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不気味な足音


     二章



 パンツ・ニューウェイブムーブメント。

 現在、そう呼ばれるムーブメントが主に先進国を中心として世界中で起こっていた。

 ことの発端はおよそ十年前のことである。当時フライブルク大学に留学中だった東京の大学院生ヨシダ博士 (現在は名声ある博士なのでそう呼んでもよかろう) が、妙な研究の成果を発表した。「宝石の繊維化」である。たとえばダイヤモンドを繊維化し、それを用いて衣類を作る技術である。ここにヨシダ博士の論文から宝石の繊維化の基礎理論と技術論とを引用して云々してもよいのだが、それは専門用語の羅列、つまり数学的記号言語の羅列となるだけなのでやめておこう。高度な素養のないわれわれが引用箇所からその理論を理解するのはほとんど不可能であり、時間の無駄だからである。

 宝石を繊維化したものを、一般に「ジュエル繊維」と言う。そのジュエル繊維を使用した試作品第一号が翌年に完成した。それはヨシダ博士と一流ランジェリーデザイナーとの共作で、紫色の華美なパンティだった。なぜパンティなのかというと、ヨシダ博士が熱望したからである。しかも彼は驚いたことに技術の特許まで取得して、その使用をパンティにしか認めなかった。――ともかく、こうしてジュエル繊維の実用化が認められ、そのまた翌年から早速ランジェリーメーカーがジュエル繊維を用いたパンツ、ジュエルパンツの開発に着手した。

 当然ながらジュエルパンツは高価で、一般層には手が届かず、はじめは富裕層にしか受け入れられなかった。しかしそれでも富裕層の間では異常な人気を誇っていた。というのも単に宝石的価値があるということもあるし、見た目が美しいということもあるが、何より、嘘か本当か、着用するようになってから肌の調子が良くなったとか、運気が上がったとかいう噂が広まったからだった。

 貴婦人たちの間のジュエルパンツ熱ぶりを見たメーカーは、これは売れると踏んで、一般向けのジュエルパンツ開発に取り掛かった。ジュエルパンツはそれまで純ジュエル繊維、すなわちジュエル繊維百パーセントだったのだが、一般層の手の届くように、その比率を下げて、他の繊維と組み合わせて作ることにした。ところが、それはなかなか上手く行かず、試行錯誤の日々が続いた。「親ジュエル繊維性」をもつ繊維がなかなか見つからなかったからだった。そしてそれを見つけても、上手く配合することが出来なかったからだった。そこで再びヨシダ博士の出番である。彼はジュエルパンツの一般流通化という話を聞くと、興奮し、喜んで手を貸した。変態である。色々な意味で。

 そして時間をかけてついに完成した廉価版ジュエルパンツは、有名女優やアーティストを広告塔として起用し、やがて大ヒットするに至った。「誰がパンツごときに大金を払うというのだ」「ジュエル繊維配合パンツなんて庶民は求めていない」などとジュエルパンツの一般化に懐疑的だった人間は、その流行ぶりを目の当たりにして唖然としていた。

 だが単なる流行で終わらないのがジュエルパンツだった。これは簡単に想像出来ることだが、まずパンツ泥棒が急増した。しかもそれにはジュエルパンツが宝石的価値をもつという理由以外にも理由があった。パンツの価値とは何か? 使用済みパンツの価値とは? ――そう、女性が身に着けることによって、中古品として価値が下がるどころか、使用済みとして付加価値がつくことになったのだ。

 そうして、気付けばジュエルパンツ窃盗団が生まれ、使用済みジュエルパンツ売買取引が行われる闇市場が形成された。窃盗団のいくつかは、セコイ下着泥棒に飽き飽きして、彼ら曰く「デカい仕事」を狙うようになった。純ジュエルパンツの窃盗である。もとより純ジュエルパンツは富裕層にしか流通していない。あるいはセキュリティの頑丈な高級ショップにしか展示されていない。それゆえ、純製品を手に入れるのは至難だった。だがそれがパンツを狙う男どもの魂に火をつけたのだ。困難の果てに財宝。それこそ男のロマンだった。――なかでももっとも困難なロマンは「有名人の着用済みジュエルパンツ」の獲得だった。有名人宅から盗むのならば容易いだろうが、それではロマンが無い。結局、セコイ泥棒と同じである。ではどうするのか。――「モデル用」を狙うのである。モデル用は当然、広告に使用されるのだからもっとも高価な製品である。しかも、それそのものでも超の付く高級品であるのに、それに加えて「人気女性芸能人が着用する」という価値が付くのである。つまりモデル用は「最高価値のジュエルパンツ」なのである。そうなると、所有できる人間は限られてくる。これまた「超」の付く富豪である。そして超富豪となればそれだけセキュリティも固くなるのである。それを破りパンツを獲得すること。それこそが男のロマンだった。

 ところがそんなロマンは儚く散った。やはりチンケな窃盗団ごときが最高価値のジュエルパンツを盗み出すことは不可能なのか? 誰もがそう思い、諦めかけた時だった。

 ヒーローとは唐突に現れるものである。ある日、有名なジュエルパンツ記念館に一枚のカードが届いた。そこには犯行予告が書かれていた。記念館は警察に警備を依頼した。厳重な警戒の中、カードの差出人は見事にジュエルパンツをさらって行った……それがわれらが怪盗、サイケデリック・ロリータの最初の仕事だった。

 彼女の登場により、流行の熱は最高潮に達した。

 ここでロリータの話はひとまず置いておくとして、まとめに入るとしよう。

 ジュエルパンツは宝石、下着業界を席巻し、その価値と人気はあっという間に従来の宝石に肩を並べた。そしてそれを狙いそれを求める一部の人間の間では、世界最高の高級品となったのだ。

 ジュエルパンツの大流行。そしてそれの獲得に情熱を燃やす窃盗団の出現。

 これが、パンツ・ニューウェイブムーブメントである。

 

      *


 クラークビルを後にしたロリータと羽野は下水道を走っていた。

「ロリータ、どうします? 予定通りハインリヒさんの所へ帰るんですか?」

 ハインリヒというのはジュエルパンツのコレクターの男である。背の低い小太りの、豊かなほっぺたのつやつやした男で、いつも皺ひとつない綺麗な白いスーツを着ている。いつもにこにこしていて、鼻の下の八の字に伸びた髭を指先で捻る癖がある。何を生業にしているのかは不明で、名字も不明なので何者かは分からないが、毎度毎度、ロリータの盗んできた高級ジュエルパンツを適正価格で買い取る謎の富豪である。裏市場では、安物は一般市場価格の何倍もの値段で取引されるのだが、高級品はあまりに高価なため、手が出ないか、適正価格未満で取引されることがほとんどである。盗んだもので、他に売りようがないから、盗人も妥協して安く売ってしまうのである。ところがこのハインリヒという男は、自分が求める物に対しては金に糸目を付けなかった。その代わり彼の求める品はどれも超高級品で、その品はロリータにしか盗めないため、ハインリヒはほとんどロリータ限定の買い手だった。そして自分の求める物を盗って来てくれるロリータの後援者でもあった。

 羽野の問いに、ロリータは簡単に答えた。

「帰らないわ」

「ですよね。手ぶらじゃ帰れませんよね。ハインリヒさん、ひどく落胆するでしょうし……」

「いえ、そうではないわ。あまり目立つところへは行かない方が良いってことよ」

「ああ、たしかに……」

 ハインリヒの家は傾斜の急な長い坂道で有名なゲーター通りのすぐそばの、庶民的な住宅街にあった。普段はそんなににぎやかな場所ではないが、いまは近くをパトカーが徘徊しているかもしれない。自分たちが見つかるのは構わないが、そこをうろついていたことから、ハインリヒとの関係を疑われては困る。もっとも、ハインリヒは平生庶民らしく生きているので繋がりを疑われる心配はほとんど無いのだが。ハインリヒの真の経済力を把握している者は、おそらくロリータたちその他少数名以外にはいない。近隣の住民も、お洒落趣味のある小太り男ぐらいにしか思っていない。ゆえに、ロリータたちはハインリヒがどこから金を引き出しているのか、不思議でならなかった。超高級ジュエルパンツを買うだけの金が動けば、普通銀行やら警察やらがそれに目をつけるはずである。――ともかく、警戒するに越したことはなかった。

「ゆりあ警部、信じてくれますかね」

「どうかしら。とりあえず、しばらく様子を見るわよ」

「疑いが晴れるかどうか、ですか?」

「そうよ」

「じゃあテレビが見られるところへ行かないとですね。ゆりあ警部がなんとかしてくれているといいんですけど……」

 二人は走り続けた。ロリータは、幹のような太い下水道から枝のような細い脇道へ曲がった。羽野は急な方向転換に慌てて対応し、後をついて行った。

「『秘密の十字架』ですか?」

「そうよ。ひとまず『ゲシュタリテの暗黒街』へ行くわ」

「ああ。あそこならホテルもあるし、逃げ道もありますからね」

 秘密の十字架というのは、下水道の隠し通路のことである。そこへ入ると、道が十字架のような形になっていて、細長い直線道を進むと、道が上左右に分かれる。そしてどこへ進んでも同じ構造、つまり十字架型の道が続くのである。不思議なことに、どこをどう進んでも必ず十字架の長い部分に出る。それは来た道を引き返しても同じなのである。そのぶん、普通の十字型より厄介なのである。進んでいる人間は自分がどこにいるのか、どうすればいいのかさっぱり分からなくなって当惑してしまう。それで途方に暮れて歩いていると、気付けば下水道に戻っているのである。どういう構造になっているのかを知っている人間はおそらくいない。ただどう進めばいいのかを知っている人間がいるだけである。――実は特定の行先というのは無くて、秘密の十字架内にはいろいろな場所への出入口が存在する。

 ロリータたちはその十字架の迷路を進んで行った。右、前、左……――とお決まり通りに進んで行き、あるところで進むのを止め、通路の壁を探り始める。

 他の部分よりわずかに柔らかい部分があって、そこをかなりの力を込めて押すと、壁が手のひら大の長方形に沈み、そして数字のキーボードの付いたパネルが出てくる。暗証番号を打ち込むと、今度は壁が音もなく開いて狭い通路が出来た。人ひとりで一杯の幅の通路を進み、すぐにつきあたりに行きあたる。突き当りにはハシゴがあって、上に向かって伸びている。壁にはスイッチがついていて、それを押すと開いていた壁が音も振動もなく閉じる。

 二人は梯子を上って、天井を押し上げて、地上へ出た。そこはどこかの庭だった。かなり狭く、黒い土のあちこちに雑草が生えている。目の前にはぼろアパートのような建物がある。

 二人は庭の上に立つと、通路を隠すフタを元に戻した。フタは鉄板などではなく、庭と同じ土でできたブロックだ。周囲と見比べても、まったく違和感がない。

 二人は庭を出て道へ出た。地面は汚れたクリーム色のコンクリートで、両サイドに背の高い壁がある。周囲には幽霊屋敷のような古びたアパート式の建物が立っている。あたりは真っ暗でひっそりしている。

 ゲシュタリテの暗黒街は、簡単に言えばお尋ね者の住まう場所である。面積は小さな町村ほどあり、その中に一番街から六番街までという、区分けされた部分がある。違法賭博場、闇市などなど、表には存在できない数多くのものが存在する。以前は頻繁に警察が強制捜査に入ってきたが、その度に街はもぬけの殻なので、もはや警察は諦めて、ほとんどここを訪れず、黙認している状態になっている。街の者たちは、警察が来ると素早く秘密の十字架へ避難するのだった。

 街には「ブデンブロクス」という犯罪者集団 (窃盗団を含む) が存在し、それをまとめる「総統」と呼ばれる男が街を統治している。……

 二人は古びたアパート式の建物のうちの一つ、石造りで背の高いホテルに入った。入ると、カジノのディーラーのような制服を来た中年の男性が、フロントの奥でイスに座って新聞を読んでいた。特に話したことはないが、顔見知りの男である。

 フロントマンは横向きに座って新聞に顔を向けたまま、興味無さそうに横目で客の顔を見た。それがロリータとハノーであるのを見ると、その目には何か意味のありげな冷たさが浮かんだ。

「一晩貸してほしいの」

 ロリータはそう言いながら宿泊代をフロントの上に置いた。フロントマンは立ち上がり、背後の壁にかかっている鍵の一つを手に取ると、事務的にロリータに渡して、再び椅子に座って新聞を読み始めた。

 ロリータは鍵を受け取ると、何も言わずに階段を上って行った。羽野は申し訳なさそうな顔で「ありがとうございます」とフロントマンに言った。フロントマンは何らの反応も示さなかった。

 ところが二人が階段を上ってしばらくすると、彼は新聞を床に捨てて飛び跳ねるようにして受話器を手に取り、あるところへ電話をかけた……

 二人は部屋に入った。電気をつけても薄暗いような感じで、なんだか埃っぽく、天井の角にはクモの巣の張っているような部屋である。腰を掛けただけで耳に不快なぎしぎしと音の立つ簡素な汚いベッド、茶色い木の丸テーブル、革張りのソファ、型の古い四角いテレビなどがあるだけである。ベッドは窓際の壁にぴったりくっついている。

「ねえロリータ、もしかして今回の犯人って」

 羽野はテレビの電源を付けに歩きながらそう言った。

「ブデンブロクスの仕業と言いたいの?」

「ええ、まあ。かもしれない、と」

 彼はつまみを回してチャンネルを切り替える。

「可能性としてはありうるわね。けど、気になるのは手口、そして若くて綺麗なブロンドの男」

「たしかに巧妙ですよね。センサーに気付いていたり、誰にも気づかれずに進んだり、そのまま逃げずに停電させたり。ブデンブロクスには若くて綺麗なブロンドの人なんて、たぶんいませんし」

 チャンネルがようやくニュース番組に切り替わった。それを見た羽野は愕然としてテレビを指差した。

「あっ! み、見てください、ロリータ!」

 テレビ画面の下方に、「ロリータ、卑劣な殺人窃盗! クラーク嬢を誘拐して依然逃亡中!」のテロップが表示されていた。続いて、アナウンサーの説明が入る。

 羽野は鳥のようにそれを繰り返した。

「ロリータはその後クラーク邸に忍び込み数名を射殺し、クラーク嬢を誘拐して逃亡……」

 ロリータの方を振り向いて、大きな声を出す。

「こ、こんなのウソだ! なんの話かさっぱり分かりませんよ!」

 羽野とは対照的に、ロリータは落ち着いた声で答えた。

「疑いが晴れることはなさそうね」

「そんな、そんな……」

 羽野は膝から床に崩れ落ち、がっくりと力なく四つん這いになった。そして弱弱しく言った。

「空より参上するなんて嘘つくからこうなったんですよ……」

「くよくよしないで。起こってしまったことはしようがないわ。こうなったら、じっとしていられないわね」

「でも、どうするんですかこれから」

「愚問ね。ピンクタイガーを取り返して、犯人を捕まえ無実を証明するしかないでしょ」

「そんな、危険ですよ。相手は平気で人を殺すような人ですよ。……そうだ、このまま警察へ行きましょう。話せばきっと分かってもらえますよ」

「誰が怪盗の話を信じるのかしら。自首しに行くようなものよ」

「う……あっ、そうだ、優等生理論ですよ、今度こそ」

「あなたは甘いのね、ハノー。チョコレート菓子より甘いわ」

「なんでですか」

「チョコレート菓子は甘いからよ」

「はあ……?」

 そこへ、不意にドアがノックされた。無言で、コンコンと二度、三度、四度。取っ手が回り、ドアがガチャガチャと鳴る。鍵をかけてあるのだ。二人の背筋に緊張が走った。

「フロントマンです、開けていただけますか」

 低い声が聞こえた。

「開けていただけますか。――でないなら開けますよ、よろしいですね」

 鍵がさし込まれる音がした。ロリータは声をあげた。

「ちょっと待って、いま着替えているから」

 そしてすぐに窓を開けた。夜風が流れ込んできて、カーテンを揺らした。

 そのとき、ドアの外から、少ししわがれたような、豪快な笑い声が聞こえてきた。

「がっはっは。フロントくん、そんなホラー映画みたいなことをされたら警戒しちまうだろう。ロリータ、わしだ、入っても構わんな?」

 このやたらでかい、威厳のある骨太な声は総統の声だ。ロリータは羽野に「何かを察知したらすぐに窓から逃げるのよ」と耳打ちし、「どうぞ」とドアに向かって言った。

「よろしい。君は帰りたまえ、フロントくん」

 そう言ってドアを開けて入ってきたのは、四十歳ほどのかなり大柄の男で、白いストライプの入った黒いスーツを着ていた。首には金鎖、指には一種下品な感じのする大きな宝石指輪をはめている。顔はあの厳かな、やや傲慢にさえ見えるほど厳格そうなドイツ風の顔で、肌は異国風に浅黒くやや黄色く、額が顔と同じくらいに広く、髪の毛は西洋知識人風に油で撫でつけてある。頬っぺたはややだらしない感じで、ブルドッグとまでは言わないが、肉が垂れている。

 彼はのしのし部屋に入ってくるなり、革張りのソファにどしっと腰を下ろし、話を始めた。ロリータと羽野は緊張しながら総統と相対した。

「それにしても随分と豪快にやったもんだなあ。殺しをしてまで欲しかったのか、ピンクタイガー。ああ、そうだろそうだろ、あれはえらい金になるからなあ。利益を考えれば人殺しなどちっぽけなもんだ。加えて誘拐だ。身代金でも要求しようってか。商売上手になったじゃないか」

 羽野がむきになってベッドから腰を浮かせ掛けると、総統はがっはっはと笑って宥めた。

「分かっとる分かっとる。お前さんたちはそんなことはしない。そこんところは信用しとる。安心せい」

 羽野は落ち着きを取り戻し、ベッドに腰掛けた。

 ロリータは怪訝そうに言った。

「それで、わたしたちに何の用かしら」

 総統はロリータを真剣な目でじっと見つめ、それから手を打って豪快に笑った。上着の内隠しに手を入れ、葉巻を取り出すと、丸テーブルの上に置いてあったマッチを手に取り、火をつけた。一口吸って煙を吐き出すと、総統は言った。

「まあそう警戒するな。なに、ロリータ、お前さんたちが大変そうだからな、しばらくうちでかくまってやろうと思ってな。犯人探しも下のもんにやらせよう。もう車を外に待たせてある。どうするね」

「かくまう? あなたたちに一体どんなメリットがあるというのかしら」

「メリット? なあロリータ、人の世は助け合いだ、そう思わんかね?」

 ロリータはいよいよ疑いを強めた。総統が見返りを求めないのは明らかにおかしい。しかし彼女は疑っているのを気取られないように、表情にも態度にも出さなかった。

「そう。潔白が証明されたら、ジュエルの一つや二つを盗って来てくれという話かしら」

 総統はやられたといった感じに額を平手でぴしゃりと打った。

「さすがロリータ、聡いなあ。その通り! では、取引成立ということでいいかな?」

 総統は立ち上がって、にこにこと葉巻を吸いながら、ロリータに手を差し出した。ロリータも立ち上がり、握手しようと手を伸ばしかけた。そのときだった。先程から注意深く耳を傾けていたテレビから、疑念が確信に変わる情報音声が流れてきた。それはクラーク氏が個人的にロリータに懸賞金を掛けたことだった。ロリータを捕まえるだけで莫大な懸賞金。それに加えてクラーク嬢を無事に連れ戻せば三倍の金額が支払われる。そして最後に――ロリータの生死は問わない。

 ロリータは総統と目を合わせ握手しながら、さりげなく羽野の足を踏んだ。羽野がニュースを見て慌てないように釘を刺しておいたのだ。

 彼女は考えた。総統はこちらを安心させて車に乗せ、そのまま警察署に連れていくに違いない。いや、逃げられることを懸念して車内で撃ち殺すつもりかもしれない。クラーク嬢を保護せずとも、ロリータを引き渡すだけで莫大な金額が手に入るのだ。表面的な性格とは裏腹に利己的で冷酷な総統は、ロリータをかくまって犯人探しをし、身の潔白を明かしてその後ロリータに働いてもらうなどという手間のかかる選択はせず、即確実な手間のかからない選択をするはずだ。

 握手が終わった。総統は「さあ行こう」と両手を広げた。ロリータは総統が背を向けてドアの方へ歩き出すのを待った。総統は素直にロリータに背を向けて、ドアの方へ歩き出した。

 信じていいものだろうか? ――いや、そもそも自分たちは総統に保護してもらう必要があるのだろうか? 怪盗のプライドのために、自分たちはピンクタイガーを自力で取り返すのではなかったか。

 もし総統の誘いが罠だとするなら、外に多数の手下が待ち構えているはずだ。総統はそれを「ガードマンだ」と説明するはずだ。だがもしロリータが逃げようとすれば、彼らは一瞬にして敵に変わるはずだ。

 だとするなら、このままついて行って手下に囲まれたのでは逃げにくくなる。危険だ。

 逃げるなら今、窓から外へ出るしかない。だが総統が余裕をもって自分たちに背を向け隙を見せたからには、おそらく窓の外にも手下が待ち構えているはずだ。だがそちらはとり囲まれていない分、逃げやすい。逃げるなら今しかない。

「ハノー」とロリータは小声で言った。そして顎で窓を示し、逃げろと合図した。

 それを察知した総統は振り返った。すでにロリータの姿はなく、羽野が窓から飛び出す瞬間だった。

 果たして、総統は銅鑼のような大声で叫んだ。

「逃げたぞ殺せ!」

 二人が空中に飛び出ると、真下に数名の男たちが銃を構えていた。さらには総統の大声を聞いた手下が立て物の陰からわらわらと姿を現した。

 ロリータは素早くワルサーPPKを太もものベルトから抜出し、眼下の敵に向かって発砲した。一人、二人、三人、四人――弾は正確に敵の拳銃に命中し、弾いた。敵は「ぐおお」と呻って手を押さえた。

「ハノー、そっちを!」

「はい!」

 羽野は懐から小粒のまきびしを掴み出し、ロリータの指差す方へ投げた。鋭利な鉄棘の塊は、月明かりを浴びて鈍く光りながら、敵のもとへ降り注いだ。相手は驚きの声をあげて怯んだ。それはまきびしというよりも投擲武器だった。ロリータはそれをコンペイトウと呼んでいる。

 敵が怯んでいる隙に、ロリータが発砲し、敵の銃を弾いて落とす。

 無事道路に着地し、二人は素早く走り出す。

 街の至る所に秘密の十字架への入り口が存在する。二人はできるだけ遠くまで逃げ、ある家の庭に入り込んだ。隠し穴のところに、銃を持った敵が四人、待ち構えていた。四人はロリータの姿を見るや、発砲してきた。

 走りながら羽野は剣を抜き、ロリータの前に進み出て、剣を振るって銃弾を弾いた。そして眼にもとまらぬ速さで動き、敵に峰うちを浴びせた。敵はだらりと地面の上に倒れた。

「見事だわ、ハノー」

「いえ」

 羽野は照れ臭そうに刀を鞘に納めた。

 二人は隠し穴に入り、フタを閉め、ハシゴを下りて行った。

 秘密の十字架を進み、ゲーター通り方面の下水道へ出る。

 進行方向を見ても後ろを顧みても、敵の気配はなかった。

「急ぐわよ」

「はい」

 二人は暗いじめじめした下水道を走って行った。羽野がロリータの斜め後ろを走り、懐中電灯で足元を照らしている。

「まったくひどい連中ですよね、ブデンブロクスも」

「彼らは利己的だもの。潔白が証明されてみなさい。総統は手のひら返して又すり寄ってくるわよ」

「人情というものはないのでしょうか。大儀というものは……」

「しょうがないわ。生身の温血人間は食われてしまう世界だもの」

「でもですよ、自分の身を賭して困っている人間を助けるのが人間というものですよ。男たるもの弱き者の味方でなければ」

「そうしてあなたのご先祖様は死んでいったのね、ハノー」

「そうですけど、それが誇りでしょう。男の……」

「ハノーが男の誇りというのはなんだか滑稽ね。いい、ハノー。誇りのために死ぬのは愚かなことよ。生きていればこそじゃない」

「でも、誇りなんです。男は大儀のために死ぬのが至上の誇りなんです。ロリータ、僕の家の家訓には、男は床 (とこ) の上で死んではならない、というのがあるんです」

「おかしな思想をお持ちなのね、あなたのお家は。ところでハノー、貿易商の重役であるあなたのお父さんは床の上で死ぬのかしら?」

「……分かりません。世の中はとっくの昔に変わってしまいましたから」

 ハノーは曇った表情で俯いた。

「でも、だからこそです。僕は日本人らしい日本人でありたいんです。ロリータもきっと分かると思いますけど――」

「分からないわ」

「まだ聞いてもいないのに即答しないでくださいよ……。ロリータも分かると思いますけど、こうして海外に留学していると、自分の存在が希薄になって行くのを感じるんです。周りはみんな外国人で、文化も異文化で、どうしてもそれに馴染めない。馴染んだと思っても、ふと鏡を見れば黄色い肌の日本人が写っているんです……本質的に国際人である人なんていません、きっと。最後に人間の存在を支えるのは、自国民意識なんです」

「よく分からないわ、ハノー。あなたはアジア人だからヨーロッパに来てそう感じるのよ、きっと」

「そうなんでしょうか」

 羽野は頭に世界地図を思い浮かべた。日本という国はたしかに特異だった。周囲を海に囲まれた島国。国土の明確な国。他国にも増して独特の文化を持つ国。

「とにかく」と羽野は言った。「僕はブデンブロクスのような人間になりたくないんです。自分のためではなく、何かのために……何かのために戦うんです。サムライとして戦うんです」

 ロリータのために。と羽野は頭の中で続けた。

 それを察してか、ロリータはほんのり笑った。

「でも死んではいけないわ、ハノー」

「どうしてですか」

 ロリータはそれには答えなかった。改めて聞かれると、なぜ死んではいけないのかが分からなかったからだ。

 ロリータは話をもとのはじまりに戻した。

「ブデンブロクスなんてどうでもいいわ。自分たちの身の潔白は自分たちで明かすの。相手が手を貸してくれないからといって、こちらの考えで相手を否定するのが間違っているのよ。まして、生きている世界が違う相手を否定するのはね。そう思わない、ハノー」

 羽野は小さくうなって黙り込んだ。返す言葉が無かった。たしかにその通りだった。

 ゲーター通りに繋がるマンホールが近づいていた。しばらくして、彼らはハシゴを上って地上へ出た。



 二人が表へ出ると、ちょうど近くにパトカーの赤いサイレンの光が見えた。住宅の壁が、真赤に染まったり薄赤に影がかったりしている。二人は急いでマンホールのフタを閉じ、物陰に隠れた。

 パトカーは、二人と壁一枚隔てたところを過ぎ去って行った。パトカーが遠ざかると、羽野は「ぷは」と苦しげに息を吐いて、空気を吸った。息を止めていたのである。

 それを見たロリータは「偉いサムライがいることね」とため息交じりに皮肉を言って、ハインリヒの家に向かって歩き出した。

 ハインリヒの家は、同じような造りの家が並ぶ場所の一角にあった。

 三階建ての一般的な家屋で、外観はスポンジケーキにクリームを粗雑に塗りたくったような感じだ。二人はその家の板チョコレートのような玄関の戸を叩いた。

 内側からのそのそと足音が近づいてくる。やがて足音はぴたりと止まった。戸の内側から疑り深そうな声が聞こえた。

「山」

「川」

 とハノーは答えた。これは羽野がハインリヒに教えた暗号である。

「ジュエルパンツ」

「埋もれて死ぬのが夢」

 これはハインリヒが決めた暗号である。次も同様である。

「ハインリヒ」

「男前」

 すると鍵の開けられる音がして、ドアが開いた。

 ハインリヒは顔を合わすより先に居間に引っ込んだ。二人はいつも通り、中へ入り、鍵を閉め、居間へ進んだ。

 ハインリヒは居間の真ん中に立って後ろ手を組んで待っていた。背の低い、小太りの、白いスーツに身を包んだ三十歳ほどの男である。彼はアホらしいほど陽気な、甲高い声であいさつした。

「お帰り二人とも! 待ちわびていたんだ、ぼくは。一刻も早くピンクタイガーを頭に被ってエンジョイしたいんだ。ふふん、それで、ピンクタイガーは?」

 二人とも答えられなかった。羽野はちらとロリータを見た。ロリータも羽野を見ていた。目が合って、羽野は何だか恥ずかしくて俯いた。

 二人の様子を見ると、ハインリヒは「はは」と乾いた笑いを漏らし、肩をすくめた。

「分かってる。大変だ。大犯罪者になってしまったみたいだね。さっきニュースで見たよ」

 羽野はすぐに弁明した。

「違うんですハインリヒさん」

 羽野が言いかけると、ハインリヒは「いやいやいや」といった具合に、首を振りながら

手で説明しなくていいと言った。

「心配しなくていいんだ。ぼくは君たちがそんな子じゃないってことをよく知っているからね。ふふん」

 ロリータはハインリヒの癖であるこの「ふふん」が不愉快極まりなかったのだが、今はそれも愛矯に思えた。ハインリヒの表情から嘘偽りのない同情が窺えたからだ。

 ハインリヒがロリータたちを信用しているのと同様、ロリータたちもこの謎の富豪を信用していた。素性は知れないが、人柄は良かった。

「聞きたいことがあるの」

 ロリータが言った。ハインリヒは口元の八の字髭をひねりながら答えた。

「それより、ふふん、まずはゆっくり休んだほうがいい。もうご飯も用意してあるんだ。ふふん、いつも通り手作りだよ」

 二人とも、たしかに一度休んで落ち着いた方がいいと思ったので、ハインリヒの好意に甘えた。ハインリヒは二人を食卓へ案内した。

 食卓にはまだあたたかそうな、香りのよい食事が載っていた。ロリータと羽野は並んで椅子に掛け、その正面にハインリヒが座った。

 ハインリヒはナイフとフォークを手に取り、にこにこしながら目の前のステーキを示した。

「ふふん、君たちはソーセージだけどぼくはステーキ。羨ましいかい? ふふん、でもあげないよ」

 ハインリヒのこういう態度――それはジュエルパンツを誇らしげに見せるときにもそうするのだが――を見ると、羽野は小学校の頃の同級生のことを思い出した。お金持ちで、自分の持ち物を誇示し、そのことに優越感を持つ肉付きの良い小太りの少年。

「別にいらないわよ。お食事、ありがたくいただくわ」

 とロリータが言うと、ハインリヒは「ふふん」と鼻で笑った。

「そんなこと言って、ふふん、本当は食べたいんだろう? ん? ん? でもあげない。なぜならこれはぼくのだから。ふふん」

 彼はナイフとフォークを巧みに操ってステーキをぱくぱくし始めた。

 ロリータはハインリヒのこういうところが気にいらなかった。だが、そう言う彼自信には少しも悪気が無いものだから、ただこらえることしかできなかった。ハインリヒは子供っぽいだけで、嫌なやつではないのだ。

 と、羽野がケチャップもマスタードもつけずにソーセージを食べているのを見ると、ハインリヒは変な顔をした。彼は口を開いた。口に含んでいるステークをむしゃむしゃしながら話すものだから、食べかすが散った。

「いつも思うんだけど、ハノーくんはよくそのまま食べられるね。ライ麦パンをそのまま食べているみたいで、味気なくないかい」

「僕は逆に、みなさんがマスタードをつけるのがよく分かりません。だってそのままでも十分美味しいじゃないですか。むしろ、何かをつけると食べ物のおいしさが損なわれますよ」

「ふふん、ベイビーフェイスなハノーくんは味覚もベイビーなんだ」

「べ、べいびーじゃありませんよ」

「そうよハインリヒ。ハノーはね、甘いだけなの。チョコレート菓子より甘いのよ」

「うほおっ、それはぜひ一度食べてみたいものだねえ」

 羽野はやりとりの意味がよく分からなくてため息をついた。

 やがて夕食が済み、ハインリヒは幸せそうな顔で目をつむり、口ひげをしきりにひねくりまわし、ロリータは紙ナフキンで口元を拭い、羽野は一人でみんなの食器を片付けた。キッチンで洗い物を済ませて食卓に戻ってくると、ロリータがちょうど話しはじめるところだった。

「アーリーはいまどこにいるのかしら」

「アーリーくんかい? ふふん、どうかなあ。君たちが出て行った後にね、電話があったんだけど、それきりなんだ」

「なんて言ってたの」

「なんだかとっても面白いことになる、金になるぞ、ってね、言ってたんだ」

「じゃあアーリーさんはもしかして」

 と言って、羽野はロリータを見た。ロリータはまっすぐハインリヒの方を見たまま動かなかった。

「なにか伝言は?」

「ふふん、あるよ。早朝、夜が明けるころ、ミストポリスだってさ」

「ミストポリスの隠れ家ですか?」

 羽野の問いに、ハインリヒはふふんと言って答えた。

「そう。ミストポリスの裏町にあるアーリーの隠れ家。きっと、アーリーくん、情報たーくさん持ってくるはずだよ」

 ハインリヒは口ひげをひねくりまわしながら一息ついて続けた。

「でもね、行かない方がいい」

「どうしてかしら」

「だってロリータ、君たちは情報を買ってどうするんだい。自分たちで犯人を捜し出すのかい。――やめておくんだ。外は危険だ。警察の目もあれば、君たちの首を狙う人間もいる。疑いが晴れるまで、うちでゆっくりしているといい」

「……ねえハインリヒ、わたしは怪盗なの」

「ん、ああ。――パンツのことかい? パンツなんていいさ。そりゃ、あのハリウッド女優のミランダが履いたピンクタイガーは欲しいし欲しかったけど……君たちの身にもしものことがあってだね、そうなると、困るんだ。君たちには無事でいてもらわないと」

 ぼくの高級ジュエルパンツに埋もれて死ぬという夢が潰えてしまう、とハインリヒは冗談を言って笑った。

「ちがうのよ、ハインリヒ」とロリータは言った。「ちがうの。そう、あなたの言う通りパンツなんてどうでもいいわ。これはね、ハインリヒ、怪盗としてのプライドの問題なの。横取りされたまま黙っているなんて、とてもじゃないけど出来ないわ。そうよね、ハノー」

 話に聞き入っていた羽野は急に話を振られて慌てた。

「え、あ、まあ、はい……」

 ハインリヒは口ひげをひねくって黙り込んだ。やがて彼はこう言った。

「せめて今晩はゆっくり休んで行きなよ。これからミストポリスに行くんじゃ、もう何時間も寝ていられない。アーリーには電話しよう。時間を遅くして貰えばいい」

 言うや否や、受話器を取りに席を立とうとしたハインリヒを、ロリータは止めた。

「だめよ、ハインリヒ。それはだめ」

 ハインリヒは困った顔をした。なんでだい、と聞き返さないのは、自分でもロリータが自分を止めた理由を承知しているからだった。

 アーリーという男について少し話そう。アーリーというのは愛称で、名前はソシアーリオという。けれどもそれは偽名で、本当の名前は誰も知らない。彼はいわゆる「情報屋」で、驚くべき情報収集能力を持つ超一流の情報屋である。かつ腕利きのガンマンでもある。……実は、ロリータたちが知っているのはこれだけである。どんな相手と取引しているのか、普段何をしているのかは、もっと言えば何者なのかは、何も知らない。それはまあ、ハインリヒと似たようなものだった。――それで、なぜロリータが電話をかけるのを止めたのかというと、単にハインリヒに迷惑をかけたくないからだった。というのも、アーリーの携帯している電話は特殊で、掛けても受けても通話記録が残らないのだが、アーリーから電話を掛けた場合は、その通話自体が無かったことになるけれども、逆に、こちらからアーリーに電話を掛けると、こちらが「何か」に電話をしたという事実が残ってしまう。

 そうなると、もしかしたらハインリヒが警察に嗅ぎつけられ、疑惑をもたれることになるかもしれない。地下二階にあるジュエルパンツ保管室は容易に発見できないようになっているので安全だが、ハインリヒの活動が制限され、取引しにくくなるのは間違いない。

 ハインリヒは「ふふん」とため息でもつくように言った。

「じゃあ、君たちは本当に行ってしまうんだね?」

「ええ」

「そうか」

 寂しそうな顔をするハインリヒを見ると、ロリータは微笑を浮かべて彼の肩をぽんと叩いた。

「お風呂借りるわ」

 そうして居間を出て、浴室の方へ歩いて行った。

 一時間ほど経って、身支度を済ませた二人は居間の籐椅子で一時間ほど仮眠をとった。目を覚ますと、ハインリヒがコーヒーを用意していた。彼は二人に香り豊かな湯気の立つカップを渡した。

「眠気覚ましに飲んでいくといい」

「ありがとう」

「どうもです」

 ロリータはほとんど一口に飲み、猫舌の羽野はあちちと言って舌をだし、一口含むと苦そうな顔をした。なかなか飲み進まなかった。

「何をもたもたしているの、ハノー」

「だってロリータ、熱くて苦いんですよ」

「やれやれだわ」

 そんな二人の様子をハインリヒは暖かな目で見ていた。

 彼は二人から空のカップを受け取ると、「ふう」と息を吐いた。カップを持ったまま、二人を玄関まで見送る。

 ロリータはドアに手をかけ、ちょっと振り向いてハインリヒに礼を言った。

「ありがとう、ハインリヒ」

「ご飯もコーヒーもおいしかったです」

「ふふん。そうかいそうかい」

 ハインリヒは得意げに笑ったが、すぐに浮かない顔をした。

「ねえ君たち」と彼は言った。「本当に行ってしまうのかい。疑いが晴れるまで、こうしていればいいんだ。あたたかいご飯を食べて、コーヒーを飲んで……ずっとそうしていたっていいんだ。無理に危険に踏み込むことはない」

 ロリータは視線を床の上に落として、ちょっと考えるふりをして見せた。それから顔を上げて言った。その表情は真剣だった。

「いかなければならないの」

 そうしてロリータはハインリヒに軽く手を振ってから、玄関のドアを開いて外へ出た。羽野はぺこりと一礼した。

「ご親切にありがとうございます」

「ふふん。それより、ロリータを守ってやるんだよ、ハノーくん」

「はい」

 羽野はハインリヒにぺこぺこしながら、玄関を出た。

 一人家の中に取り残されたハインリヒは、そこに佇んだまま呟いた。

「頑張るんだよ、二人とも」

 そうして、「ふふん」と言いながら居間へと戻って行った。


     *


 ロリータ事件後の深夜、メレスデルヒ警察署は大忙しだった。

 そんななか、ゆりあ警部は警察署長に呼び出され、エレベーターに乗って署長室へ向かっていた。最上階でエレベータを下りると、硬質なつやつやした床の廊下が伸びている。ゆりあ警部はぺたぺたという足音を立てながら廊下を歩いて行く。相変わらずレオタード一丁で裸足なのである。

 署長室の厳めしい大きなドアをコンコン叩くと、「入りたまえ」という声が返ってくる。

 ゆりあ警部はドアを開け、一礼し、部屋の真ん中まで進んで立ち止まり、再び一礼した。

 署長は重厚なテーブルの奥、革張りの椅子に足を組んで座り、葉巻をふかしていた。体が大きく、顔も大きい。つるっぱげで、肌はつるつるしており、顔は綺麗に剃ってある。瞼の上がむくんでいて、目は細く、鼻は大きく、口元は厳かに引き締まっている。

「マスコミが大挙して来るわ、息つく間もなくコメントを求められるわ、大変だ、疲れたよ、私は」

 署長は厭味ったらしく煙を吐いた。

「困ったもんだ、実に困ったもんだよ北城くん。君のおかげでとうとう署の威信に傷がついてしまった。いいかね、君の行動には常に署の名前がついて回っているんだ。君の失態は全部こちらの失態になってしまうんだ。分かるかね」

「むむ」

「ところ構わずロリータの予告カードが届いたところに駆けつけて、仕事を放り投げてまで勝手に行動して、それで毎回逃している。そしてついにやってくれた、窃盗、いや強盗、殺人、あげくに誘拐! それもクラーク氏の孫娘! 君、今回の件は取り逃がしましたじゃ済まされないのだよ!」

「ですからな、署長。さっきも言いましたが、これはロリータの犯行ではないのだ」

 ゆりあ警部が言うと、署長は嘆かわしげに手を振った。

「またそれだ。責任転嫁! ロリータの犯行でなければ自分の責任ではないというわけだ!」

「しかしですな、これは明らかにロリータの犯行ではないのだ。長い間ロリータを追ってきたわたしが言うのだ。間違いありませんなのだ」

「『長い間追ってきました』。いいね、もっともらしい文句が出てきて。いいだろう。じゃ、君の言い分を認めるとしよう。部下がブロンドの男に撃たれた、ロリータたちが彼を運んできた、北城くんはそれを見て聞いた、そして『長い間追ってきた自分が言うので間違いない』。――だめだよ北城くん、根拠薄弱だよ。話にならない!」

「しかしですな」

「しかしですなも何もないのだよ。証明したかったら犯人を連れて来たまえ、そのブロンドの若い男とやらを! ――おっと、だがそうもいかんのだ、なぜかわかるかね?」

「なぜなのですか」 

「こりゃこりゃ、『なぜですか』と来るのかね、いや、まいった! いいかね、君がいままでロリータにうつつを抜かしている間にね、仕事は積もり積もっているのだよ。自分の不始末は全部自分で片付けたまえ。明日から通常業務に戻りたまえ、そして毎日深夜残業だ。いいね!」

「むむむむ」

 ゆりあ警部は悔しさに震えた。自分の言うことをまるで信じてもらえない。あげく明日からつまらない事件の事務的処理にとりかかれと言う。常識的に考えれば署長の命令は正しいのだが、もとよりわがまま気質であるゆりあ警部、まして内心憤り中のゆりあ警部がそれを受け入れるはずはなかった。

「断るのだ」

「何を言ってるのだね。君に選択権はないんだ。ロリータ事件は管轄の署に任せ、君は明日から通常業務だ」

「嫌なのだ」

「じゃあなにか、君は明日からそのブロンドの男とやらを捜索するのかね。やめたまえ、徒労に終わるよ。ブロンドの男、なんていうのは君の妄想だ。あるいは部下の幻覚だ。そうだ、君の部下はロリータに撃たれた、そしてロリータはあたかも第一発見者を装って彼に接した。ロリータが『きみはブロンドの男に撃たれた』と言った。――まあそんな感じじゃないのかね。とにかくだね、北城くん、君は明日から通常業務だ。ロリータ事件に関わることを私が禁止する。明日から真面目に働きたまえ。これは署長命令だ、いいね?」

 ゆりあ警部には、署長がなぜそこまで頑なに自分の主張を信用しないのか、理解出来なかった。なぜ署長は警部である自分の言葉を信用しないのか。

 だがゆりあ警部はそれ以上深くは考えなかった。信用してもらえない、ということから、苛立ちに直結したからである。

「……真面目になど働かないのだ」

「署長命令に背くと言うのかね。君、どこかへ飛ばされても構わんと言うのかね」

「脅すつもりですかな?」

「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。これは当然の忠告だよ。明日からブロンドの男などという架空の存在を捜索するのはだね、君、遊んですごすようなものだよ、給金泥棒というものだよ」

「うぬぬ……」

 ゆりあ警部は俯いて、拳を固く握りしめ、わなわな震えた。

 署長はそれを見て、そろそろ決着だな、諦めて言うことを聞くだろうと思って、最後に慰めの言葉でもかけてやろう思った。

「いやまあな、君の無念は分かるよ、北城くん。君というものがありながら、ロリータの大犯罪を防ぐことは出来なかった。君はその責任のためにまだロリータ事件に携わりたいと言っているのだろう。だがね、現実を見る必要があるよ。机の上には仕事が山積みで――」

「もーう、うるさいうるさいうるさい、うるさーいのだ!」

 ゆりあ警部は顔を上げ、八重歯を鋭く光らせ、吠えた。署長はびくっと震えた。

「現実を見ていないのはあなたなのだ、署長、よいか、あなたなのだ、署長。ブロンドの男は存在するのだ。そしてわたしはそれを探し出さねばならないのだ、だから、わたしは明日から『真面目に』働くことはしないのだ!」

 ゆりあ警部は子供みたいに喚いた。

 署長は頭に血が上った。彼は机を拳骨で叩いて立ち上がった。

「君は巡査からやり直したいと言うのかね、え!」

「そんなことは一言も言っていないのだこのつるっぱげバカ! アホ! アホッぱげ!」

「なーんだと? この永遠六歳児! 小学校からやり直させてやろうか!」

「黙るのだこのつるつるのアホッぱげ!」

「いい加減にしたまえ、署長に向かってなんだねその口の利き方は!」

「分かったのだアホッぱげ、いい加減にしてやるのだ。だからよく聞くのだ、再度言う、わたしは『真面目に』働くことはしないのだ」

「まったく分かっていないじゃないか! いいか、認めないぞ、さもないと――」

「分かっていないのはあなたなのだ、つるっぱげ。わたしは通常業務には戻らない、真面目に働くこともしない。――有給を使うのだ!」

 それを聞いた署長は唖然とした。しまった、返す言葉がない。彼は苦し紛れにこう言った。

「有給だと、好き勝手やっといて、通常業務に戻れと言われたら有給を使うだと、おい君、北城くん、君には責任感というものはないのかね! そんなことは認めんぞ、きっちり働いてからにしてもらおうか!」

「認めない? 何を言っているのだ署長。わたしは有給休暇という正当な権利を所有しているのだ。いつ行使しようとわたしの勝手なのだ! 認めないのは認めないのだ!」

「また勝手を言いおって! 時期を考えたまえ!」

「えーいうるさい、とにかくわたしは有給を使うのだ、分かったな、よし決まりなのだ、そうと決まればもうつるっぱげと話すことなど何もないのだ、失礼しますなのだ!」

 ゆりあ警部は一息にまくし立てるなり、くるりと踵を返して、ドアの方へ歩き出した。

「おい、ちょっと、北城くん!」

 呼び止めたが、振り返ることなくゆりあ警部は部屋を出て行ってしまった。

 署長はぶつぶつ文句を言いながら窓辺へ歩いた。後ろに手を組んで、窓の外を眺める。

 やがて彼はやれやれとため息をついた。

「嗅ぎ回られては困るんだがな……」


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