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囚われのロリータ


 ミストポリスは中世的な都市である。

 中心地にある広場には魁偉絢爛なバロック建築が広場を囲むように屹立し、その中央には壮麗な噴水美術があって、淡青の空に飛沫を上げている。夜になると噴水の水面はバロック建築の発する美妙な光を身に受け陶酔的な色を湛える。広場からは広々とした石畳の道が放射状に伸び、その先々には赤煉瓦の家々、白壁に大きな窓枠の建物などが隙間なく並んでいる……総じて規模が大きく、街のただなかを歩いていると、その荘厳さのあまり、畏怖の念さえ起ってくる。人間とは途方もないものを作るものである。そしてその巨大さと均整のとれた精緻な美とが調和的に存在しているのは、なんとも不思議である。便利な機械の存在しない時代にこれだけのものが作られたということ、それがまず信じがたい。人間の抽象的思考能力と肉体的実践能力とは驚嘆に値する。

 ミストポリスは光と陰の都市である。大半を歴史的都市の光が占めるが、街の一隅には色濃い陰が存在する。それは恐ろしい人種差別が公然と存在した時代に作られた。もともとミストポリスの街に住んでいたダリヤ人を民衆みんなで排斥し、街の片隅に押し込み、部落を作ったのだ。ダリヤ人は相当悲惨な目に遭ったという。――もはや人種差別をする人間はほとんどいなくなったが、ダリヤ人は排斥されてから酷く卑屈で臆病になってしまったため、外へ出て行こうとはせず、いまも肩を寄せ合って、部落で生きている。周囲の人間たちはそんなダリヤ人をおかしなやつだとしか思っていないばかりか、ほとんど無関心である。差別がなくなったのだから出てくればいいのに、自分たちは何も気にしていないのだから。君たちがそこに住みたいっていうなら邪魔はしないよ、こっちはこっちで忙しいのでね、というわけである。

 ダリヤ人部落は他より二段ほど低い土地にあり、日中は街の陰に覆われている。狭い土地に廃墟のような建物がぎゅうぎゅう詰めに並んでいる。埃っぽい路地には、座ってうなだれる老人の姿や、ぼろきれを着た子供たちがボールで遊ぶ姿などが見られる。

 早朝のダリヤ人部落の路地には風が吹いており、かさかさからからと何かが揺れる音がしていた。やはり幾人かの老人がちらほら、建物の壁によりかかって座りうなだれている。異様な感じのする静けさがあり、そこを歩いていると、奇妙な異国に迷い込んでしまったかのように思える。

 羽野はロリータの斜め後ろを歩きながら、うなだれる老人をちらと見て、臆病に小声で言った。

「何度来ても慣れませんね、ロリータ」

「慣れないのはあなただけよ、ハノー。わたしも慣れていないこと前提でものを言わないでくれるかしら」

「あわわ、あまり大きな声で喋らないでください」

 羽野はそう言って横目でうなだれる老人を見た。突然動き出して襲い掛かってきそうで、不安なのだった。

「大きな声なんて出していないわ」

「ここではいつもの声が大きな声なんです。小さな声で話すようにしないと……」

 おろおろする羽野に、ロリータは呆れて言った。

「ハノー、あなたはサムライのくせに臆病なのね」

 そう言われると、羽野はしゅんと肩を落とす。

「いや、ええと」

「そしてあなたはすぐに『いや』と言い訳を言うわね、ハノー」

「いや、別に言い訳じゃなくてそれは癖みたいなもので」

「ほらまた。言い訳癖ね、ハノー」

「……はい」

 羽野は自分を情けなく思った。武士たる者、臆病であっても臆病であるように見せてはならない。勇気がなくとも勇気があるように見せねばならない。強くなくても最も強い武士であるように胸を張っていなければならない。自分はそれを少しも守れていなかった。

 さて、二人はアーリーの隠れ家に到着した。ぎゅうぎゅう詰めに並ぶ廃墟のような建物、そのうちの一つの五階、そこにアーリーの隠れ家はあった。

 二人は暗くて狭い階段を上って行った。五階に着き、錆びた鉄のドアをノックすると、中から声が返ってきた。

「入りな」

 中に入ると、部屋は一面ねずみ色の古びたコンクリートで、薄暗く、家具などは一つもなかった。デスクなどを撤去した安事務所のような感じだ。床のコンクリートの上には砂が散らばっていて、一歩進むとじゃりじゃり鳴る。

 その部屋の窓際に一つの大きな机があって、その上に一人の男が腰かけている。カジュアルな服の上に、膝の辺りまである長い外套を着ている。足元はいかついブーツ。髪の毛は長く、太い束髪がつんつんしている。顔は一言で言えばとんがっている。鼻も顎も、そして掛けているサングラスも。口にはタバコを咥えており、その姿が何とも言えず渋い。

「よう、待ちくたびれたぜ、お二人さん」

 アーリーはそう言うと、机の上からひょいっと飛び降りた。立つとよく分かるが、えらくひょろ長い体の男である。

 彼はタバコを指で挟んで口から離し、ロリータと羽野の方へ歩みながら。ゆっくりと煙を吐いた。

 羽野の相変わらずの臆病そうな顔に満足したが、ロリータのいつもと変わらぬ落ち着きのある表情を見ると、アーリーはひょろ長い身を屈めてロリータの顔を覗き込むようにして見た。

「大ピンチだってのに澄ました顔しちゃって。可愛くないぜ、ロリータ」

「別に可愛くありたいとは思っていないわ」

 その返事に、アーリーは腕組みして、背筋をぴんと伸ばし、のけぞるような姿勢で、ロリータを品定めでもするように見る。

「もったいないねえ。にこにこしているだけで一生ラクして生きていける容姿なのにねえ。どうだ、これを機に怪盗やめて嫁入り修行でもしたら」

「お生憎、わたしは結婚する気はないわ」

「えっそうなんですか」

「なによハノー、文句ある?」

「べ、べつにないですけど」

「そう」

 アーリーは二人のやり取りを面白そうに眺めたのち、唐突にははははと声をあげて笑った。羽野の腰に収まっている小サ刀を指差して、突拍子もないことを言い出す。

「ところでハノー、お前のハラキリ・サムライショーはいつ見れるんだ?」

 羽野は呆れたような顔をした。

「だから、アーリーさん、切腹――ハラキリはショーじゃないんですよ。この世でもっとも壮烈な死にざまなんです。お遊びじゃないんですよ。それに、腸が飛び出ますよ。見世物なんかじゃないですよ」

「はっは、聞いたかロリータ、腸が飛び出るらしい。ハノーが死んだらハノーソーセージで追悼式だ」

 羽野はアーリーの無理解にしょんぼり肩を落とし、ロリータは真剣な眼差しでアーリーの顔を射抜いた。

「そろそろ冗談もおしまいにして、仕事の話に入りたいんだけど」

 するとアーリーも真面目な顔になった。

 彼はロリータに背を向けテーブルへ歩き、ロリータの方を向き直って、そのうえに腰かけた。

 クリスタルの灰皿にタバコを押し付け、火をけし、新たに煙草を取り出して、マッチで火をつける。マッチの火はアーリーの顔を一瞬照らし、陰らせた。彼はマッチを振って火を消した。小さな灰の煙が起こり、宙に溶けた。

 アーリーは深呼吸でもするみたいに深々とタバコを飲んで、斜め上に煙を吐いた。それから言った。

「高いぜ」

 ロリータと羽野は彼が何を言っているのかをすぐに理解した。情報料の話をしているのである。そしてそれが高いということは相当有益な情報であるに違いない。

「お得意様ということで安くならないかしら」

「バカ言うな、お得意さんだからこそ高く売りつけるんだろうが」

「とんでもない商人ね、あなた」

「そりゃ、商人じゃないからな、俺は」

 アーリーは「おっとっと」と、落ちそうになる灰を慌てて灰皿の上に落とした。

「で、どうする」

 彼はそう言ってタバコを咥えた。

「いくら」

 アーリーはまず人差し指をぴんと立てて「一」を示す。それから今度は右手の手のひらを広げ、そこに左手の人差し指、中指の二本を足した。そして口からタバコをはなして、灰皿の枠を叩いて灰を落とす。

「一千万……」

 羽野が呟いた。

 ロリータはしばらく、タバコを吸い続けるアーリーを見つめた。それからこう言った。

「買うわ」

 ロリータが答えるや、アーリーはうっすら笑った。

「相変わらず金持ちだねえ。いくらため込んでんの。国でも買う気?」

「あなたには関係のないことよ。それより、話を聞かせてくれるかしら」

「オーケー。じゃ金はいつもどおりお前の秘密バンクから抜いとくぜ」

 アーリーは外套のポケットからハンドサイズの機械を取り出すと、なにやら操作し始めた。

 アーリーは秘密バンクなるものを持っていて、ロリータはそれを借りているのである。だからアーリーはロリータの金を自由自在に操ることができる。

 ロリータと羽野は、アーリーが金を自由に操れることに危機感を覚えないわけではない。だが他に金を預けられる場所がないので、アーリーに預けるよりほかはないのである。むろん、守秘を約束してもらうために、月々に相当な利子を支払っている。アーリーは信用できる男だが、それでも、絶対に信用できるということはない。なにせ、なんでも知っている情報屋などという怪しい存在なのである。いつドロンするか分からない。――とはいっても、やはり信用しているには信用しているのである。でなければ、いくら他に選択肢がないからと言って、金を預けることはしないだろう。

 アーリーは機械をポケットにしまうと、灰皿にタバコを押し付けて火を消した。手に着いた砂でも払うみたいに、手のひらをパンパンと叩く。テーブルの上に足を組んで座ったまま、彼は言った。

「さて、まず事実の確認だ。お前らはクラークビルに裏口から侵入した。非常階段を上って行った。センサーが切れていた。警備員が撃たれて死んでいた。オフィスに入ると、やはり警備員や社員が殺されていて、社内はひっそりしていた。監視カメラは全て破壊されていた。ピンクタイガー保管庫に行くと、すでにドアは破られていて、ジュエルパンツは盗まれていた。そして停電。――で、それのだいたい半時後にクラーク邸襲撃、クラーク嬢を誘拐。補足として、撃たれた人間の体内から摘出された弾丸はすべてロリータの拳銃のものと一致。破壊された監視カメラの記録映像には、不審人物はまったく映っていなかった」

 ここまで一息に述べると、彼はちょっと休んだ。そしてこう言った。

「おかしいと思わないか」

「まるで僕たちが裏側に来るのを知っていたみたい……?」

「いや、そんなのは疑うにはあたらない。ヘリやら警察やらがいる中、バカ正直に空からやってくることがありえないのはちょっと考えりゃ分かることだ。となると必然あやしいのは裏庭のマンホールということになる。――まあ、アホな警備連中は空からやってくると思っていたみたいだけどな」

「じゃあ、いったいどこがおかしいんです?」

「あなたは鈍いのね、ハノー」

 ロリータが言った。彼女は続けた。

「センサーが切れていた。なぜかしら? センサーを切るにはまずコントロールルームに行かなければならないわ。でないとセンサーに引っ掛かってしまう」

「そうだ、まずはそこだ。そして次に疑うべきは警備員がことごとくやられているのに、騒ぎにはなっていないってことだ。警備員は全員額を撃ち抜かれている。ということは犯人の顔を見たはずだ。それなのに声をあげていない」

「そう。あとは監視カメラね。記録映像には犯人の姿は映っていないといったわね、アーリー。ということは、犯人はカメラの位置を正確に把握していたということ」

「その通りだ。たとえば俺はクラークビルの構造と監視カメラの位置を知っているが、内部構造をいくら頭に入れたところで、初めての侵入でミスなく全てのカメラを破壊するなんてのは不可能だ。その他にも気になる点はあるが、これだけでもう充分だろう。犯人は――」

「社内の人間、あるいは社と関わりをもつ人間。そうでしょう?」

「まあそういうことだ」

「社内の人間? なんで自社の不利益になるようなことをするんです? それも、クラーク嬢の誘拐まで……」

「そこね、ハノー。わたしもそこが分からないわ。どうしてかしら」

「ああ、それはだな――」

 と、言葉の途中でアーリーは口を閉じ、耳に手を当てた。実は先程からイヤホンをはめていて、何かを聞いていたのだった。

「どうしたの、アーリー」

 怪訝な顔でロリータが言った。

「なに、昨晩の盗聴データを聞いているんだがな、いま面白い話が耳に入った」

 ロリータと羽野は首を傾げた。

「今夜七時。ニューデルベルク城。――お前ら、今度はクラーク氏の殺人犯だ」

 

     *


 ロリータ事件から一晩明けた朝、ゆりあ警部は眠たそうに署内のソファからむくりと起き上がった。

 ゆりあ警部の有給申請は承認された。署長はだいぶ渋ったが、「余計なことはしないように。休暇中は休暇中らしく休むように」と言って申請を処理した。ゆりあ警部はもちろん、「わたしの人生に余計なことなど無いのだ」と小さな胸を張って、居丈高に答えた。

 ぼさぼさの金髪ロングヘアに寝ぼけ眼で、ゆりあ警部はぼけっとソファに座っている。子供みたいに、寝起きにかなり弱いのだ。

 そんなゆりあ警部の目の前に、突如コーヒーカップが現れる。香ばしい湯気がゆりあ警部の鼻をくすぐる。ゆりあ警部は寝ぼけ顔で斜め上を見た。ワイシャツ姿の部下の姿があった。

「おはようございます」

「むむ」とゆりあ警部は目をこすって瞬きし、「おはようなのだ」

 答えて、部下の手からカップを受け取る。そしてスープを飲むみたいに、両手でカップを持って飲み始める。

「有給とったんですって? 朝から署長がぷんぷんしちゃって困ってるみたいですよ、みんな」

 ゆりあ警部はコーヒーに夢中で、話を聞いていない。部下は苦笑した。

「ぷはっ」と、彼女はコーヒーを飲み干し、口からカップを離した。目が覚めたらしく、つやのある真ん丸の瞳で部下を見る。

「わたしは有給をとったのだ」

「ええ」

「若いブロンドの男を探すのだ」

「見つかりますかね。若いブロンドの男なんてありふれていますし」

「見つかるのだ」

 ゆりあ警部は自信に満ち満ちたかおで言った。

「考えてもみるのだ。犯人は誰にも怪しまれることなく、痕跡をのこさず、犯行を遂げたのだ。これは相当なプロの仕業か、あるいは社内の人間の仕業なのだ。それもそれなりの信用を得ている人間なのだ。社内の人間を洗えばすぐに見当はつくのだ」

「ああ、言われてみれば」

 部下は二三度ちいさく頷いた。それから真剣な顔で、情熱的に胸の前で拳を握った。

「それ、私がやりますよ。絶対に捕まえましょう。殉死したマルティンのためにも……。捕まえなくちゃいけませんよ」

 しかしゆりあ警部は首を振った。

「君はわたしの分まで署内の仕事をこなすのだ。それが部下である君の役目なのだ」

「ええ?」部下は気の抜けた声を漏らした。彼は手振りを交えて抵抗した。「そんな、私だって、マルティンのために……」

「だーめなのだ。君まで居なくなったら、署内はてんてこまいなのだ。それに」

「それに?」

「あまりわたしに従ってばかりいると、君の出世に響くのだ」

 部下は署長の顔を思い浮かべた。署長はゆりあ警部を快く思っていなかった。それは

当然、ゆりあ警部の部下である自分についてもそうなのだ。出世。彼にとってその言葉は重たかった。

 ゆりあ警部はソファから立ち上がると、壁に掛けてあったコートを手に取り羽織って、ハットも手に取って頭に乗せた。

「マルティンの分まで真面目に仕事をこなすのが君の仕事なのだ。よろしく頼んだのだ」

 そう言って部下の肩を叩き、歩き出す。彼はしばらく佇んでいたが、慌てて振り返って、ゆりあ警部の背中に声をかけた。

「警部、どこへ」

 ゆりあ警部は振り向いて、得意げににやりとした。

「わたしは休暇中なのだ」

 そうして彼女は部屋を出て行った。

 取り残された部下はなおも、ゆりあ警部に従いたい気持ちと、出世という言葉の間で揺れていた。結局、彼はゆりあ警部の言葉通りに、署内の積もり積もった仕事に取り掛かった。自分まで居なくなったら署内が大変なことになるのは確かだった。だから彼は、きちんと責任感を持って、真面目に仕事に取り組んだ。



 ゆりあ警部の向かった先はクラーク本部ビルだった。

 エントランスを抜け、広々としたロビーに入る。右手の壁には、いくつもの昇降口が並んでおり、階を示すランプがひっきりなしに動いている。正面の突き当りの両サイドには階段があって、ロビーから目に見える二階に繋がっている。二階はロビーの壁に沿ってぐるりと、ベランダみたいになっている。そしてそこから三方に廊下が伸びている。

 ロビーに入ってすぐのところに受付がある。清楚な身なりの美しい受付嬢が立っている。

 ゆりあ警部は受付の前に立った。受付嬢が事務的な言葉を口にするより先に、彼女は言った。

「代表取締役社長はおられますかな」

「アポイントメントはございますか」

「ないのだ。それにそう言った用件でもないのだ。社長はおられますかな?」

「社長は本日出社しておりません。ご存知だと思われますが、昨晩――」

「なるほど。では社長は御在宅なのですかな?」

「申し訳ございません。それにはお答えできません」

「なぜですかな」

「秘書の者にそう申しつけられておりますので」

「秘書? ――ふむ、それならまあいいのだ。どうもありがとうなのだ」

 ゆりあ警部は受付を離れ、クラークビルを後にした。

 タクシーを呼び、後部座席に乗り込むと、行先の住所を運転手に伝えた。

 腕組みしてシートに腰かけ揺られながら、ゆりあ警部は「何かあったな」と考えた。

 考えられるのは、犯人からの身代金の要求だった。しかしゆりあ警部にはその意図が分からなかった。単なる金の要求だとは思えない。ピンクタイガーを盗んだのだから、金が欲しいのならそれを売ってしまえばいいわけで、しかもそれだけで十二分な金が手に入るのだ。危険を冒してまでクラーク嬢を誘拐し、身代金を要求する必要性がない。それに、身代金とクラーク嬢を交換する場合、クラーク氏の関係者と顔を合わせる必要があるので、せっかくロリータに罪をかぶせたのに、自分たちが真犯人だとばれてしまう。――顔を合わせずに金と人質を交換する方法はあるが、それにしても、ただ金欲しさにわざわざ誘拐までするだろうか。

 ゆりあ警部は、犯人は相当なプロか社内の人間だと推論した。相当なプロなら、絶対に誘拐などしない。ジュエルパンツがどれほどの金になるかをしっているはずだし、なにより余計なことはしないはずだ。では社内の人間だった場合は?

 そこでゆりあ警部は頭を悩ませた。社内の人間がパンツを盗み、誘拐する理由がまったく見えてこないのだ。金欲しさなら、やはりパンツを盗んでそれでおしまいだ。なぜクラーク嬢を、社長の孫娘を誘拐したのか。

 視点を変えてみよう。

 もし犯人の目的がパンツではなく、誘拐だとしたら。それをもロリータの罪にするために今回の犯行に及んだのだとしたら。

 さらに視点を変え、身代金など求めていないとしたら。――危険なのはクラーク氏?

「狙いは社長の暗殺か……?」

 そうだとするなら。社長の椅子争いに近いものが、クラーク氏の家の人間を殺し、そしてクラーク氏をも殺そうとしているのだろうか。だが犯人は若いブロンドの男だ。そんな若い男が重役についているとは思えない。彼は何者なのだろうか。犯行を依頼されたプロの仕事屋か。

 ここまで考えて、ゆりあ氏は一旦頭を空にした。断定的な観念は捜査の邪魔になる。決定的なことを確認するまでは、あくまで一つの推論として念頭に置いておくべきだ。

 タクシーはクラーク邸の近くの公園に到着した。ゆりあ警部は金を払って車を降りた。ドアを閉める際、ふと思いついて、運転手に連絡先を聞いた。そして、また後で必ず呼ぶことになるから、すまないが呼んだらすぐ来れるようにしてくれと言った。運転手は了解した。

 ゆりあ警部はクラーク邸の近くまで歩いた。ただの通行人のふりをして、クラーク邸の様子をうかがう。

 クラーク邸、と言っても事件現場のほうではない。クラーク氏は近所に家を二つ持っている。一つは事件現場となった現在住んでいる現代風の家。いまゆりあ警部が様子を窺っているのは、代々住んできた家で、いまは外国客の宿泊用になっている。

 クラーク邸は十七世紀に建てられた豪奢なお屋敷である。十八世紀、大老クラーク氏は穀物商をはじめ、一代で巨万の富を築きあげた。そのときに零落して火の車になっていた当時の家主から、お屋敷を買い取ったのである。以来、クラーク一家は代々ここに住んでいる。

 屋敷の周りには警官がずらっと並んで立っていた。

『家にいるのは間違いないな』とゆりあ警部は思った。

 彼女はそのまま屋敷の前を通り過ぎ、少し離れたところにある曲がり角の陰に隠れてクラーク邸の見張りをした。もし身代金要求があれば、そのうち屋敷から出てくるはずだ。そうなったら後をつければよいわけだ。

 ふわあ、っとゆりあ警部は欠伸をした。

「いかんいかん、だらしないのだ」

 そして今度はお腹が鳴った。昨晩から何も口にしていないのだった。

 空腹では集中力が落ちるので、彼女は近くのマーケットへ食べ物を買いに行くことにした。明るい午前にクラーク氏が出かけることはないだろう。

 ゆりあ警部はバンズとチーズとハムを買って見張り場所に戻って来た。チーズバーガーを作って、「へーむへむへむ」と言いながらせっかちに早食いした。

 それからあくびをしたり、背伸びをしたりしながら見張りを続けた。何時間も経った。もうおやつの時間になっていた。

 と、彼女の淡い褐色のコートから、ぴぴぴという電子音が鳴りだした。ポケットから電話を取り出すと、部下からの着信だった。彼女は電話に出た。

「なんなのだ」

『聞いて下さい、見つけたんですよ、若いブロンドの男!』

 部下は興奮した様子だった。ゆりあ警部の役に立つ情報を見つけたことが嬉しいのだろう。

「仕事はどうしたのだ」

『大丈夫ですよ、そっちもきちんとこなしてますから。それより、ブロンドの男です。クラーク社のデータベース、知ってます? そこに社員のプロフィールと顔写真、そして重役の家族のプロフィールまで載っているんです』

「ハッキングしたのか」

『はい、ちょちょいとね、やってやりました。おかげで昼抜きですよ』

「それで、ブロンドの男は?」

『へへ、ばっちり顔まで見ましたよ。もうプリントアウトしてあります。署に戻ってきてください』

「分かったのだ。そんなことより、肝心の名前をまず教えていただきたいのだ」

『あ、すみません、なんか興奮しちゃって。若いブロンドの男、すごい美形ですよ。名前は――』

 部下の声はそこで遠ざかって聞こえなくなった。直後、電話を壁に投げつけたようなうるさい音がゆりあ警部の鼓膜を不快にゆすぶった。ゆりあ警部は顔をしかめた。

「おい、どうしたのだ」

 問い掛ける途中、通話はぷつりと途切れた。ゆりあ警部は怪訝に思って電話を見つめた。そして何度か掛けなおしてみた。電源が切れているという音声が返ってきた。電池切れだろうか。

「まったく、肝心なところで……」

 ゆりあ警部は署に戻ろうか迷ったが、そろそろクラーク氏に動きがみられるかもしれないので、見張りを続けることにした。

 その後、何度電話をかけても、部下が出ることはなかった。

「ふわあ……」

 ゆりあ警部は眠たそうに欠伸をした。


     *


 部下がゆりあ氏に電話を掛けたのは、署内のトイレだった。

 誰かに聞かれては困ると思ったので、人目を憚ってトイレに行ったのだった。

 そしていよいよ名前を口にするその瞬間に、

「おい、君」

 と声がした。

「すごい美形ですよ」

 と言いながら彼が目にしたのは、洗面器の前で自分に銃口を突きつける警察署長だった。

「名前は――」

 彼はそこで唖然として、電話を手から落っことした。

 署長の後ろにいた副署長が歩み寄ってきて、電話を拾った。彼は電話の電源を切って、部下の顔を見、にんまりと笑った。

「だめじゃあないか、ユルヒェンくん」

「あ、あ……どうしたんですか、署長、副署長……」

 部下は顔の前に両手を挙げ、あまりの動揺にひきつるような笑みを浮かべて、そう言った。

 署長はなおも銃を部下に向け、片手で顎を撫でながら、一歩、二歩と近づいてくる。署長の冷たい表情に、部下はおののいた。

 コツ、コツ、とゆっくり歩み寄り、署長は部下の目の前に立ち止まった。腕を伸ばして、額に銃口を突きつける。

「だめだよお、ユルヒェンくん……」

 副署長が背後から部下の肩をもみながら言った。部下はぶるぶる震えた。

「君は見たんだね」と署長が低い声で言った。

「な、なにをですか……?」

「とぼけるなよ。ハッキングしただろう?」

 部下はあごを震わせながら、ごくりと唾を飲み込んだ。彼は恐怖にまばたきすらできず、目を丸々と見開いていた。

「君は見てはいけないものを見てしまった」

「……はい……はい」

 何が何やらよく分からぬまま、彼はこくりこくり頷いた。

「いいかいユルヒェンくん、長く刑事を務めるコツはね、深く知り過ぎないことだ」

「はい……肝に銘じておきます……」

「結構だ」

「あ、ありがとうございます」

 部下はほっと息を突いて、両手を下ろした。だが署長は銃を下ろさなかった。彼は冷淡にこう言った。

「何を勘違いしているんだね。――肝に銘じる必要はないと言っているんだよ」

「……は?」

「君とはさよならだ、ユルヒェンくん」

「あ、あ……!」

 副署長が足払いをして部下を床に転ばせた。床に倒れる部下に向かって、署長は引き金を引いた。パンという乾いた音がトイレに響いた。

 ――二人はトイレの外に出た。清掃員のおじいさんが、清掃道具とキャスター付の荷台を用意して待っていた。署長は彼の肩をぽんと叩いた。

「報酬分、よろしく頼みますぞ」

「へえ。急ぎで処理します」

 清掃員は中へ入って行った。

 署長、副署長の二人は後ろ手を組みながら、悠然と廊下を歩いて行く。陽気な笑いを浮かべながら、いかにも談笑してますといった感じに、彼らは話し始めた。

「ユルヒェンくんはたしか英語とフランス語が出来たね」と署長が言った。

「ええ、大学時代に熱心に勉強したみたいですよ」

「そうか。では彼をどこに転勤させようか」

「国外転勤ですか、いや、研修ですかな」

「うむ。いっそアメリカあたりに研修に行かせようか」

「ひひひ。そうですねえ、彼は優秀ですからねえ。でも、むこうで殉死しなければいいですけどねえ」

「ああ、きっとストリートで撃たれて殉死だな、三か月後あたりにね……」

「ひひひひ」

「そうだそうだ、場合によっては北城くんも転勤だ」

「人事異動が激しいですなあ、ひひ」

「嘆かわしいね」

 二人は仲よく廊下を歩いて行った。


     *


 時間は少々遡る。

 廃ビルの一室のようなアーリーの隠れ家。アーリーはテーブルの上に足を組んで座り、片手でイヤホンを押さえ、たった今入った情報をロリータに伝えた。

「今夜七時。ニューデルベルク城。――お前ら、今度はクラーク氏の殺人犯だ」

 羽野はその言葉に動揺し、ロリータは落ち着いた様子で「つまり?」と問うた。

「さっきの話と繋がるが、犯人の目的はクラーク氏の暗殺だ。つまり、クラーク嬢の身代金を要求してクラーク氏を呼び出す。当然、犯人は表沙汰にするなと釘を刺しておく。表沙汰にしたらお孫さんはあの世行きだとでも言ってな。そして夜、クラーク氏を殺害し、用済みになったクラーク嬢も殺される。生かしといたら全てがバレちまうからな。そんでその後クラーク氏殺害はロリータの犯行だということを公表し、ロリータが警察に逮捕され、おしまいってわけ」

「ちょっと待ってください。『その後公表する』ってどういうことですか? 自首するようなものじゃないですか」

「組織犯罪、ということかしら」

 ロリータは腕組みしながら険しい顔で言った。

 アーリーは指をぱちんと鳴らし、「ご名答」と言った。

「それもやつらが狙っているのは単なる社長交代じゃない。権力争いでもない。もっとでっけえもんだ」

 ロリータは床に目を落とし、しばし難しそうな顔で考えていた。やがて彼女はちいさっ首を振って顔を上げた。

「若くて綺麗なブロンドの男……彼は何者?」

「そいつがトップだ。全てはヤツの策略だ。ヤツの名は――」

 アーリーがいままさに名前を言おうとした瞬間、彼は敏感に何かを聞きとって、口を閉じた。部屋の外から階段を上ってくるいくつもの足音が聞こえるのだ。

 ロリータたちもその音を聞いた。沈黙の隠れ家に、謎の足音が近づいてくる……

 アーリーはひょいと振り返って、窓の外を見た。眼下の路地にいかにもな悪人が、何人も立っていた。闇色の汚いスーツにハット、そして拳銃。ブデンブロクスの連中だった。そして向かいの建物の窓にも人影が見えた……

 アーリーはロリータたちに壁際に逃げろと顎で合図した。二人は緊張の面持ちで窓際の隅に身を移した。アーリー自身も、テーブルからひょいと飛び降りて、ロリータとは反対の隅に移動した。腰のベルトから拳銃を取り出して構える。

「完全に囲まれてるぜ。逃げ場なし、退避前線出口なし。大変だな、お前らも」

「ブデンブロクスね? いつからつけられていたのかしら……迷惑かけてごめんなさい、アーリー」

「グリュンディルヒを出たあたりからじゃないかねえ。あいつらアリみたいにどこにでもいやがるからな。俺のことは気にするな。こんなのは慣れっこだ」

「どうやって逃げますか?」

「ドアから出るのはまず無理だな。窓を割って出るのもなあ……ちとキツイ」

「じゃあどうやって逃げるんですか?」

「俺を舐めるな。なんのための隠れ家だと思ってる。テーブルを見てみろ」

 二人はテーブルを見た。テーブルは簡単に言えば「コ」の字型になっていて、ドアのほうからは足元が見えず、窓側からは足元が見えるようになっている。テーブルの足元には、「コ」の字の内側には、正方形の鉄板が置かれてあった。

「あの板、なにかしら」

「あれを取ると柱みたいに下に真っ直ぐ通路が伸びている。下の階を貫いてそのまま地下だ。地下水路に繋がっている。そんでそのまま流れに乗って川に出る。――と、おしゃべりはここまでだ」

 いよいよ足音が大きくなってきた。三人の身体に緊張が走る。ロリータは銃を手にし、羽野は刀を抜いて構えた。

「アーリー、先に逃げて」

 ロリータの言うままに、アーリーは頷いてその場にしゃがみ、テーブルに近づいた。

 アーリーが隠し通路の鉄板に手をかけた時、ドアがバタンと荒々しく開けられ、いきなり銃弾が飛んできた。羽野は刀を振ってそれを弾いた。

「見ぃつけたぜぇ、ロリータァ!」

「へっへっへ、かかれかかれ!」

 ブデンブロクスの哄笑が起こり、場はたちまち騒然とした。

 羽野はロリータの二歩前に立ちはだかって、銃弾を一手に受けた。そしてその全てを刀で弾き落とした。

 ロリータは羽野の背後から、部屋に入ってくる男たちの銃を撃ち落とし、部屋のこちら半分への侵入を許さなかった。銃を撃ち落とされた男は衝撃の痛みに手を押さえ、蹲った。

 アーリーはもう鉄板を外しており、あとは隠し通路に入り込むだけだった。――ここを出たら急いである程度遠くまで逃げなければならない。だが、ロリータに売るべき情報をまだ売りきっていないから、このあとすぐに会わなければならない。しかし「○○で待っている」と言えば、ブデンブロクスの連中に知られてしまう。

「七時だ、ロリータ!」

 彼は銃声の響きに負けないよう、怒鳴った。それは「ニューデルベルクで会おう」という意味だった。時間は七時ではなく出来る限り早くだし、城で会うということでもない。上手いこと察してくれるとよいのだが。――彼は通路にすべり込んだ。

「ロリータ、行ってください!」

 銃弾をさばきながら、羽野は叫んだ。

 ロリータはしばらく敵の銃を撃つことを続けてから、テーブルの下にすべり込んだ。

 それを見ると、羽野はわざとらしく言った。

「まずい、僕も早くテーブルの下の隠し通路を通って一階に逃げなくちゃ!」

 すると入り口に引っ掛かっていた連中が「おい、ロリータは下だ! 下に逃げたぞ!」と言って、慌てて階段を降りて行った。羽野にとっては少しばかり悲しいことに? すぐに銃弾は飛んでこなくなった。みんなロリータを捕まえればいいのであって、羽野のことはどうでもいいのである。

 羽野はふうと一息つくと、テーブルに駆け寄り、部屋にうずくまっているブデンブロクスの連中に「ごめんなさい、また仲良くしてくださいね」と声をかけて、隠し通路に入り込んだ。

 五階の隠し通路から地下へ降りるのはなかなかの恐怖感を伴う飛び降り体験だった。羽野は狭く真っ暗な通路を落下している時、不安でしようがなかった。股間の辺りが寒い。いつ水路に着くだろう、まだかな、まだかな、――もうちょっと先かな? と思ったところで、羽野は一気に水の中に沈み込んだ。不意の着水だったため、鼻から物凄い勢いで水が入ってきた。つーんとした激しい痛みに顔をしかめながら、羽野は流れに流された。

 気が付くと閉じていた瞼が明るくなって、かすかな暖かさを感じていた。目を開くと、穏やかな流れの清流に出ていた。羽野は平泳ぎで岸まで泳いだ。岸に腕を引っかけて上ろうとすると、目の前に白い手が差し出された。顔を上げると、ロリータが手を差し伸べていた。羽野は素直にそれを掴んで、岸に引っ張り上げてもらった。

「ありがとうございます」

「いいえ」

「ところで、アーリーさんは?」

 と、羽野は水を吸って重たくなった服を絞りながら言った。

「わたしが着いたときにはもういなかったわ。つまり、わたしたちものんびりしていないで早いとこ逃げた方がいいってことね」

「あ、じゃあ僕のこと待っててくれたんですね、ロリータ」

「否定はしないわ。さあ、わたしたちも行くわよ」

 ロリータはくるりと背を向けて歩き出した。羽野はなおも服を絞りながら、

「行くって、どこにですか」

「ニューデルベルクに決まっているでしょ。さ、早くしないと置いて行くわよ」

 ロリータはそう言って走り出す。羽野はやっぱり服を絞りながら、小走りでロリータの後を追った。

「待ってくださいよぉ、ロリータぁ」



 二人は流れに沿って歩いた。やがて雑木林に入った。彼らはそこで小枝や枯葉を集めて火を起こし、上着を脱いで、それを大枝やツルを組んで作った物干しに掛けて乾かした。そして焚火を挟んで向かい合い、尻をついて座った。

 ロリータはキャミソール、おむつみたいなパンツという部屋着のような姿で、羽野は上半身裸にトランクス一丁である。

 裸になると明らかになるが、羽野は平生のなよなよした姿からはまるで想像もつかないほどに、筋肉の盛り上がった逞しい体つきをしている。剣道を始めた小学生以来、日々鍛錬を欠かさなかった成果であろう。

 その逞しい二の腕をさすりながら、羽野は弱弱しい声で言った。

「寒いですね、ロリータ」

「そうね。でもすぐ暖かくなるわ」

「だといいんですけど。……アーリーさん、無事ですかね」

「あれくらいでどうにかなるような男じゃないわ。でなきゃ、情報収集中にとっくに殺されてるわよ」

「たしかにそうですね。情報と言えば、結局肝心なところは聞けずじまいでしたね」

「でも必要最低限のことは聞けたわよ。ニューデルベルク城。いまは犯人の狙いを阻止することだけを考えましょう」

「そうですね。だけど敵がいまどこにいるのか分かれば、未然に防げたんですけどね」

「たらればの話をしてもしょうがないわ」

「まあ、そうですけど」

 羽野は揺れる炎を見つめた。「さむっ」と体が震える。

「今何時でしょう」

「さあ、まだ朝でしょうね」

「七時までまだまだですね」

「そうね。だからお昼ごろには出発するわよ」

「えっ、どうしてですか」

 ロリータは呆れ顔をした。

「七時に犯人とクラーク氏がやってくるのに、七時ちょっと前に行ったのでは遅いでしょう。何時間も前に入って待機していないと」

「ああ、それもそうですね」

 いまロリータたちのいる雑木林の真ん中を流れる川は、アタルヴァ川といって、このままニューデルベルクに繋がっている。二人は尋常でない脚力を持っているので、走れば二時間で着くだろう。

 羽野は寒そうに二の腕をさすった。

「寒いですね、ロリータ」

「そうね」

「服、はやく乾かないかな……」



 二人が雑木林の焚火を消して出発したのは、お昼ちょっと前だった。服はまだやや湿っていたが、ほとんど乾いた。

 そしてニューデルベルクに着いたのは午後二時過ぎ、太陽の眩い時間だった。

 ニューデルベルクもミストポリスと同じく、歴史的な景色の残る街である。小さな輪っかのような町で、そこにゴチックやバロック風の建物や塔がそびえ立ち、町の真ん中を壮麗なアタルヴァ川が流れゆく。建物の屋根は悉く赤く、上空から見ると、町は褪せた朱色に染まる。古めかしい教会や寺院、市庁舎の前には広場があり、殷賑で、道も広いが、それ以外の路地は狭隘で、人通りも少なく、寂しい。

 街には緑も多い。アタルヴァ川の脇の深い茂みが街に侵入して、ほとんど街と一体化しているのである。それは緑色の濃密な雲のように見える。

 ロリータたちはその中を通って行った。やがて外に出ると、そこは小さな歩道で、すぐ左手に石造りの厳めしい壁があった。背が高く、侵入を拒むように立ちはだかっている。それが遠くまで続いている。途切れたところに城門と思しき場所があり、物見台だろうか、高い塔が立っている。人通りは多い。

 ニューデルベルク城は、ドイツの城には珍しく、街とまったく一体化している。普通、ドイツの城は防護性と建造の手軽さを求めるために、険しい岩山や丘の上に作られるので、孤立し、容易に近づきえない要塞、城塞のようになっているのだが、ニューデルベルク城は違っていた。

 ニューデルベルク城の城門はアタルヴァ川のすぐ隣にある。城門前のアタルヴァ川には幅広の頑丈な石造りの橋がかかっており、それが街の道路と城門とを繋いでいる。そして城門を抜けた先には、街と同じように小さな建物がひしめき合っており、三階建ての長屋のような長大な建造物が城門壁に沿って建っている。城というよりむしろ一個の巨大な施設のようである。しかも町の人がそこで普通に生活している。城というよりも、城そのものが街、あるいは街そのものが城のようなものである。(ここはすでに城なのだが、便宜的に城下町と呼ぶことにしよう。同様に、城下町の外はニューデルベルクの街と呼ぶことにしよう)。

 といっても、城と呼ぶにふさわしい建物が無いわけではない。城門を抜けた先のひしめきあう建物、そこを抜けさらにさらに進んで行くと、やがて人通りは少なくなる。なだらかな坂が続いており、そこを上って行った先に、およそ人が「西洋の城」と言われた時に想像するような、がっしりした外観の、大きなとんがり帽子の三つ立つ、高雅なお城が立っている。しかし規模が小さく、城塞というよりもただの豪奢な住居といったような具合である。一般に、ニューデルベルク城と言う時、人々はこの建物のことを指す。

 さて、我らがロリータと羽野は、早速城下町に入って行った。

 別段、外と変わった所はない。ひしめきあう古風な建物たち、その間を通るアタルヴァ川の支流ほどの広さの石畳の道。その上を行く通行人。観光地でもあるので、それなりに人がいる。だが警戒するにはあたらない。見たところどれも私服姿の一般人で、ロリータの敵らしき人間は見当たらない。

 歩きながら、羽野は空を見上げた。晴れやかな淡青の空である。薄い黄金色の日差しが眩しい。

「いい天気ですね、ロリータ」

「あなたは能天気ね、ハノー」

「なんでですか」

「わたしたちは観光に来たのではないのよ」

「いや、そうですけど、だからこそ今のうちに景色を楽しんでおきたいじゃないですか」

「そう、じゃそうしているといいわ」

 ロリータは歩を速めた。羽野を置いてスタスタと先へ行ってしまう。羽野は慌てて、

「あ、待ってくださいよ、ロリータ」

「いやよ。あなたといたら日が暮れてしまうわ」

「昨日も似たようなセリフを聞いた気がします……」

 城下町を奥へ進むと、やがて道は坂になる。素直な坂ではなくて、やや曲がりくねった道である。斜め上には城の姿が見える。

 そうして坂を上って行くと、再び平地になり、そびえ立つ城が目の前に現れる。やはり背の高い城壁が城をぐるり囲んでいて、正面に城門がある。

 ニューデルベルク城は普段一般に開放されている。城門のところに受付があって、そこで入城料を支払い、中に入る。開城時間は朝の十時で、夕方の五時に閉城となる。警備員はおらず、日本の江戸城のように札を渡されることもないので、どこかに隠れて夜を待つのは容易だろう。

 ロリータたちは受付に小金を支払って城門を抜けた。

 城の中を歩きながら、羽野は言った。

「どうして犯人はここを選んだのでしょう」

「なぜ、なぜ、なぜ――なぜと言い出したらきりがないわ。七時になれば分かることよ」

 ロリータは城内の階段を上って行く。羽野は階段の脇にパンフレットのようなものが置いてあるのに気付いて、一枚手に取った。そこには一般観覧終了のお知らせ、何月何日、云々。と書かれてあった。

 羽野はそれをロリータに見せた。

「どういうことでしょう」

「『ニューデルベルク城、市から個人への売却に伴い……』。気になるわね」

「それもアーリーさんは知っているんでしょうか」

「知っているでしょうね。早く会って話を聞きたいわ」

「アーリーさん、もう城の中にいるんでしょうか」

「どうかしら。とりあえず、今は隠れられそうな場所を探しておくわよ」

 二人は二階に上がった。外へ繋がる大きな扉が解放されている。二人は外に出た。そこからはニューデルベルクの街並みが眺望された。彼らは外の景観を眺めながら、そこをぐるりと半周した。

「犯人がクラーク氏と面会するのはどこだと思う、ハノー」

「そうですね……大広間、中庭、それに今僕らのいるこの場所」

 羽野はそう言って城の外を見た。

 今彼らが立っているのは城の裏側、街の反対側である。外は一面森で、人が通れるような場所はない。外から様子を見られる心配がない。

「ここと同じ場所が三階にもあるわ」

「じゃあそこもですね」

 ロリータはしばし考え込んでから言った。

「ちょっと城の外へ行ってくれるかしら」

 羽野は言われた通り、城内に戻って階段を降り、城の外へ出た。ロリータは城の正面に戻って、羽野が外に出たのを確認した。羽野は城の入り口のところから二階のロリータを見上げた。

「そこからできるだけゆっくり、さっきのところへ歩いてきてくれるかしら」

「はあ、分かりました」

 ロリータは城の裏側に戻って羽野が帰ってくるのを待った。

 帰ってくると、ロリータは今度は三階で同じことをさせた。

 再び戻ってくると、羽野は首を傾げた。

「なんのためにこんなことを?」

「時間をはかっていたのよ。つまり、クラーク氏が城に入ってからここに来るまでの時間。もしそれ以上の時間がかかったら、彼らはどこか別の場所で面会するということよ」

「ああ、なるほど。そうしておけば城内を探し回る必要がないわけですね。――でも、肝心の隠れ場所は? そもそもそんな面倒なことはせず、入り口の近くに隠れておいて、人が入って来たら後をつければよくないですか?」

「犯人が無警戒でくるとは限らないわ。もし狭い所に隠れていて、それで見つかったらおしまいよ。犯人はおそらくわたしたちを捕まえて警察に突き出すでしょう。クラーク氏もクラーク嬢も殺され、犯人は任務遂行というわけ」

「たしかにそうですね。じゃあ、どこに隠れるんですか?」

 ロリータは上を指差した。

「屋上よ」

「屋上ですか。――たしかに屋上は城に入ってくる人の動きも見えるし、逃げやすい場所ですけど、ニューデルベルク城に屋上なんてありませんよ」

 羽野の言う通り、城に屋上は無かった。正しくは、屋上に繋がる道はなかった。

「だからこそ上るんでしょ?」

「ええ? 無茶ですよ、こんな高い壁を上るのは」

 ロリータはやれやれとため息をついた。

「武士は気合でなんとかする生き物じゃなかったかしら?」

「気合が第一だというのはありますが、それは出来不出来に関わる話で、不可能事を可能事にするということじゃないですよ」

「そ、まあいいわ。とにかく隠れ場はそこで決まり。さ、念のため他の場所も調べておくわよ。アーリーが来ているかもしれないし」

 二人は城の中に入った。

 一階を調べ回っていると、地下に繋がっていると思われる下り階段を発見した。だが数歩降りたところに黒い鉄の扉があって、それに堅固な錠がかかっていた。ロリータは一、二度扉を押してみて諦めた。

「気になるわね、ここ」

「そうですね。何かありそうです」

「斬りなさい、ハノー」

「無茶言わないでください。斬れるか斬れないかは別として、見つかったら怒られちゃいますよ」

「冗談よ。騒ぎを起こすようなことをしたら全て台無しじゃない」

 冗談ですか、と羽野はほっと息をついた。

 それからしばらく、二人は城内を見て回った。ついにアーリーに出会うことはなかった。閉館時間が近づいていた。二人は三階へ上って行った。……


     *


 アーリーはロリータたちが来る前にニューデルベルクに到着していた。彼は城下町の外の、アタルヴァ川の橋の前で待っていた。城下町の対岸で待っていた。

 ところが、いつまでたってもロリータはやってこない。ニューデルベルク城へ行くには、必ずこの橋を通るはずなのだが……

 夕方五時を回った。それでも彼は待ち続けていた……

 ロリータが来ないのは当然だった。ご存知の通り、ロリータたちは彼の後ろを通って、とっくの前にニューデルベルク城下町に入っていたのだから。


     *


 夕方五時頃、クラーク邸前は落ち日を身に受けて郷愁を感じさせるような淡い橙色に染まっていた。

「電話に出んのだ」

 ゆりあ警部は不機嫌そうに受話器を耳から離した。部下に電話したのだが、相変わらず電源切れの状態なのだった。

 彼女は薄い褐色のコートのポケットに「むん」と携帯電話をねじ込んだ。そしてクラーク邸の様子を窺った。特に変化は見られない。

「動きもないのだ」

 彼女はもう何時間もここでこうして見張りを続けていた。

「ふあーあ」

 あくびをして、「退屈なのだ」と呟く。

 ゆりあ警部は「どうせなら電話があった時に一旦帰ればよかったのだ」と思った。彼女はこれまで何度も署に戻ろうか考えた。けれども、自分がいない間に何か動きがあっては困ると考えると、なかなか決心がつかないのだった。逡巡しているうちに、いよいよ動くことの出来ない時間になってしまった。夕方五時すぎ。日暮れまでもう少し。その頃なにか動きがあるはずだ。

 と、ちょうど彼女がそう考えている時、クラーク邸に動きがみられた。

 玄関から数名の男たちが出てきたのだ。

 先頭を歩くのは眼鏡をかけた四十歳くらいの男。昨晩、クラークビルでクラーク氏と面会した時に、脇に立っていた謹厳な部下である。彼の後ろに、この一晩でやつれたようにさえ見える元気のないクラーク氏が続く。やや苛立っているような雰囲気がある。

 そしてクラーク氏のとなりを、見覚えのない若い男が歩いていた。ブロンドの、すらりとした背の高い美しい青年で、彼はクラーク氏の肩を支えていた。

 道の向こうから黒塗りの高級車がやってきて、クラーク邸の前に停車した。

 家の前に立っていた警官たちが車の所に集まって来た。彼らは謹厳な部下に尋ねた。

「どこへ行かれるのですか」

「どこでもありません。お気になさらず」

「しかしですね、我々は――」

 警官の言葉を遮って、クラーク氏が怒鳴った。

「うるさい、黙っておれ! ちょっと出かけるだけだ、いいか、もし後をつけて来てみろ、貴様ら全員首にしてやるからな! わかったか!」

 あまりの剣幕に、警官隊はたじろいだ。しかしまだ抵抗しようとしている。

 そこで綺麗な若い青年が、優しい音色で言った。

「すみません、ちょっと出かけるだけですので。お許しいただけますか?」

 彼は微笑した。

 警官たちはそれを見ると、なぜか体が震えた。なにか気味が悪いのだ。どこか恐ろしいのだ。それは言葉そのものの意味ではなく――あまりに美しいために。……彼らは「まあ、そういうことなら」「用事なら早く済ませてきてください」と言って退いた。

 先頭を歩く謹厳な部下が、黒い車の後部座席のドアを開けた。青年はクラーク氏の背中を支えながら、こう言った。

「さあ乗って、お義祖父さん (おじいさん)」

 クラーク氏が車に乗り込み、続いて若い男もそれを手伝うようにして、一緒に乗り込んだ。部下はドアを閉めた。

 ゆりあ警部はその様子に見入っていたが、慌ててタクシーを呼んだ。

 クラーク氏を乗せた車がこちらに向かって走ってくる。

 ゆりあ警部はその場で足踏みし、

「早く来ないかタクシーぃぃぃ」

 と子供みたいに言った。

 幸い、タクシーはすぐにやってきた。後ろから走ってきて、ゆりあ警部の傍らに停車した。ゆりあ警部は急いで乗り込み、左折して目の前の道を直進していくクラーク氏の車を指差した。

「あれを追ってくれなのだ! できれば気付かれないよう頼むのだ!」

「おっ、尾行かい? 探偵映画みたいでイカすね、お嬢ちゃん」

「お嬢ちゃんじゃないのだ、わたしはゆりあ警部なのだ!」

「そうかいそうかい、警察ごっこをしているのかい。はいよお、気付かれないように尾行するよお」

 運転手はノリノリでアクセルを踏んだ。タクシーはクラーク氏の車を追って走って行った。

 三十分ほども走った頃だった。運転手がミラーを見ながらゆりあ警部に言った。

「ありゃ、俺なにかまずいことしちまったかな」

「どうかしたのだ?」

「いや、さっきからパトカーがつけて来てんだよ」

「パトカー?」

 ゆりあ警部は後ろを見た。たしかにパトカーが走っていた。運転席はよく見えなかった。それからすぐに、パトカーは道を曲がって消えて行った。まるでゆりあ警部に見つかったから逃げたみたいだった。

「ほら見ろ、曲がったのだ。つけられていたわけではないのだ。気のせいなのだ」

「そうかね? まあそれならいいんだけどね」

 しばし無言が続き、やがてタクシー運転手が口を開いた。

「ところでお嬢ちゃん、どこまでいくつもり?」

「だからお嬢ちゃんではないと言っているのだ。それにさっき警察手帳を見せただろうなのだ」

「ごめんごめん、お嬢ちゃんっぽいからさあ。で、どこまでつけるの、あの車。このまま行くと、たぶんニューデルベルクに着くけど」

「ニューデルベルク?」

「うん」

「むむー、なにやら犯罪のにおいがするのだ……」

「ニューデルベルクで犯罪? あんな平和なところでそれはないって」

「あるのだ。警部の血が騒いでいるのだ。むわむわむわぁっと!」

 ゆりあ警部はからだをもぞもぞさせた。運転手はミラー越しに彼女を見ながら笑った。

「ははは、お嬢ちゃん見てると飽きないよ」

「うーるさいのだ。黙々と後をつけてくれなのだ」

「はは、分かったよ」

 果たして、車はニューデルベルクに着いた。日はほとんど落ちかかっていて、夜闇の訪れる前の、あの神秘的な淡い藍色があたりを包んでいた。建物には明かりがともっていた。

 街中に入る前に、クラーク氏の車は停車し、そこで若い男と謹厳な部下、そして暗く死が下車した。部下はトランクからアタッシュケースを二つ取り出した。車は走り去って行った。三人はしばしその場で待っていた。その後、運転手を務めていたもう一人の部下が、どこかに車を置いて戻ってきた。彼らは四人で街中へと歩いて行った。

 ゆりあ警部も下車した。彼女は運転手に高額な運賃を払いながら言った。

「こんなところまですまなかったのだ。どうもありがとうなのだ」

「いいよいいよ。こちらこそどうもね、また呼んでくれい」

 運転手は窓から小さく手を振りながら、もと来た道を帰って行った。

 ゆりあ警部はクラーク氏一行を慎重に尾行していった。

 ……彼女は気付いていなかった。自分も尾行されていることに。


     *


 アーリーはずっと橋の前で待っていたが、ロリータは日が暮れてもやってこなかった。

「なにやってんだあいつら」

 呟きながら何気なく通りの向こうのほうを眺めると、四つの人影が見えた。それから何かを感じ取った彼は、素早く橋を渡って城下町に入り、物陰に隠れて、人影の様子を窺った。

 人影はアーリーのすぐ横を通って、城の方へ歩いて行った。その人影はクラーク氏、謹厳な部下二人、そして若いブロンドの男だった。

 彼らと充分距離を置いてから、アーリーは物陰から出ていこうとした。が、続けて何かがやってくる気配がしたので、慌てて物陰に身を隠した。

 目の前を通って行ったのは、ちっこい人間だった。薄褐色のコートにハットで身を隠している。だがコートのボタンを締めていないのと、石畳の上を歩く音がぺちぺち鳴るのとで、それが誰だか分かった。コートの中は純白のレオタード。そして足は裸足。ハットの下から伸びるのはつややかな金髪の髪の毛。

 どう見ても幼女警部・北城ゆりあだった。

「何やってんだ、あのロリ」

 そう言ってアーリーは物陰から出ようとしたが、しかし再び何か気配を感じて、物陰に身を隠した。

 彼の目の前を過ぎ去って行ったのは、警察制服姿の小太りの男だった。

「あれは……」

 アーリーは今度こそ、物陰から出て、クラーク氏と、幼女尾行者と、さらにその尾行者を尾行した。


     *


 夜になった。あたりはほの暗い。

 ロリータと羽野はニューデルベルク城の屋上から城門、坂道、城下町、ニューデルベルクの景色を見下ろしていた。

 ニューデルベルクの夜景は美しかった。どんな美しさなのかというと、日本で言う灯籠流しのような、ああいったしんみりと見入ってしまう美しさだった。暗い潤んだ水面に浮かぶ灯、ゆらめく火、儚げな光……町の明りはそういった明りだった。そしてアタルヴァ川のさざ波立つ水面が、それらに照らされて、幻想的にかがようているのである……ここへ来た人なら分かると思うが、じっと見入ったまま、思念も想念もなく、時の流れを感ずることもなく、美が永続するあの感覚、陶酔的な感覚、それを感ぜずにはいられない。そして破局が訪れ、すなわち意識の復活、我への回帰が訪れたが最後、我々は永遠から疎外され、すなわち美から疎外され、どうかこの麗しき景色よ永遠に……と切に願うのである。願った時点で美の腐敗が始まっているとも知らずに……

 二人は身を寄せ合うようにして壁に隠れ、眼下の坂道に目を凝らしていた。

 四つの人陰がこちらへ歩いてくるのが見える。

「あれかしら」

「そうでしょうね」

「耳を澄ませるのよ、ハノー」

「はい」

 二人は下から姿が見えないよう、完全に壁の内に身を隠した。

「あれ、何か足音がしませんか?」

 しゃがみながら羽野が言った。

 たしかに足音が聞こえる。重たい足音と、すり足のような足音である。足音が一時止まった。直後、扉を豪快に開け放す音が聞こえた。そしてまた足音が始まった。それは真下から聞こえてくるように思われた。

 羽野は思わず顔をのぞかせて、城の下を窺った。羽野は目を丸くした。そんな彼の襟首を、ロリータは慌てて引っ張った。

「軽率なことはしないで。見つかったらどうするの」

「で、でも、下に……!」

「下がどうかしたの」

 羽野は唾を飲み込み、気を落ち着けてから言った。

「大男と女の子がいるんです。僕らと同じくらいの女の子」

 ロリータは眉をひそめた。

「本当に?」

「見たんです、間違いありません」

「……犯人とクラーク嬢かしら。男のほうはどんな?」

「けむくじゃらで、身体が大きくて、いかにもって感じです。ブロンドの若い男とは程遠いですよ」

「何者かしら」

「それより、まずどうやって入って来たんでしょう。人が入ってくるのなんて見ませんでしたけど……」

「初めから中にいたってことも考えられるわ。それも、わたしたちより以前にね」

「僕たちより前にって……誰にも見つからずに隠れられる場所なんてありますか? あの大男と二人で」

「地下に続く扉があったでしょう。あそこじゃないかしら」

「でも外から錠がかかっていましたよ」

「そういえばそうね……」

 ロリータは顎に手を当てて考えた。だが何も分からなかった。

「考えても仕方がないことだわ。いまはクラーク氏とクラーク嬢の保護に集中するわよ」

「はい、ロリータ」

 二人は城の裏側へ移動した。さっき外に出てきた大男と女の子の足音が移動していたからである。

 ロリータは慎重に目をのぞかせて、下の様子を窺った。たしかに大男と女の子の姿が見える。ほとんど頭しか見えないけれども、服装でそれと分かった。

 息をひそめて待っていると、かつかつと、多数の足音が聞こえてきた。だんだん音が大きくなる。そして真下の辺りでそれが途絶える。

「金は持って来た。孫娘を返してもらおうか……!」

 老人のしわがれた声が聞こえた。

 ロリータと羽野は耳を澄ませた。



 クラーク氏は孫娘を見ると、強い怒りを覚えた。彼女の口は白いテープでふさがれており、手は後ろで縛られている。恐怖のあまり体が震えている。

 彼は二メートルほどもある大男を睨みあげた。

「金は持って来た。孫娘を返してもらおうか……!」

 彼は部下から金の入ったアタッシュケースをひったくって、大男に差し出した。

 大男は何も答えず、薄ら笑いを浮かべてクラーク氏を見下ろしていた。

 傍らに立つクラーク嬢は、斜め下に目を向けたまま、唇をかみしめ、ぶるぶると震えていた。目に見えるほど、本当にぶるぶる震えているのである。

「どうしたんです、マリア。どうしたんです?」

 優しい声音に、クラーク嬢はびくっとして恐る恐る目を上げた。クラーク氏の斜め後ろに、ブロンドの美しい青年が立っていた。彼は冷たい微笑を浮かべていた。

 それを見るとマリアはクラーク氏の瞳を見据え、声にならぬ声を上げながら、目で逃げて下さいと訴えた。

 しかしクラーク氏はそれを察知しなかった。

「黙っていなさい」

 クラーク氏は犯人を見上げたまま、いらだたしげに青年に言った。彼は大男にアタッシュケースを差し出しながら続けた。

「ほら、金だ。さっさと孫を返してくれ。そしてさっさとわしの前から消えてくれ」

 大男はちらと青年の顔を見てから、大きく一歩を踏み出して、クラーク氏の手からアタッシュケースを受け取った。男は薄ら笑いを浮かべ、何も言わずに背を向けて歩き出した。

 クラーク嬢が恐怖に目を剥いた。次の瞬間、パンと銃声が起こり、大男は後頭部を撃たれて前のめりに倒れた。重々しい音が響いた。

 クラーク氏は何が起こったのかまるで分からず、ただ唖然と倒れた大男を見つめていた。そんな彼の横を通り、孫娘に銃を突き付けながら彼女に近づき、彼女を脇に抱えてこめかみに銃口を突きつけたのは、彼の義孫である青年だった。

「お、お……」

 クラーク氏は目を剥き唇を震わせ、声を漏らした。

 青年は微笑した。

「どういうことだって言いたいんですか? いいですか、それはね、こういうことなんですよ」

 青年はマリアの口を塞いでいるテープをビリッと剥がした。口が自由になるや否やマリアは叫んだ。

「いますぐ逃げてくださいおじいさま! すべて彼の仕業なんです!」

 青年はすぐにマリアの口を塞いで黙らせた。

「つまり、そういうことなんです」彼は続けた。「ジュエルパンツを盗んだのも警備員や社員を殺したのも、家族を殺したのも――みんなぼくなんですよ」

 クラーク氏は愕然とした。瞬きすらできなかった。彼は青年にじっと見入っていた。

 青年はふふふと笑った。

「驚きましたか? 驚いたでしょう?」

 その嘲笑的な言葉に、クラーク氏はようやく怒りを覚えた。たちまち肩や拳がぶるぶる震えた。

「本気でいっとるのか、お前……」

「たったいま銃で撃たれた男、マリアの叫び声。それだけで事実だと分かるでしょう?」

「な、なんのためにそんなことをしたんだ……お前、わしの息子に拾われてクラーク家に育ててもらった恩を忘れたのか!」

「そう、ぼくはひどく貧しい恵まれない子でした。でも、誰が拾ってくれなんて言ったんです? 育ててくれと言ったのです? あなたたちが勝手に育てたんじゃありませんか」

「お、お……!」

 クラーク氏は怒りのあまり声がのどに詰まってしまった。

 ヨハンは笑った。

「勘違いしないでくださいよ。あなた方がぼくを拾って育てたのは何も特別なことなんかじゃない。むしろ極貧の底から拾い上げられたぼくが特別なんです。おじいさん、勘違いしないでください。ぼくよりむしろあなた方がぼくに感謝するべきなんですよ。なぜって、あなたがたは神を育てさせてもらえたのだから」

 青年はふふと笑い、手振りを交えて続けた。

「この美しさ、この頭脳、そして行動力……まさに神じゃありませんか? 誰がこれを偶然と言えますか、親無しの死ぬはずだった子どもが富豪に拾われて天才を現したことを? ねえおじいさん、信心深かったあなたの息子さん、つまり僕のお義父さん、彼はね、幼いぼくの中に神を見たんですよ。でなければ、養子をとる必要のないクラーク家がどうしてぼくを養子に取りますか?」

 彼の自己評価は決して不遜なものではなかった。見た目はもとより、大学での成績は常にトップで教授陣が彼の明晰な頭脳に惚れ惚れするほどであった。行動力とは先の殺人事件のことを指しているのだろう。

 クラーク氏は、青年が何を目的に犯行に及んだのかさっぱり分からなかった。

「お前は何を企んでおるのだ」

「企みなんて、そんな卑俗な言葉でぼくを表現しないでください」

「いいから言え、何を考えておる!」

 青年は冷たく笑った。それから憂えるような視線を彼方へ向けた。彼は滔々と語り始めた。

「いま世界はみんなばらばらだ……なんでか分かりますか? 信じられるものが何も存在しないからなんですよ。信じられるものといっても、ありふれた相対的なものじゃない。絶対的な存在です。世の人は何かを信じていながら心のどこかで疑っているんです。だからみんなばらばらなんですよ。いいですか、おじいさん。世の人々はね、真に信じられるものを求めているんですよ。喜んで服従したくなるような、それを目の前にしたら跪かずにはいられないような、そんな崇高な存在を求めているんですよ。その絶対的な存在とは、どんなものだと思いますか? 偶像、抽象、観念? だめです、そういった空中楼閣は儚く崩れ去ってしまうんです。妄想に過ぎない。……では何が絶対的になりえるのか。――人間以外にありえますか?」

 彼はそこでふふふと笑って続けた。

「絶対的人間の条件はなんだと思います? まず美力。これがなければ話にならない。次に知力。知のない美は疑わしいものです。次に財力。金が無ければ何も動かせない。次に権力。力が無ければ全て虚しい。そして最後に。それはなんだと思いますか? それはね、神聖なオーラなんです。人とは思えぬ神々しさなんです。これはいくら努力しても手に入らない。歴史上の偉大な人々はね、必ずそのオーラを持っていたんですよ。つまり、生まれながらのリーダーなんです……」

「だからなんだというんだ。まさかお前が――」

「そのまさかですよ! さっき歴史上の偉大な人々と言いましたけど、彼らは決して完全ではなかった。何かが欠けていた。だから自分より大きな流れに飲み込まれて死んでいったんです。――ところでぼくはどうですか? 美力、知力、権力財力、全て完全じゃありませんか? あまつさえ、若さをも持っているんですよ。恐ろしいほど完全な人間じゃありませんか?」

「何をたわけたことを。貴様のどこに権力がある。財力がある」

 青年はくすりと笑って答えた。

「だからあなたに死んでもらうんじゃありませんか」

「わしが死んだからどうなるわけでもあるまい。ちょっとばかし経済界が混乱するだけだ。だがそれもすぐに収まる。わしには幸い優秀な側近がおるのでな」

 クラーク氏はちらと横目で部下を見た。彼が次期社長候補だった。

「じゃあ、もし彼がすでにぼくの信者だとしたら? そして各機関にぼくの信者がいるとしたら……? どうでしょう?」

 クラーク氏はたじろいだ。そして両脇に並び立つ二人の部下を交互に見た。二人は微動だにせず、まっすぐ前を見つめていた……クラーク氏は動揺した。彼はしばし思案した。そして観念した。

「分かった……わしは死んでも構わん。だがマリアだけは生かしてやってくれないか……」

「無理ですね。マリアは全てを見てしまったのですから」

「……分かった。じゃあこうしよう。すべて見なかったことにする。聞かなかったことにする。会社からは引退しよう。それで全てお前の思い通りだ。だからせめてマリアの命だけは……」

「ダメですね」

 無慈悲な答えに、クラーク氏はかっとした。

「な、何を言っておる!」

「ダメです。ダメなんですよ。もう始まってしまったんです。計画の変更はありえない……ところで、医療の進歩というのはまったく忌々しいものですね。どうしようもない、何の役にも立たない老人をこれ以上長生きさせてどうしようというんですかね。老人というものはね、六十までに死ぬべきなんです。自ら志願して死ぬべきなんです。それなのに醜く長生きする……年寄りはね、おじいさん、さっさと死んじゃってください」

「な、き、貴様! ふざけたことをぬかしおって! 若造に何が出来ると思っとる! 貴様の考えているのは全部馬鹿げたことだ! 青年の浅薄な思想だ!」

「若造、青年……そういった物差しでぼくを計らないでください。だってぼくは選ばれし者、すなわち神なんですから」

「なにが神だ、バカか貴様! 人に生まれついた時点で貴様は神などではない!」

「そう、だからぼくは神を超越した『神人』なんですよ。……『神人』になるんですよ、これからね。だからあなたは邪魔なんです。あなたみたいなよぼよぼの老人がトップにいちゃダメなんです。トップに立つのは、若くて美しい人間じゃなきゃ」

 青年はマリアのこめかみに当てていた銃口を、クラーク氏に向けた。

「安心してください。おじいさん。あなたの目の前で孫娘を殺すようなことはしません。――あなたが死んで新しい時代が来る……さようならです、おじいさん」



 羽野とロリータは息を呑んで眼下の会話に聞き入っていたが、ブロンドの青年がクラーク氏に銃を向けると、武器に手をかけた。

「いくわよハノー。わたしはマリアを守るから、」

「僕はクラーク氏、ですね?」

 ロリータは頷いた。

 刹那、二人はそれぞれ武器を構えて、屋上から二階へ飛び降りた。

 まずロリータが着地した。彼女は飛び降りる勢いのまま、青年の肩を蹴っ飛ばした。しかし肩を蹴った瞬間、青年が発砲した。

「くっ、どうして見つかった……!」

「悪事は秘密に出来ないのよ」

 青年は地面に倒れ、マリアはよろめいた。ロリータはその隙にマリアを片腕に抱いた。羽野のほうはどうなっているのか見てみると……クラーク氏が腹を押さえてうなだれていた。スーツの腹部には黒いシミが広がっている。さっき青年が発砲した弾丸が腹を撃ったのだった。

 部下二人と青年は、各々銃を構えてロリータとマリアを狙った。が、その間に羽野が素早く割って入って刀を振るった。三人は一瞬たじろいだ。羽野は叫んだ。

「ロリータ、先に逃げてください!」

 それとほぼ同時にロリータは二階から飛び降りて、城の庭に立った。彼女はマリアを脇に抱えて城下町の方へ走り去って行った。

「くっ、忌々しいよ……」

 青年は羽野とにらみ合いながら苦々しく呟いた。そうして部下二人に「おい」と合図した。すると三人とも踵を返して扉の方へ走り出した。

 羽野は思わずそれを追いかけかけたが、クラーク氏が腹を押さえて呻いているのに目を止めて、彼のもとに駆け寄った。

 クラーク氏の顔にはもうほとんど血の気が無かった。彼は自分に覆いかぶさるようにして、心配そうにしている羽野の顔を見ると、弱弱しく言った。

「逃げなさい……ここにいたら疑われるぞ。街へ運んで行くなんて考えるな……間に合わないから……逃げなさい……孫を、マリアを助けてやってくれ……未来ある若者じゃから……」

 羽野は、朦朧と呟くクラーク氏を見て涙を浮かべた。熱い雫がクラーク氏の老いた手の上に落ちた。彼はどうしようもなく悔しくって、呟いた。

「おじいさんが役立たずだなんて。邪魔な存在だなんて。さっさと死ねだなんて……老人は、若者にない鷹揚さ冷静さをもっているから尊敬できるんじゃないか……時代が死んでも身体の内に時代を残すんじゃないか、だから尊敬できるんじゃないか……それに耳をかたむけなくなったら、民族が死ぬんだ……」

 羽野の呟きを聞いたのか、クラーク氏はかすかに笑った。

 羽野は涙を拭って立ち上がると、クラーク氏を抱え起こそうと試みた。だがぐったりした老人の身体は思いのほか大きく重く、運ぶのに骨が折れそうだった。それでも彼は老人を仰向けにして両腕に抱え――お姫様抱っこというやつだ。背負うと腹が痛むだろうと思ったので――城の中へ戻り、階段を降り、城の外へ出た。城門を出て坂道を下って行く。クラーク氏はみるみる衰弱していった。もう長くないのが目に見えて分かった。

 城下町に入った所で、クラーク氏は息を引き取った。羽野は悲しそうな顔をした。彼は近くの土の上にクラーク氏を寝かせた。彼はその前にひざまずいて、粛然とお祈りを捧げ、立ち上がった。

 羽野の目は静かに燃えていた。


 城下町を出ると、ふいに声をかけられた。

「ハノー」

 声のした方を見ると、物陰にロリータが隠れていた。ロリータは羽野の方へ歩いて来た。マリアも一緒だった。

「ブロンドの青年は来ませんでしたか?」

「いいえ、来ていないわ」

「じゃあまだ城にいるんでしょうか」

「そうかしらね。それならそれで好都合だわ。早く行きましょう」

「行くって、どこへ」

 羽野はロリータの一歩後ろに立つマリアを見た。彼女は黙って俯いていた。

「ひとまずハインリヒの所へ。この子を預かってもらうために」

「ああ、あそこなら安全ですからね……」

 ロリータはマリアの肩を支えて、微笑んだ。

「さ、歩けるかしら」

 マリアは呆然自失といった感じに佇んでいた。

 ロリータは羽野と目を合わせた。

「時間がかかりそうね」

「はい」

 

     *


 ゆりあ警部はことの一部始終を目撃していた。

 クラーク氏たちの後をつけて城に入り、二階の外の壁際に身を隠し、こっそりと覗いていたのだった。その壁にはくぼみというか、盛り上がりがあったから、もし誰かがこちらへやってきても、隠れられるようになっていた。

 ロリータと羽野が空から降って来た時は、思わず声を上げそうになった。それでも彼女はなんとか平静を保ち、全てを見守っていた。ロリータがマリアを助けるのも、犯人が逃げるのも、羽野が瀕死のクラーク氏を抱えてその場を去って行くのも。(ちなみに、偶然みんなゆりあ警部のいる方とは反対の道を通って行ったので、隠れる必要はなかった)

 騒動が止み、場が静寂に包まれた後、ゆりあ警部はしばらくその場に立ち尽くしていた。

「むむむむ……」

 と彼女は険しい顔でうなった。

「とんでもないものを見てしまったのだ……」

 まさかクラーク家の養子が主犯で、昨晩顔を合わせたあの部下二人もその仲間だったとは。

 ゆりあ警部は社長暗殺という自分の推理が当たったのを、嬉しい半分複雑に感じていた。

 これは厄介なことになったぞ。さて、これからどうしよう。署に戻ってこの事件の真相をどう伝えよう。署長は信じてくれるだろうか。また君の妄想だとあしらわれないだろうか。――犯人はおそらくクラーク氏がロリータに殺されたと公表するだろう。彼らの前では、自分の発言など無意味に等しいのではなかろうか。どうすれば……いや、クラーク嬢がいるぞ。彼女の証言ならば誰もが信用するだろう。まず第一に彼女を保護しなければ。だが彼女はいまロリータのところに――

「見ちゃったんだね?」

 不意に背後から声がした。聞き覚えのある声だった。

「だめじゃあないか、北城くん。休暇中にこんなところに入っちゃ……」

 ゆりあ警部はびくりとして後ろを振り返った……白豚のような白くて丸い男が、ゆりあ警部の頭に銃口を突きつけていた。副署長だった……ゆりあ警部は目を見開いた。

 副署長は冷然たる笑みを浮かべた。

「ひひ、君も転勤だあ、北城くん……」

 パン!

 乾いた音があたりに響いた。銃声は城の後ろの森の中へ溶けていった……

「あーあー、やっちまった」

 ゆりあ警部はきょとんとした感じに、真ん丸の目をぱちぱちとさせていた。

 副署長が地面にどさりと倒れ、その後ろに、ひょろ長い男が立っていた。彼は口元に銃口を近づけ、「ふっ」と息を吹いた。

「おい幼女警部、あまり危ないことに首突っ込むと死ぬぜ」

 ゆりあ警部は小首を傾げた。

「だ、誰なのだ?」

 黒コートを着たひょろ長い男は、銃をベルトに仕舞いながら答えた。

「俺か? 俺はアーリー。ただの情報屋さ」

「じょ、情報屋? そんなやつがなんでこんなところに。――いや、えっと、そうじゃないのだ、助けてくれてどうもありがとうなのだ。危なかったのだ。人生最大の危機だったのだ」

 アーリーはいつもの癖でコートからタバコを取り出した。口にくわえ、それからマッチを手に取ったが、今朝水濡れしたために使い物にならなかった。

「チッ、しけってやがる――いや、礼にはおよばねえ。情報の場合はきっちり大金払ってもらうがな」

 へっへ、とアーリーは笑った。そして彼は打って変わって真面目な顔で続けた。

「そんなことよりあんた、これから気を付けた方がいいぜ。目を付けられてる」

「誰になのだ?」

「こっから先は金だ――と言いたいところだが、まあ親切ついでに教えてやろう。あんたの上司、というかもっと上の警察のお偉いさん方の一部、さっきの野郎どもと繋がってるぜ」

「ブロンドの若い男と?」

「ああ」

 ゆりあ警部はしばし考え始めた。

 われわれはその間に説明しておかなければならない。なぜアーリーは副署長を射殺したのか。脚を撃つだけでも十分だったのではないか? ――それは、生かしておくとゆりあ警部の身が危ないからである。副署長を生かしておけば、彼はゆりあ警部が全てを見たと署長に伝えるだろうし、あまつさえ自分を撃ったのもゆりあ警部だと言ったに違いない。そうなっては、ゆりあ警部はもう死んだも同然だ。――副署長を殺しておけば、誰が彼を殺したのかは闇の中だし、公には事件に巻き込まれて殉死したと発表されることだろう。

 さて、ゆりあ警部はアーリーに尋ねた。

「あのブロンドの男はいったい何者なのだ?」

「やつらの話聞いてなかったのか? まあいい。やつの名はヨハン。ミュンヘン大学の――何学部だったかな――二年生。国のトップ、いや――ヨーロッパのトップになる男だ」

 計画通りにいけばな、とアーリーは付け足した。

「むむむむむう……」

 ゆりあ警部は腕組みしてうなった。彼女はアーリーのひょろ長い腕を掴んだ。

「一緒に警察に来てくれなのだ。うちの署がダメでも、どこかに良心が存在するはずなのだ」

「来てくれってなぜだよ」

「二人の目撃があれば充分信用に値するのだ。告発するのだ!」

 アーリーはひょいと手を払った。

「いやだね。無駄だよ。考えてもみろ、クラーク商会がどれだけ各界に影響を及ぼしているか。金で万事解決さ。それに現状を考えてみろ。何があろうとも、もっともらしくロリータを犯人にできる状況だ。無駄だよ、無駄」

 本音を言うと、アーリーは職業柄、変装無しに警察へ行くのが嫌だったのである。

「どうしても捕まえたいならクラーク嬢を味方につけるんだな。ロリータの無実を証明する方法はそれだけだ」

「む、たしかにそうなのだ……」

 ゆりあ警部は意外や素直に納得した。

「で、クラーク嬢を連れたロリータはどこへ行ったのだ?」

「そいつは言えねえな。ここから先は金だ。――いや、金を積まれても言えない場所だな」

 ハインリヒの家を、彼とロリータとの関係を警察に教えてしまっては、あとあとの商売に響くからである。

「教えてくれなのだ」

「ダメなのだ」

「なぜなのだ」

「なんでもなのだ」

 揶揄するように同じ口調を繰り返すアーリーに、ゆりあ警部は腹を立てた。アーリーの思うつぼだった。

「分かったのだ、それならいいのだ、このひょろながマッチ男! お前なんてポキリと折れてしまえばいいのだ、このクソッタレ! くたばれなのだ!」

 ゆりあ警部は歩き出した。ずんずん歩く。しかしアーリーの横を過ぎて二、三歩進んだところで、ちょっと振り返った。

「ところで、お前は何者なのだ?」

「さっきも言ったろ。ただの情報屋だ」

「ふむ。世の中には変な奴がいるものなのだ」

 ゆりあ警部は前に向きなおろうとした。アーリーがそれを止めた。

「これからどこ行くつもりだ、幼女警部。あまりうろちょろしないほうがいいぜ」

 ゆりあ警部はアーリーを見て、にやりと笑って八重歯をきらりと光らせた。

「わたしは休暇中なのだ」

 ゆりあ警部は今度こそ前を向き直って、アーリーから離れて行った。彼はその姿を見送りながら「あんたも十分変な奴だよ、ロリ警部」と呆れたように呟いた。


     *


 その日の深夜である。

 ハインリヒの家のある住宅街は静まりかえっていた。ほとんどの家の明りは消えており、点いているほうが珍しいくらいだ。そのうちの一つがハインリヒの家だった。

 ハインリヒはリビングのソファに腰かけて、テレビを見ていた。情報番組である。彼はロリータの状況を絶えず気にかけていた。

 そんなとき、玄関の戸がノックされる音が聞こえてきた。ハインリヒは怪訝に思いながらも、玄関へ行った。

 しばらく外の様子に耳を澄ましてから、「山」と言った。返事はない。

「山」

 と彼はもう一度言った。今度は声が返ってきた。

「ピンクタイガー、欲しくありませんか?」

 男性の優しそうな声音だった。ハインリヒはびくりとした。

 誰だ? なぜぼくのことを知っている? ピンクタイガーということは事件の犯人か?

 危険だろうか。何かの罠だろうか。――でも、ピンクタイガーが気になって仕方がない。

 そうだ、アーリーがぼくの存在と家の場所を教えたのかもしれない。――しかしアーリーはそう簡単にぼくの家を教えてしまう男だろうか?

 それに犯人は、あの犯人だぞ。人殺しをしてパンツを盗んだ男だぞ。

 でも、ただ売りに来ただけかもしれない……

 ハインリヒは欲に負けて、鍵を開けてしまった。

 恐る恐るドアを開けてみた。そして彼は凍りついた。

「どちらさ……ま……」

 銃を突き付けられたのである。

 ハインリヒは恐怖におののいた。

「ヨハンです」

 若いブロンドの男は微笑した。


     *


 ロリータたちがハインリヒの家についたのは翌日の夜だった。

 マリアを連れていたから時間がかかったのもあるし、昼間に人目につくところを歩けなかったからでもある。

 ハインリヒと例の暗号の確認を済ませると、玄関の戸が開いて、家の内からあたたかな光が漏れてきた。それは安全の象徴だった。羽野とロリータ、そしてマリアも、その光を見ると安堵した。

「ふふん、お帰り。おや、その子は? まあ話は後にしよう、さあ上がって」

 そう言ってハインリヒは三人を居間に案内した。

 彼は客人を食卓に着かせ、自分はキッチンへ行き、急いで夕飯の用意をした。

 やがて夕食の皿がテーブルに並んだ。塩っけのある香りよい湯気が立った。

「お腹すいたでしょ、ふふん、食べて食べて。――おや?」

 そのとき電話が鳴った。ハインリヒはなぜか一瞬怯えたような表情をした。

「先に食べててよ、ふふん、遠慮なさらず」

 ハインリヒは席を立って電話を取りに行った。

 ロリータたちは遠慮せずに食べ始めた。ニューデルベルクからの旅の間、ほとんど何も口にしていないのだった。マリアに至っては、食べ物をまったく口に入れないどころか、口を開くことすらしなかった。彼女はずっと塞ぎ込んでいた。心労と精神的ショックが酷いのだった。羽野もロリータも彼女から聞きたいことがいくらもあったが、彼女の気持ちを忖度して、憚って、そうっとしておいた。

 マリアは俯いて、無表情のままじっとテーブルの上を見つめていた。

 羽野はそんな彼女を黙って見ていられない気持ちになって、食事を口に運びながら声をかけた。

「おいしいですよ。ハインリヒさん、料理が上手いんです。食べてみませんか?」

 彼は皿の上のソーセージを切り分けて一口サイズにし、フォークで刺して、マリアの口元に運んでみた。マリアはそれを一瞥したが、口にしようとはしなかった。

「いいんですか。食べないなら僕が食べちゃいますよ」

 羽野はおいしそうにフォークを口に運んだ。

 ロリータは羽野とマリアをちらと見て言った。

「食べなさい、マリア。動物は食べなきゃ死ぬのよ。エネルギーが足りないから、一層気力を失うのよ」

 ロリータは黙々と食べすすめ、皿を綺麗にして行った。ロリータの食べっぷりは気持ちが良く、かつ上品だった。羽野はロリータが食べている姿を見るのが好きだった。

 と、電話に出ていたハインリヒが突然声を荒げた。

「き、君には関係のないことだ!」

 彼は受話器を乱暴に置き、「ふふん」と怒ったように言いながら席へ戻ってきた。羽野とロリータの怪訝そうな顔を見ると、ハインリヒは慌てて言った。

「なんでもないんだ。近頃勧誘の電話が多くてね。ふふん、それも『うちの保険に入らないとガンになったとき奥さんが大変な思いをしますよ』だなんて言うんだ。まったく、いやな勧誘の仕方をするよね。ふふん、そもそもぼくには奥さんなんていないよ。どう、君たち、ぼくに奥さんがいるように見えるかい? ふふん?」

「いいえ見えないわ」

「まあ、はい……」

 するとハインリヒは苦笑した。

「そう即答されるとなんだか複雑だなあ」

 彼は「ふふん」とおかしそうに言って、食事を口に運び始めた。いつもと変わらぬ陽気な食べっぷりに見えたが、内心では、上手く誤魔化せただろうかとひやひやしていた。

 食事が終わった。結局マリアは一口も食べなかった。マリアが食べなかったぶんはキッチンに運ばれてラップをかけられた。テーブルの上の皿は、いつも通り羽野が片付けた。だが珍しくハインリヒがそれを手伝った。しかも彼は「君はお客なんだから居間でゆっくりしていてよ。コーヒー入れて持ってくから待ってて、ふふん」と羽野の肩を親しげに居間の方へ押した。羽野は「あ、じゃあ、ありがとうございます」と言って居間に戻った。ハインリヒを特別疑問に思うことはなかった。

 ハインリヒはコーヒーカップを三つ持って戻ってきた。客人の前にそれぞれ置くと、キッチンに戻り、自分の分を持ってきて席に着いた。

 ロリータはさっそくコーヒーを飲んだ。マリアは塞ぎ込んでいた。

 羽野はコーヒーには口を付けず、つけっぱなしになっているテレビを何気なく見た。ちょうど、ロリータ・クラーク事件のことがやっていた。アーリーの言っていた通り、犯人が公表したのだろう、ロリータがクラーク氏を殺害したという情報が流れていた。

 それを見て、ハインリヒが何気なく言った。

「まったく、犯人も酷いよね。自作自演のくせしてさ」

「ええ、本当ですよ。大変な迷惑です」

 羽野は何の疑問もなくそれに答えて、コーヒーカップに手をかけた。

 だがロリータはそれを聞くなりハインリヒにじっと目を止めた。羽野がコーヒーカップに手をかけると、彼女はその手をぱちんと払って、カップをひょいと横取りした。

「あっ、なにするんですか、ロリータ」

「このコーヒーは甘くないのよ」

「だからなんですか?」

「チョコレート菓子より甘いハノーは飲まない方がいいわ」

 そう言ってロリータはカップに口をつけ、一気に飲み干してしまった。

「あっ、ちょっ……僕だって苦いコーヒーくらい飲めるのに」

 羽野は残念そうな顔をした。彼は塞ぎ込んでいるマリアを見ると、物欲しそうな顔をした。

「ねえマリア、そのコーヒー飲まないんですか? その、僕が貰ってもいいですか?」

 するとマリアは俯いたまま、右手でカップを押して、羽野の方へ滑らせた。

「ありがとうございます」

 羽野がこの上なく嬉しそうな顔をしてカップに手を伸ばしかけると、またしてもロリータがそれをひょいと取り上げた。

「あっ、ロリータ!」

 羽野は思わず叫んだ。

 ロリータはちらと羽野を見ると、興味無さそうにそっぽを向いて、コーヒーを飲み干した。

 羽野は「ふううぅぅ」と泣きそうな声を漏らした。

「いつからそんなにコーヒー好きになったんですかぁ……」

「知らなかったの? ドイツ人はコーヒーが大好きなのよ」

「ロリータはドイツ人じゃないでしょう?」

「じゃあ羽野もドイツ人じゃないでしょう?」

「はい、まあそうですけど……って答えになってないですよ」

「知らないわ、そんなこと」

 ロリータはつんとそっぽを向いた。

 ロリータのいじわる、と羽野はふてくされたように呟いた。

 この一連のロリータの不可解な行動を、ハインリヒだけが理解していた。彼はうっかり口を滑らせてしまったのだった。そのせいでロリータに疑念を抱かせてしまったのだった。それにしても、とハインリヒは考えた。たったそれだけのことから瞬時に見抜くとは、ロリータの洞察力は恐ろしい。カップを自分の分と三人の分とわけて持って行ったのもまずかっただろうか。――いや、でもロリータは警戒しているに過ぎない。でなければ今すぐ家を出て行くはずだ。……このあと出て行くようなことがあったらどうしよう……

「それで、ハインリヒ」

 ロリータが言った。ハインリヒはぴくりと震えた。

「ふふん、なんだい」

「今回寄ったのはね、マリアをしばらく預かってほしいからなの」

「預かる? じゃあ、またどこかへ出かける気なのかい?」

「当然よ。やられっぱなしでいられると思う? やられた分はきっちり仕返ししてやるわ」

「ふふん、まあ、たしかにもう自ら潔白を証明するしかない状況だよね……いや、そんなことしなくても、その子を連れて警察に行くのは?」

 ハインリヒはマリアを見た。ロリータは首を振った。

「それは相手をたっぷり懲らしめてからよ」

 ハインリヒは困った顔をして見せた。彼は羽野を見た。

「なんとか言ってやってくれよ、ハノーくん。潔白を証明するのが第一だって」

 彼が自分に不利なことをすすめるのは、二人がそうしないことを半ば確信しているからだった。羽野はともかく、少なくともロリータは。そしてロリータがそういう選択をすると言うことは、羽野もそれに従うということなのだ。

 だが意外、羽野は首を振った。

「僕も許せないんです。あの男が。彼は自分が親無し子だったと言っていました (羽野はちらとロリータを見た)。クラーク家に育ててもらって感謝もせず、あげく皆殺しにする始末です。こんなこと、絶対にありえません、許せません」

 ここで彼の怒りの一因として、彼の忠義の精神を挙げておく。御恩に報いないのは、まして忘恩の果てに主人を殺害することなどは、彼にとっては看過できないことだった。

 ハインリヒはなんの話か分からないような顔をした。それは実際そのことを知らなかったのもあるが、あえてそういう顔をしたのである。彼はしばらく考え込むふりをした。それから言った。

「……分かった。君たちがそう言うのなら、そうしなよ。その子は僕に任せて、ふふん、必ず守り通すよ」

「ありがとう。ハイン……」

「? ロリータ?」

「リ、ヒ…………」

 ロリータは突然ふらりと揺れ、力なくテーブルの上に伏した。

羽野は慌てて彼女の身体をゆすった。しかし反応はなかった。困惑の表情でハインリヒを見ると、ハインリヒは胸ポケットから妙な機械を取り出して、スイッチを押した。

「ごめんよ、ハノーくん」

 ハインリヒは眉を八の時にして目を伏せると、席を立ってキッチンの方へ逃げた。

 羽野はどういうことかとハインリヒのあとを追おうとした。が、そのとき。

 廊下の階段からどたばたと複数の足音が駆け下りて来て、居間に押し入ってきた。汚い闇色のスーツの男たち。ブデンブロクスだった。彼らはマリアに向けて銃を構えた。

「ど、どういう……?」

 しかし考えている暇はなかった。羽野は刀を抜いた。呆然とイスに座ったままのマリアを腕に抱えた。敵が一斉に射撃してきた。羽野は刀を振るってそれを弾き、飛び退って壁に隠れた。

 と、そのとき、居間の大きな窓ガラスが割れた。何者かが外から窓を割って飛び込んできたのだった。男はすらりとした美しい青年だった。ヨハンだった。

「全員眠らせたんじゃないのか、使えないな。まあいい」

 彼はぐったりとテーブルの上に伏しているロリータを抱き上げた。

「ロリータ!」

 羽野がマリアを置いて壁を出ようとすると、ヨハンは叫んだ。

「撃て、ブデンブロクス!」

 掛け声とともに、おびただしい数の銃弾が飛んできた。羽野はそのいくつかを振り弾き、壁に隠れるより他に仕方がなかった。

「くっ……!」

「いいかい、これは取引だ。ロリータを返して欲しかったらマリアを渡すんだ。冷静に考える時間をあげよう。今日から一週間以内にニューデルベルク城だ、いいね?」

 答えを待つことなく、ヨハンは高々と笑いながら、ガラスの割れた窓から素早く飛び出て行った……

 ブデンブロクスの連中はしばらくその場にとどまって射撃を繰り返し、羽野を足止めさせていた。

 やがて銃撃がやんだ。ブデンブロクスの連中はヨハンと同じように破れた窓から外へ逃げて行った。羽野はそれを見ていたが、追うことはしなかった。無駄だと思ったのもあるし、あまりのショックに力が抜けていたからでもある。

「ロリータ……」

 彼は刀を手から落とし、膝から崩れ落ちた。

「ロリーターっ!」

 彼は叫びながら激しく床を叩いた。



 羽野とマリアとハインリヒはテーブルに着いて、何も言わずにじっと座っていた。羽野とマリアは俯いてテーブルの上に目を止め、ハインリヒもやはり俯きながら、時々ちらと羽野の方を見たり、首筋を指で掻いたりしていた。この重々しい沈黙は、ハインリヒには耐えがたく感じられた。

 あれからもうだいぶ経っていた。

「おーおー、派手にやられたねえ……」

 渋い感じのする低い声が聞こえた。ハインリヒはびくっと震えて割れた窓の方を見た。ひょろながい男が立っていた。アーリーだった。彼は床に散らばるガラスを踏み鳴らしながら、屋内に入ってきた。

 ハインリヒは席を立ってアーリーを迎えた。

「や、やあ……」

 ところがアーリーはハインリヒと相対するや否や、ぽっちゃりした腹に膝蹴りを食らわせた。ハインリヒの身体が「く」の字に折れると、アーリーは彼の胸ぐらをつかんでぐいっと引き寄せた。

「無視しやがったなてめえ」

 アーリーの憤然たる表情に、ハインリヒは顔をひきつらせ、恐怖に震えた。

「だって……だってしょうがないじゃないか……ふふん……」

「何がふふんだ。二度とその癖出ないようにしてやろうか」

「ごめん……でも……しょうがないじゃないか……」

「なにがしょうがないんだ、ああん? てめえはロリータを売ったんだよ。俺は電話で言ったはずだ、そのことをロリータに伝えて、いますぐロリ警部と一緒に署へ行かせろってな」

「でも……しょうがないじゃないか……」

 アーリーは俯くハインリヒをじっと睨み、舌打ちすると、呆れたように胸ぐらから手を離した。

「この豚富豪が」

 ハインリヒは俯いたまま身体を震わせた。

「でもしょうがないじゃないか……だって、だって……」

 彼は顔を上げた。目は真っ赤に充血していて、涙が溢れ出さんばかりだった。

「殺されるところだったんだ! うなずくより仕方がないじゃないか! そしてあいつは、ヨハンは言ったんだ! もし裏切るようなことがあったらぼくのことを公にするって、ジュエルパンツは永久にお前の手から失われ、お前は牢屋入りだって! しょうがないじゃないか! だってジュエルパンツは命より大事なんだもの!」

「じゃあ死ねばよかっただろうがこの豚富豪め!」

「いやだよ、だって死んだらジュエルパンツを拝むことができなくなるもの!」

「たいした男だよお前は、ええ? このパンツ野郎! そのお宝はどこの誰に盗って来てもらったものだと思ってる!」

「ぼくは金で買ったんだ、自分の金で……」

 ガタ、と椅子と床がこすれる音がした。

 羽野が椅子から静かに立ち上がったのだった。

 彼は精神的に疲れ切った蒼白い顔をしていた。彼のことを見ると、ハインリヒは怯えて頭を下げた。刀で切られるのではないかと思ったのだ。

「ご、ごめんよ、ハノーくん……」

 羽野はゆっくりとハインリヒに歩み寄った。彼はハインリヒの肩を優しく撫でた。

「頭を上げてください、ハインリヒさん……あなたの言う通り、しょうがないことです。命より大事なものを差し出すか、言うことを聞くか迫られたら、僕だってハインリヒさんと同じ選択をしたと思います……いいんです……」

 ハインリヒは羽野にしがみついて泣いた。アーリーはため息をついた。それからハインリヒを睨んだ。

「いいかこの豚富豪、俺は許さないからな畜生め」

 彼は苛立たしげにポケットからタバコを取り出してマッチを擦った。苛立ちを吐き出すように煙を吐いた。落ち着くと、羽野に向かって言った。

「で、これからどうするんだ」

「ロリータのことですか?」

「それしかないだろ」

「どうすればいいんでしょう……」

「さあな。ちなみにだが、いまヨハンはブデンブロクスと手を組んでいる。手を組んでいるっていうか、むしろ総統が金のために手を貸しているって感じだな。ニューデルベルク城はかなり危険だぜ」

 羽野はマリアを見た。彼女の華奢な身体と塞ぎ込んだ姿を見ると、羽野は視線を床に落とした。

 彼は悩んでいた。マリアをヨハンの所へ連れていくことは出来ない。ロリータと交換したら殺されるだろう。ヨハンと戦ってもいいが、マリアを守りきれずに殺されてしまうかもしれない。マリアを連れていかないで戦うとすれば、約束を破ったということでロリータが殺されてしまうかもしれない。このままマリアを連れて警察へ行っても同じことだろう。どうすればいいのだろう……

 彼は気付いていなかった。実はマリアやロリータがどうのこうのではなく、ただ自分が決意していないだけなのだということに。平生の彼のなよなよした性格が、決意を妨げているのだった。決意とは何か? 生々しい死と向き合う決意、他者を犠牲にする決意、他人を斬り殺す決意だ。

 彼はいままで武士道だとか侍だとか男だとかを云々していたが、それらは観念に過ぎなかった。抽象的な域を出ていなかった。「死」と言っても漠然たるもので、身近に感じられるものではなかった。彼は武士道を頭に入れて、自分に言い聞かせているだけだった。

「ヨハンはマリアを連れてのこのこやって来たお前を殺して、そのあとロリータを警察に突き出すつもりだろうな。さて、どうする?」

 羽野はしばらく俯いていた。彼は小さく答えた。

「もう少し……考えさせてください」

 アーリーはハインリヒの尻を蹴っ飛ばした。

「おい、二人にベッド用意してやれ。ゆっくり休ませろ」

「で、でもベッドはぼく用の大きなベッド一つしか……」

「てめえは草むらででも寝てろ豚野郎!」

「ひ、ひいっ! 分かったよ! ふふん!」

 ハインリヒは「さ、こっちだ」と言って羽野とマリアの肩を叩いた。二人はハインリヒの後に従って歩いた。

 羽野が居間を出て行く際、アーリーは彼の背に声をかけた。

「あんまりものを考えるな。もう少し、だなんて甘えだ。すぐに決めろ。それが男ってもんだ」

 羽野はちょっと立ち止まって、「……おやすみなさい」と言った。

 彼らは寝室へと消えて行った。




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