだ。


「先生、羽柴先生」


 羽柴は急に呼び止められた。

 振り返ると、若い女がそこに立っていた。妙に顔の青白い女だった。看護師でも患者でもない。心当たりもなく、じろじろと遠慮なく眺める。


「お久しぶりです」

「すまないが、誰だったかね」


 頭を下げる様子も言葉も丁寧だったが、羽柴は胡散臭げに眺めるだけだった。


「いいえ、先生はきっと私のお名前を覚えていますよ」

「話したいのなら予約をしろ、酷い顔をしとる」


 羽柴はそう言って立ち去りかけた。

 わけのわからない言いがかりをつけられるのも御免だった。だが次の言葉を聞いた瞬間、羽柴はびくりとして立ち止まった。


「私の名は水崎といいます」


 次第に羽柴の中から、嫌な予感がふつふつと沸き起こってくる。鮮明になっていく記憶に、羽柴はごくりと息を呑んだ。


「あ、……あんたは……」


 振り返り、女の姿を上から下までもう一度見つめる。口内がからからに乾いていき、今まで感じたことのないものが心の奥底から湧いてきた。


「あんたは……まさか、私を……殺しに、来たのか……?」


 記憶の底に沈んでいた忌まわしい記憶が、洪水のように戻ってくる。

 いやだ。やめろ。

 そんな脳の叫びを無視して、記憶が蘇ってきた。あまりにもひどく鮮明に。

 羽柴はそれこそ本物の洪水に呑み込まれるように、意識を失った。


 それからハッとしてあたりを見回した時、女はいなかった。


 ――夢か?


 夢なら酷くたちの悪い夢だ。思えばどことなく視界もおかしい気がする。次の患者に取りかかる前に、少し休憩を取ったほうがいいのか。ふらふらと歩き出そうとしたが、やはり奇妙にふわふわとした感覚が抜けない。

 おかしいなと思って、額に手をやったときだ。


「おおい、羽柴!」


 声は背後からだった。

 羽柴先生ではなく羽柴と呼ばれたことに仰天したが、同時に、彼は自分の腕が妙に張りのある艶やかな皮膚になっているのに気が付いた。


「今から初執刀だって? まあ頑張れよ」


 ――初執刀!?


 改めて自分の手を見つめると、刻まれた皺はすっかり消え去っていた。

 思わず両手を裏返したり表にしたりと狼狽する。そんな彼の様子を訝しんだのか、声をかけてきた医者は妙な顔になった。


「おいおい、どうしたんだよ。緊張してるのか? まあ、急に決まったことだしなあ。確か虫垂の患者だったっけ。大丈夫だって、もっとリラックスしろよ」

「あ、ああ……」


 ――初執刀、だと……。


 羽柴はトイレに行くとかなんとか言って、すぐにその男から離れた。急いでトイレに駆け込もうとしたが、病院の作りは完全に違っていた。見覚えはあるが、既にその病棟は存在しないはずだった。

 何しろ改築前の守屋総合病院そのままだったのだから。

 鏡で自分の顔を見る。

 若返っていた。確かに若い時の自分の顔だ。


 ――間違いない。ここは四十年前……。あの手術の日……。


 いかなる現象かはわからないが、どうにも幽霊は羽柴に思い出させたいようだ。それとも自分はとっくに狂ってしまったのか。あるいは、今までのすべては、この日のショックから見た夢であり、自分は優秀な医者だと思い込んだまま長い時を生きていたのか。

 いや、そんなはずはない。であれば、やっぱり自分はおかしくなってしまったのか。認知症やアルツハイマーとはこういう状況なのか?


 いずれにせよ、このまま手術をすれば――間違いなく失敗する。

 その事実を噛みしめると、ごくりと息を呑んだ。


 羽柴が四十年前にした初執刀は、簡単な手術のはずだった。虫垂の手術だ。一般人ではいまだに盲腸という言葉のほうがしっくりくるかもしれない。

 救急で運び込まれた患者は急性虫垂炎と判断されて、外科に回ってきた。


 加えて、本来、前立ちとして熟練の執刀医が目の前で指示してくれるはずだったのが、土壇場になって来なかった。他の手術が入ったのか、それとも急に何か言い出したのかわからない。突然の手術だったからしょうがないと言われればそれまでだが、どんな手術であれ、初執刀の外科医が一人という緊迫した空気が張り詰めていた。それどころか、本来は医者より慣れているはずの看護婦も寄せ集めであり、現状に腰が引けていた。

 その上、いざ開腹してみると今度はとんでもないことがわかった。

 虫垂ではなく、重度の腸炎だったのだ。


 後で聞いたところによると、嫁いだ先の義理の母親が暢気さと厳しさを足した最悪の人物で、最初は風邪だと思って「風邪くらいで」と発破をかけたあげく、病院への連絡もせずにそのままだったのだ。加えて本人も、それくらいでと思って自宅で寝ていたのが運の尽き。

 その結果がこれだ。

 そして不幸は重なった。

 ひとまず多少炎症を起こしかけていた虫垂も切除したあと、羽柴はそのまま腹を閉じた。すぐに腸炎の治療を行うようにしたが、その時には既に遅かった。治療の最中から汎発性腹膜炎を発症し、それに気が付かないまま通常の治療を続行してしまった。本来なら行われるべき緊急手術は行われず、患者は当然のごとく死亡した。


 死因は、術後の感染症ということになった。体力が戻らずにそのままだったと。医療ミスがあったことは伏せられた。ミスは実際には一つ二つではなく、多くのそれが重なった。

 羽柴にとっては唯一の汚点であり後悔だった。


 やり直せるならばやり直したい。確かにそう願ったこともある。

 あの女が死んだ後に、投げかけられた言葉を覚えている。


『人殺し! 助かるって言ったじゃないか……なあ、あんたは成功するって……返してくれ、私の娘を返してくれ……この、この人殺し!』


 病院へ連れてきたのは、さすがに容態がおかしいと思った実の父親だった。

 風邪をひいたからと義理の両親は実家に電話をかけて、家で看るようにと言ったらしい。その時点から既に彼女の不幸は始まっていたのだ。

 羽柴は額に手を当て、長く息を吐き出した。

 トイレから出ると、看護師が一人、――当時はまだ看護婦と呼ばれていた――羽柴を見つけて駆け寄ってきた。


「あっ、羽柴先生、こんなところに! 探してたんですよ!」

「……どうした」


 ――嗚呼、私はこの後を知っている!


「それが、A先生が急に緊急の手術が入ってしまって……」

「わかった。私一人でも、やろう」


 私はかつてこの台詞をどんな気持ちで吐いたのだろう――羽柴は頭を真っ白にさせながら、後に続いた。

 気が付いた時には羽柴は手術着を着て、手術室の中にいた。頭が真っ白になっていても、体は覚えているものだ。


 当時とは違う緊張を覚えながら、開腹していく。

 いったいこの夢はどこまで続くのだろう。そして開ききると、細部はすべて当時と同じだった。記憶が蘇ってくる。

 やはり、重度の腸炎だった。

 膿を出し、患部を摘出しなければ死んでしまう。


 どうする。

 どうする?


 ここで一人の人間の歴史が変わってしまうかもしれない。いや、一人どころではない。多くの人間の歴史が変わるのだ。

 それも自分一人の後悔のために。


「……!」


 現代のやり方に慣れた羽柴にとって、こんなことは些末なことだった。

 どこをどうやればいいか、羽柴の若返った体は震えることもなく、ひとまずは僅かばかりの虫垂を切除すべく完璧にメスを踊らせた。


「おそらく彼女は虫垂ではなく腸炎だ。それも重度の。今ここで膿を出しておかないと、大変な事になる」

「えっ!?」


 腰が引けている看護婦に向かってそのまま続ける。


「落ち着きなさい。深呼吸をして」

「は、はい」

「今までやってきたことをすればいいんだ」


 自分に言い聞かせるように告げると、そのまま続行した。原因となっている箇所の特定。洗浄。膿の摘出。

 ここが自分の夢の中であろうとなかろうと、目の前の患者を救えなくて何が医者か。

 羽柴は自分のできることをした。

 あまりの集中力と手際に、周りにいた人々も驚きの目で見つめていた。だが彼の姿になにがしかの感銘を受けたのか、すぐに自分のやるべきことをした。


 最後の縫合が終わり、ふうっと息を吐きながら顔をあげると、羽柴は廊下に突っ立っていた。


「……ここは」


 四十年後に意識が戻ってきたようだった。


「…………あたしたち看護師に対しても扱いが酷いし」

「この間なんか、準備にそんなに時間をかけるなって、びっくりするくらい罵倒されたのよ」


 聞こえてきた看護師の愚痴は、どこか聞いたことのあるものだった。

 幽霊に会う前の時間に戻されたらしい。


 羽柴はふらふらと歩き出した。

 予感が正しければ、この後に幽霊に出会ったのだ。幽霊に出会ってしまったら何が起こるのかと考えながら、廊下を歩く。

 するうちに、前のほうからすれ違った老婆がくるりと後ろを振り向いた。


「先生、羽柴先生」


 ぎくりとして立ち止まる。

 まさか、そんな。


 微かな予感を胸に、羽柴は振り返った。


「お久しぶりです」


 そこに立っていたのは、着物を着た上品な老婆だった。


「……覚えているかわかりませんが、私は……」

「いや、覚えとるよ。患者は全員覚えとる。あんた、水崎だろう。昔、重度の腸炎で手術した」

「あらいやだ、違いますよ」


 老婆はくすくすと笑った。


「え? 違ったか……?」

「それは以前の名前ですよ。実はあのあと、父がとても怒って離縁しましてね。その後に知り合いの方と再婚したんです。その父ももう亡くなりましたけど……」

「あ、ああ……そういうことか」


 羽柴が珍しく狼狽する様子は、通りがかった看護師が目を丸くして三度見したほどだった。


「先生の初執刀だって聞きましたよ」

「そうだったかな」

「あら。度胸が据わってるって話題でしたよ。実は、孫がこの病院に入院中なんです。もうすぐ赤ちゃんが生まれるのよ。そしたらあたし、ひいおばあちゃんだわ」

「そうかい。じゃあ無事に産まれるのを祈っとらんとな」


 短いとはいえ世間話に付き合った様子に、看護師はますます珍しいものを見た顔をした。

 明日は雨どころか槍が降るに違いないと確信する。


 医者と老婦人は軽く挨拶を交わして別れた。

 老医者の顔は相変わらず不機嫌だったが、どこか晴れやかだった。

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