いい小説は寂しさをもたらす
勢いで書きました。推敲とかしてないので読みづらかったら申し訳ありません。
先程までとあるなろう小説を読んでいた。今日は秋分の日の振替休日であり、なろうでなにか読むかと思い、適当に日間ランキングを見てなにを読もうかと眺めていると、ひかれる題名のものがあり、どんなものかと見てみる。
すでに完結された作品で、あらすじを見て、文字数は五十万字には届かないぐらいのもの。数時間あれば読みきれるだろうと思い読み始めた。
普段は読まないジャンルの作品であったので、新鮮な気持ちで読み進めていたが、どれぐらいまで読んだか気になって見ると、残り五十話ほど。
それまで楽しく読んでいたが、あと五十話というのを知ってしまったために、完結済みなのにまだ終わらないで欲しいなどと思いながらも、それでも読み進める。
そうして最後の話を読み終わり、つけていなかったブックマークをつけ、目次を意味もなく眺めていた。
個人的な感想を言えばとてもいい話である。文庫本なりの形で出版されるのなら迷わず買って自室の本棚に並べその様子を眺めて満足するぐらいにはいい話である。
しかし、これはちょっとした不幸でもあろう。今これを書いている(ネット小説で「書いている」は不適当かもしれない)私の心の中にはもちろん読了した満足感もあるが、それ以上に寂しさがある。
それは、もう続きを読むことのできないもどかしさでもあり、今日という休日の日にあと何時間ものあいだ、この悶々とした気持ちを一人で持たなければならないものでもあり、こうしてこの気持ちをなろうで投稿することでしか紛らわすことのできない私の孤独感でもある。
読み始めた最初は確かに幸福だった。一気読みできるし休日の暇潰しには最適であろうと。
しかし今は幸せではないという意味で不幸である。この不幸とはもう続きを読むことのできない事に対しての不幸である。
私が読むことのできる物語というのはそこで終わってしまった。もちろん物語の中で彼らの人生というのは続くのだか、私にとってはそこで終わってしまうのである。
その後を想像するのも楽しいことだ。いろいろ自分の中でああなるかなこうなるかなと作者の手から自分の頭の中で物語の先を想像するのは楽しい。
しかし、それでも想像のなかはあくまで想像。それで私が満たされるならばそれでいいが、本当に欲しいのは物語の続きなのである。
物語の向こう側ともいうかもしれない。某銀の塊の作者も言っていたものだが、自分だけ取り残されたような気持ちである。(うろ覚えなので間違ってたら申し訳ない)
読んでいた小説が面白いと思っていただけに、もっと読みたいと思ってしまう。しかしそれを決めるのは作者であり、一読者の私にはせいぜい感想を送って気持ちを伝えるぐらいだろう。
長々と色々言っているが、要は読んでいた小説がめっちゃ面白かったけど終わってるのでもう続きを読めないちょー悲しい、のである。
こんな風に自分の気持ちをこうして文字に起こしているのも気持ちの整理をつけたいがためである。
自分が今まで読んでいたものは、連載中から読んで、完結して、その後も番外編などがあったので、寂しくはあるもののそこまでではなく、完結しておめでとう、という気持ちが強かった。
しかし先程まで読んでいたのはすでに完結済みで、もう続きはないというのである。それを数時間で読んでしまったので、もう続きはなくてどうしようもない気持ちをどうしたものかと思案していた。
ならばエッセイという形で今の気持ちをなろうに投稿してしまおうかと、普段では思わないことを思ってしまった。それほどまでに寂しさがすごいものだったのだ。
さて、こうして書いている内に気持ちも少しは落ち着いてきている。こんな駄文を読んでくれる人がいるかどうかは、はっきり言ってほとんどいないだろうが、ブラウザバックせずにここまで読んでくれているならば、ありがとうごさいます。
勢いだけで書いたのでおかしいところもありますが、何分経験がほとんどないのでご容赦を。
それではこの辺で。なろうの海に潜っていきます。
最近自分でもなにか書こうかと思いますが、なんか怖くてなかなか手が出ないです。でも欲求は日々高まっているので生きてる内には多分なにかを書くんでしょう。