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百話奇談Ⅱ ―眠らぬ町の怪―【コミカライズしました】  作者: 冬野ゆな


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第三十二夜 人面瘡

 陸沢は追い出されるように小さなスナックから出ると、あらん限りの罵倒を口にした。


「この強突く張りのババアが!! いつかぶっ殺してやるからな!」


 ペッ、と玄関に唾を吐きかけて歩き出す。

 後ろではスナックのママたちが「塩持ってきて」とやっていることなど知りもせず、舌打ちをして両手をポケットに突っ込んだ。酔っ払って「スナックやよい」から出てきた彼のことを気にする人はいなかった。

 「スナックやよい」のママは、酒が入って機嫌が良くなると、怪談を話してくれることで有名だった。陸沢自身は馬鹿馬鹿しいと思いながらも聞いていたのだが、引き込まれているうちにあれよあれよという間に散財してしまった。


「不味い酒に金とりすぎなんだよクソがあ!」


 理不尽な文句だった。

 散財といっても、酒を飲んだだけだ。加えて「スナックやよい」のメニューはほとんど適正価格であり、他の店と比べても良いほうだ。だが、陸沢はそんなことはどうでもよかった。

 陸沢にとってはすべて自分が気に入らなければ批難の対象なのだ。

 近くの看板を蹴っ飛ばしながら、帰路につく。


 陸沢の家は世見町の一角の古びたアパートだ。

 古いとはいえ、世見町なんていう繁華街の近くに住めているのは、ひとえにこのアパートの存在と、恋人であるユミの存在が大きい。


「おかえり」


 ドアを開けると、奥からユミの声がする。スマホを弄っているようだった。

 陸沢はそれを無視して、和室に座り込んだ。


「何かあったの?」

「なんでもねえよ!」


 陸沢がいらいらしながら答えると、ユミは姿勢を正した。


「そう。ならいいわ。ちょっと話があるの」

「あん?」

「別れましょう」


 一瞬、自分の耳を疑った。

 だが空耳や聞き間違いでない証拠に、ユミはきちんとした格好をしていて、妙に家の中が整頓されている。


「はあ? 別れるって……どういうことだよ」


 陸沢は半笑いになって言った。


「いいのよ、あたしが出て行くから。だからあなたは此処に住んでてもいい人」

「出て行くって……どこにだ?」

「そんなの別れる人間に言う必要ある?」

「だってお前……仕事はどうすんだよ」


 陸沢はなおも問い詰めた。

 そもそもユミは、デリヘルの仕事をしていた。本来なら今の時間は仕事のはずだ。


「仕事? あんたがそんなこと気にするの? 辞めさせたがってたくせに」


 ユミは思わずといったように笑った。

 陸沢はいつも、仕事が見つかったらデリヘルなんか辞めるべきだと言っていた。だが優しく見える台詞は実際のところ、格好だけに過ぎないとユミは薄々感じていたのだ。陸沢は外で仕事探しと称してぶらぶらしているだけだった。心の奥底では金はユミが作ってくれると信じ切っていたのを感じ取っていた。他人から見ると単なるヒモに等しい。


 実のところ、ユミもそれほど苦でもなかった。だが二人分を養うには手っ取り早かっただけだ。

 とはいえ、貯蓄が増えると次第に考えを改めるようになった。

 特に陸沢はどんなにユミのほうが稼ぎが良くても、男というただ一点において自分のほうが立場は上だと思っていたのが透けてきていたのだ。


「そりゃそうだけど。もう少しすれば仕事も手に入る。お前にも苦労かけずに……」

「何言ってんの?」


 そんな陸沢の主張を、ユミは一笑に付した。


「はあーあ。最後だと思ってこうやって話つけようとしたけどさ」


 ユミは立ち上がる。隣の部屋に行くと、そこにあったトランクケースを手にした。


「大体あんたね、その台詞どんだけ言ってるの? あたしがあんたがいないと駄目な女だと思ってるの? 大概にしてほしいわね」

「だから! それは! 俺は何度も面接は受けてるけど、いいところでいつも落とされるだけなんだよ。俺は理解されないだけなんだ。な? な? お前ならわかってくれるだろ」

「それ、本気で言ってる?」


 ユミはもう振り返りもしなかった。言い訳にも説得にもなっていない言葉に、笑いを通り越してあきれかえるばかりだった。


「ほんと、馬鹿みたい」


 実際にもう陸沢は棄てられたのだと思うと、怒りがふつふつと沸いてきた。

 たかが、デリヘルの女に。

 いやそれ以前に、ただの女に。

 ユミはまだ何か言っていたが、陸沢は聞いていなかった。自分は自分が見下している女以下の存在だとはっきりと突きつけられると、陸沢は無意識に拳を振り上げていた。


 それからはもう、意識が飛んでいた。

 ユミの髪を掴んで引き回し、罵声を浴びせて何度も殴りかかった。


 気が付いたのは、朝の光が窓から差し込んできてからだ。いつの間にか眠っていたらしく、大きな欠伸をした。


 ――ユミの奴は出て行ったのか。


 なんだか妙に手が乾燥している気がする。目を開けっぱなしになった扉の向こうに向けると、そこにはめくれたタイトスカートの下から、何度も愛撫した太ももが覗いていた。


 ――なんだ。いたのかよ。


 陸沢はそれをぼんやりと見ていたが、だんだんと自分がとんでもないことをした事に気が付いた。

 顔の形はやや変わっていた。自分の両手が乾いた血に濡れていることに気が付くと、叫び出したい気持ちを抑え、慌てて手を洗いに行った。


「ひっ……ひえ、うわ……」


 落ち着け、落ち着け。

 気絶しているだけだ、きっと。


 何度もそう自分に言い聞かせた、キッチンと部屋を行き来する。

 ユミの顔は、殴りつけたところがもごりと奇妙に盛り上がっていた。どれほど執拗に殴りつけたのかがわかる。


 ――気絶してるだけ……だよな? そうだと言ってくれ!


 そんな都合のいい解釈をしようとしたが、血は紛れもなく流れていて、とっくに黒ずんでいる。目は見開いていて、どこを見ているのかわからない。精巧な人形のようだ。

 恐ろしくて手首を触ることもできなかったが、息はしていないように思える。確かに死んでいる。

 陸沢はどうしようもできぬまま、死体を部屋に放置することにした。


 いい案がまったく浮かばないまま、三日が経った。

 相変わらず隣の部屋は封印したままで、死体は消えてもいなければ急にいなくなったりもしていなかった。


 ――どうする。どうすんだよ、これ……。


 三日も経てばだいぶ考える余裕も出てきたが、死体の処理に困ってしまった。

 それからはたと思いついて、同じように放置しっぱなしだったユミのキャリーケースの中をあさろうとした。もしかするとキャリーケースの中に死体を入れられるかもしれない。陸沢は死体を見ないようにして部屋に入ると、キャリーケースをひっつかんで居間のほうへと引きずってきた。

 中は生活用品や衣服が少し入っていただけだったが、奥底のほうまであさると、見た事も無い通帳が出てきた。

 おそらくため込んだと思われる金だ。かなりの金額がある。


 ――ちくしょう、なんだよ。こんなに金があったんじゃないか。これで安泰だ。馬鹿にしやがって。


 ユミの物は自分の物である。陸沢は素直にその金を自分の物だと思い込んだ。

 ひとまずこの金を下ろそうと決意した時だった。


「あんたね」


「もっと他にやることあるでしょ」


 後ろから聞こえてきた声に、陸沢はぞっとして後ろを振り向いた。だが、ユミは相変わらず虚ろな目をしたまま転がっているだけだった。


 ――き……気のせい、か?


 陸沢は身なりを整えると、さっそくATMへと向かった。

 だが、当然のごとく金を下ろすには暗証番号が必要だ。ユミはそんなもの近くに書いていない。結局、陸沢は金があっても取り出せないという状況に陥った。


「なんだよ、畜生っ!」


 陸沢は一人吼えた。

 家に戻ってくると、そのまま通帳を叩きつけようとして、やめた。暗証番号が必要という当たり前のことすら、陸沢にとっては自分にとっての理不尽な障害だった。

 肩で息をしてなんとか落ち着こうとする。


「ばかみたい」


 そのとき、家の奥から聞こえた声にぎょっとした。

 隣室は玄関からは見えない位置にあり、陸沢はハアハアと上がる息を殺した。


「……おい、生きてんだろ……」


 自分を落ち着かせるように、陸沢はゆらりと、隣室で転がるユミに近寄る。


「俺を馬鹿にするのもいい加減に……!!」


 殴りかかろうと胸ぐらを掴んだが、ユミの体がだらりと落ちたのに気が付いた。

 確かに死んでいる。

 ユミの顔は殴打でボコボコになっていて、ずっと見ていると気分の良いものではなかった。小さく舌打ちをすると、陸沢は潰れたゴキブリを見るような目で死体を手放した。


 ――ちくしょう……どうしてこんなことに。


 誰か自分を助けてくれるスーパーヒーローはいないものか。

 そんな妄想にすら縋りたくなる。


 ――でもこいつ、こんな顔だったか……?


 ユミの顔は殴りつけてもはや人相が変わる直前だった。だが、青あざや小さな瘤ができる程度のそれであり、こんなにもボコボコとしていただろうか。


 ――腐りかかってるのか?


 顔はむしろぶよぶよとして、気味が悪かった。どこから入り込んだのか、ウジが湧き始めている。早いところ処分しないといけなかったが、陸沢にはそんな発想はなかった。


 その後も、ユミの顔の変化は続いた。

 陸沢が残りの金を使い果たす頃には、頬のあたりは完全に膨れ上がっていて、そこにもう一つ顔があるかのようだった。

 皺が寄った瘤は本当に顔のようで、口に見える部分から今にもしゃべり出しそうだった。


 部屋からは次第に異臭がし始め、外を歩く人間が「なんかここ臭くないか」としゃべっているのが聞こえた。陸沢はその声を完全に無視した。


 陸沢は、陸沢を批難する声をどうにかしなければならなかった。


「だってあんたがあたしを殺したんだものね」


 ユミの顔からは、盛り上がった瘤が完全に人面の瘤として生えていた。その瘤はユミの顔そっくりで、陸沢を批難するのだ。

 ユミの顔をした瘤は言う。


「もう逃げられない。あんたはもう逃げられない」


「あたしの死体すら棄てられなかった」


「結局あんたはそういう奴だった」


 二十四時間批難するものだから、陸沢はとうとう堪忍袋に据えかねた。

 震えながらユミの死体の前に立つ。


「うふふふふ、あははははは、ひゃっひゃひゃひゃひゃひゃ」

「……おい……それ以上……言ってみろ、もう一度殺してやる。一度殺してるんだからもう怖くなんかねえ……、もう、もう一度お!! てめえを殺してやるからなあ!!」


 笑う人面の瘤に、陸沢は震える手で殴りかかった。

 笑い声と陸沢の雄叫びが木霊するアパートに、パトカーの音が近づきつつあった。

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