前編
魔女は憐れんだ。夢に縋りついた少年の末路を。それが望みだったのか、と酷く傷ついた瞳で見つめている事も知らず、少年は己の夢にすっかり夢中である。
繰り広げられる世界は全て少年の望むまま。過去も現在も未来も全てが彼の思い通りだ。
夢の中だからこそ許されたそれが少年にとっては最高の現実で、本当の現実こそがいつか醒める夢なのだと思った。
それこそが間違いだと気付かぬまま、夢に溺れた少年はうっそりと微笑むのだ。
魔女は呆れた。少年が見る夢の全てがあまりにも醜かったのだ。その全てが少年の望むままだと知りつつも、こんな夢を与える為に魔女は力を振るったのではない。
貰った対価は確かにそれに釣り合うものだろう。だが、今見ている夢に溺れる少年がこの先を求め続けるのならば、魔女は改めて対価を要求しなければならない。
少年が魔女に望んだのは醒めない、己の願望をそのままに映し出す夢である。対価に支払ったのは少年の時間。生きる時間全てを夢に捧げたのだ。
魔女はその愚かさを指摘したが、少年は聞く耳を持たない。現実の醜さにうんざりしていた少年にとって、夢だけが自分を癒す場所なのだと信じていたのだ。
魔女は言った。
「お前の望みは対価分だけは支払おう。しかし、その先は夢から醒めるのだと覚悟して見るのだよ」
少年は頷いた。
「それでいい。それでいいから早く僕に夢をくれ。こんな人間同士が争うだけの腐りきった世界なんてもう見たくないんだ」
そうして取引が成立して何十年の時が流れただろう。現実を生きていれば青年になっていたであろう少年は、しかして一向に年を取らない姿のままで夢に溺れていた。
それもそのはず。夢の中で年を取る事はまずない。全ては夢なのだ。外見も性格も喋り方も――その全てが少年の望むがままに変えようと思えば変えられる。
だから少年はいつまで経っても少年のまま、夢に囚われて生きて(…)いる。
魔女がちらり、手の中に納まっている真っ黒な砂時計を見遣る。砂は静かに下へと落ちていく。
これは少年が支払った対価である時間だ。夢は夢でしかなく、現実はしっかりと生きている。そして夢に溺れる少年の現実もまた、生きていた。この砂時計がその証拠と言えよう。
少年が魔女に己の時間を渡した時、砂は綺麗な綺麗な赫色をしていた。まるで人間の体内に流れる血の様な赫。それが少しずつ、時間を掛けてゆっくりと流れ落ちていく。
最初の頃はそれをただ見つめながら少年の夢を傍観する魔女ではあったのだが、終わりへと近付く砂時計の砂の色が綺麗な赫からどす黒い茶色へと変色し始めた頃になると、その視線には憐れみと嘆きと悲しみが混ざるようになる。
少年は知らないのだ。この砂時計が全て滑り落ちる事の意味を。夢を見たいから、長く見たいからと安易な気持ちで差し出した対価の意味を、少年は本当の意味で知らないのだ。
それを知るのは魔女だけ。知っていながら対価として求めなければいけない苦痛を知るのも、また魔女だけなのである。
そんな魔女の想いを余所に、少年は只管想うがままに夢を綴った。
ある時は大好きなゲームの世界へと入り込む夢を。またある時は大好きな人といちゃいちゃする夢を。またある時は少年が世界の王様となり、いろんな人から崇められる夢を。
沢山の夢を渡り歩いた少年は、それでも満足出来ないのかもっと、もっとと夢を強請る。溺れて強請って飽きてはまた強請り溺れるその様はまさに欲深き人間を露わにしていると言えるのだろうか。
現実を嫌った少年は、夢に溺れる自分の姿がまさしく嫌った現実そのものだと気付きはしないのだろう。他人の姿そのものが眼に映る現実である以上、少年は自分の姿を鏡越しにしか見る事が出来ない。そして映し出された己の醜さからは無意識に眼を逸らして綺麗に歪んだ部分だけを見つめるのだ。
「こんなにも綺麗な僕が、あんな醜く歪んだ現実で生きられる筈が無い」
可笑しな勘違いをした少年は周りとは違うのだ、と周りを見下し続ける。本当に醜く歪んでいるのは己自身だと気付かないまま、そして自分こそが綺麗なのだと訴え続けても認めてくれない現実に辟易して捨て去った。求めた世界は此処じゃない。夢の中にこそ彼の世界があるのだと豪語した。
誰もが少年の言葉を嘲り笑ったことだろう。親しいものならば真剣に諭して真面目な方向へと歩ませようとしただろう。それでも少年の歪みは奇妙に捩じり曲がり、真っ直ぐに伸びる事はなかった。
その結果が今である。少年は望み通り己の夢の中に己の世界を見出した。だが、それで満足出来はしなかった。
当り前であろう。一つ願いが叶えばもう一つ欲が生まれ、その欲が叶えばまた一つ、願いが産まれる。その繰り返し、繰り返しをひたすら夢を媒体にして叶え続けた少年は、いつしか自身が差し出した対価の意味を忘れた。そして夢が現実であり、現実が夢だったのだと己の都合のいい方向へと解釈を進め、それが当たり前のように感じていたのだ。
砂時計の砂は滑り落ちる。少年の欲望も、願いも全て受け止めながら刻一刻とその身を削り続ける。いつか少年の考えの過ちに気付いてくれると信じた魔女はとうの昔に少年を見放した。憐れみも呆れも未だ魔女の中に存在はするけれど、最後まで付き合うつもりはないようだ。今はただ、少年の末路を見つめ続けるのみである。
そしてその時は訪れた。砂時計の砂が全て瓶の底へと落ちたのだ。
あぁ、これで解放されると魔女は密かに安堵する。そして同時に心の奥底にぽっかりと、大きな穴を作る。
自分がよかれと思ってした事の結末がこのような形になるとは思わなかった。
(もう二度と人間に対して甘さを見せる事は止めよう)
そう心に誓いながら夢に溺れる少年の瞼を撫でるのだ。
「さぁ、お目覚め。夢見る時間はもう終わりだよ」
少年の耳がそれを受け止めると同時に夢はあっさりと醒めた。少年は真っ白に染まる空間の中、砂時計を握りしめた魔女と対面する。
あぁ、どうして。どうして夢が壊れてしまうのだ。
少年は魔女を睨んだ。望んだ願いの為の対価はちゃんと支払ったのに、なぜ夢から醒めなければいけないのか。
夢に全てを捧げてしまった少年は、魔女との取引の際に言われた言葉をすっかりと忘れてしまっていたのだ。
もしも覚えていたのなら、少しでもその言葉に疑問を持っていたのなら、このような未来は回避できたのだろうか。
そんなこと、少年も魔女も今更考えはしないのだろうけど。
「どうして僕は夢から醒めなきゃいけない? 対価はちゃんと支払ったじゃないか。未だ僕は夢を見ていたい。いや、夢こそが僕の居るべき場所なんだ。さぁ、僕を夢の中へと還してくれ!!」
なにはともあれ、少年は魔女を睨んだまま苦々しくも唇を開いた。零れた言葉は毒を孕んで魔女を突き刺していく。
魔女は傷つかなかった。少年が当然の権利だと訴えるその言葉に傷つくような心はとうの昔に捨ててしまったのだから、突き刺さろうとも手でひっこ抜いて空の彼方へ放り投げてしまえばそれでお終い。さようなら。
空洞に突き刺さったとしても、それが痛みを訴えることなど無いのだ。そこをすり抜けて落ちてお終い。さようなら。
どんな言葉を聞こうと、少年には魔女を傷つける事はおろか、魔女の同情すら得られはしないのだ。
「そんな事を言っても無駄。そんな顔をしても駄目さ。始まりには終わりがあるものだよ?」
優しく諭す魔女の唇は歪な笑みを浮かべるだけ。言葉はどれだけ甘かろうとも、少年には苦みしか感じられない。
甘さなんて幻覚だ。魔女の言葉に対して少年の舌は正常な感覚を訴えているのだから、そんな誤魔化しは通用しない。例えそれが正論であったとしても、夢を引きずる少年には自身が正論なのだと世迷い事を本気で信じていた。
「そんなの嘘だ。僕の夢に終わりなんてない。ずっとずっと続く、永遠の世界なんだからな。お前は終わりだと嘘を吐いて僕を騙そうとしているんだ!!」
「やれやれ……どこをどう間違ったらそんな勘違いを犯せるのか。まぁ、お前の言葉も一理あるさ。ただね、お前が見た夢は対価があってこそ生まれたものだという事を、忘れてはならないよ」
「忘れてなんていないさ。僕は僕の時間を全てお前にくれてやった。それを対価にあの夢を、いや、あの世界を手に入れたんだ。僕の夢は永遠だ。永遠に続く世界なんだ。その世界こそが僕のいるべき場所で」
「――あぁ、もういいよ。そんなくだらない言葉など、聞くに堪えないからね」
「なっ!!」
魔女の言葉は嘘だと、自分を騙す嘘だと強く訴える少年だが、堂々巡りもいい所。聞けば聞く程少年は支払った対価に対する魔女の忠告を頭からすっぽりと落してきてしまった事が嫌でも丸分かりである。そんな事は少年の最初の訴えで分かっているから魔女にとってはどうでもいいことだ。本当に必要なのは、魔女の言葉をちゃんと噛み砕いて飲み干し、それを理解する能力なのだが――どうやら少年はそれすら夢の中に落してきてしまったらしい。
あぁ、嘆かわしい――わざとらしく肩を落として見せた魔女はひらひらと右手を振りながら少年の言葉を遮った。ついでに冷めた視線を送ることで少年の言葉は聞き飽きたと意思表示。そういった事はちゃんと伝わるようで、少年は顔を真っ赤に染めてはわなわなと全身を震わせている。勿論、羞恥からではない。やるせないくらいの怒りから、である。
「物忘れの激しいお前の為に、もう一度だけ言ってやろう――お前の望みは対価分だけは支払おう。しかし、その先は夢から醒めるのだと覚悟して見るのだよ――さぁ、この言葉の意味を、お前は理解できるかい?」
淡々と、淡々と。ただ言葉を紡ぐだけの唇の動きに少年は眼をぐるぐると回しながら脳味噌を回転させた。
魔女曰く、対価分だけは支払ってくれるが、その先は夢から醒めるだけ、だと。少年が支払った対価は少年の時間全て。それは少年の一生を意味する。その全てを支払って得た夢だ。少年自身はまだこうして生きているのだから、夢から醒める道理はない。つまり、少年は間違っていない。間違っているのは魔女だ。
ぴたり、止まる視線。魔女をジィ、と見つめてはニタリ、歪んだ視線。少年は魔女の間違いを正そうと口を開く。
「あぁ、理解したさ。でも、魔女よ、お前の方こそちゃんと理解しているのか? 僕が支払ったのは僕の時間だ。僕が生きている時間全てだ。僕はまだこうして生きているぞ? なら夢は続行するものだろう? なのにどうして夢から醒めなければいけないんだ? 僕はまだ、対価を支払っている途中なのに!!」
どうだ、と踏ん反り返る少年は自身の言葉が真っ当だと信じて疑わない。だから気付かない。少年自身は夢の中で生きていたのであって、現実の中で生きているわけではないのだと。
もしも現実で生きていたのなら、まだ少年は生きている事になる。それはつまり、夢から醒めなくてもいいことだ。にもかかわらず魔女が独断で夢から醒ますというのは契約違反に繋がる。そう、少年が現実で生きていれば、の話だ。
少年が今まで生きていたのは何度も言うが「夢」なのだ。決して「現実」ではない。その事実に少年は気付いていない。いや、気付いていないのではなく、少年の中では既に現実が「夢」であり、夢が「現実」になっているのだ。
愚かな勘違いがいつから紡がれたのかなど魔女には分からない。だが、もうどうでもいい事だ。少年が夢を「現実」と捉えてその中で「生きている」のだと訴えるのなら――その「時」を対価に頂こうか。
「では夢の続きを見るといいさ。愚かなお前が見る夢の中を現として生きるがいい」
魔女が伸ばした指先が少年の瞼をゆるりと閉ざす。少年は歓喜に震える心を抱いたまま、魔女の指に逆らうこと無く瞼を落した。
最後に見た魔女の歪んだ笑みに気付かないまま、少年は夢を貪るのだ。