うたた寝
――きて。
優しく、呆れたように名前を呼ぶ声がする。声の主だろうか、俺の両肩に触れ、ゆさゆさと揺さぶってくる。触れた細い指先のぬくもりや、控えめに揺さぶられるのが返って心地よくて、寝ぼけた口がもごもごと動く。
「あと五分……」
再び声が聞こえた。もう、だの、仕方ないわね、だの、惚ける俺を見て諦めた感じにため息を漏らしていた。
一呼吸おいて近づく気配がして――
ボカロの歌を垂れ流しにするスマフォを握り閉めながら、俺はぼんやりと頭を持ち上げた。
「ゆめ゛、ガ……」
かすれて人間のものではないような声を漏らす。大口あけて寝ていたのか、やけに喉が渇く。水分を求めて手を伸ばしたが、枕元に放置されていたコップに中身はなかった。
とにかく眠い。原因はわかりきっていて、昨日――というか時刻的には早朝までLINEつないでおしゃべりしてたからだ。気楽につながるし、普段の連絡にも普通につかっているが、こういう時ひどく後悔する。
「何だかんだ言って、懲りずに使うんだけどな。楽だし」
色濃く気だるさが残る頭を振って、どうにか今日の予定を思い浮かべようと試みる。
確か大学の講義は2時限からだから、慌てて準備して部屋を出る必要はない。そこまで考えたところで、くるると腹が空腹を訴えてきた。
ひとまず朝飯を食べるか。とはいえ、大学進学を機に実家を出て学生向けの格安アパートで一人暮らしを始めたため、飯の用意も自分でしなければならない。
寝不足の体は異様に重たく、立ち上がる気力も起きない。食パンとか、菓子類を買い貯めがあったかなとぼんやり考えながら、のそのそと寝返りを打った。
やがて、周囲の景色が一変した。気づけば定食屋のカウンターに座っていて、厨房から揚げ物用のサラダ油の匂いや、かつおだしと醤油が混ざった香りが食欲をそそる。間もなく注文していた日替わり定食が目の前に運ばれてきて――
「――て、そうじゃねえから! 夢で腹が膨れるかっつの!」
二度寝に入りかけた俺は慌てて飛び起きた。気だるさは解消されてないが、頭をがしがしかいて眠気を晴らすと立ち上がった。おぼろげな記憶と頼りに棚を探したが、生憎食パンは切らしていて、菓子類もお徳用チョコが数個残ってるだけだった。
「……途中コンビニ寄って朝飯買うか」
そう決めてのそのそと着替えを済ませると、指定の教科書や参考書で膨らんだ鞄を持って部屋を出た。
「あはは。それでローソン寄ったけど、陳列前でろくな物が残ってなかったと」
休み時間になって話しかけてきた玲は、今朝の話を聞くとたまらず爆笑した。
「うっせーよ、笑うな。おかげでこっちは授業中に腹がなって恥かいたんだからな」
「あはは。それこそ浩輔の自業自得でしょ? これに反省したら、深夜のLINEもほどほどにして、すぐ食べれる食べ物は買い置きしておくことね」
他の学生たちが次の講義やサークルなどに向かってばらばらに移動していく中、俺と玲は教室に残って駄弁っていた。玲は大学に入ってから知り合った女で、5時限目の民族学が被っていたため今に至る。
俺はこれ以上講義はなく、バイトのシフトも入っていないため、暇つぶしにサークルに顔出すか、さっさと部屋に戻るかの2択だった。講義中にうつらうつらと転寝していたが、座った体勢で寝たため余計に疲れてしまい、今日はそそくさと帰って寝ようと思っていた。
「眠そうだね」
玲がからかうように口端を緩めた。あんたの考えてることなんてお見通しよ、みたいな態度に頭が来て、俺は憮然と顔をしかめた。
「そうだよ。今日はバイトもねえし、さっさと帰って寝る。玲はどうすんだ」
「私? う~ん、どうしよっかな。先輩にたまにはサークルのほうにも顔出せ、って呆れられて注意されたけど、強制されてるわけじゃないしなぁ」
「つまり暇なのか?」
奥歯に物が挟まる物言いに苛立ちを覚えながら結論を促すと、彼女はもったいぶるように指で下唇をつまみ悩むそぶりを見せる。唇をいじるのは何か頼みたい事をあるときの癖だった。
肩にかけた鞄を持ち直し、足の位置を直して言葉の続きを待ったが、玲は言うか言わないか迷ってるようで小さくうめいている。
用がないなら帰るぞ、と言おうとして口を開いかけたところで、やっと玲が堅い口を開いた。
「ねえ浩輔、ちょっと付き合ってよ」
思い悩んだわりにあっけらかんとした口調だった。漠然とした頼みごとに、何も考えずどこにと聞き返す。するとなぜか睨まれた。
「……この鈍感。寝不足でいつも以上に頭の回転落ちてるんじゃないの」
「はあ!? お前が付き合えって言い出したんだろ? だからどこ行くかくらいはっきり言えよ」
「あぁーもう! だ・か・ら、付き合ってっていってるでしょ、私と」
逆上する玲に対して、売り言葉に買い言葉といった具合に叫び返そうとして、はたと気づく。さっき玲が言った言葉が頭に引っかかる。
「付き、あう……?」
呆然と反芻すると、冷や水をかけられたように頭が冷静さを取り戻す。付き合う、という意味を思い浮かべ、わざわざ言いなおした玲の言葉も思い出す。
「だから、私と付き合ってよ。なんか、浩輔って間が抜けすぎて見てられないし、さ」
不機嫌に顔を逸らしながら告げたそれが、玲の照れ隠しだということは勘違いわけもなく、俺は状況を把握しきれないまま曖昧に頷いたのだ。
そうして、俺と玲は付き合い始めた。
強く揺さぶられ、さすがに目を覚ました。
ぼやけて、白いもやがかかった視野も幾度か瞬きすれば明瞭になっていった。
「ようやく起きた。大事な式の前なのに、間の抜けてるところは大学時代から変わらないのね」
呆れた声で言ったのは玲だ。
大学で出会った頃より成熟され、柔らかさが増した表情を見て、ふと告白された直後の日々を思い出す。週2で部屋にやってくるようになり、掃除や洗濯の仕方をあれこれ口を挟むようになって、同じ調子でこれからも尻に引かれ続けるのかと思うと早まった気がしてきた。
けれど改めて玲の姿を目に留め、一瞬の気も迷いだと頭を振る。
後ろ髪をアップにまとめ、フリルを多段にあしらい、裾を引きずるほどのドレスやレースの手袋は彼女の意向で薄いピンク色統一されている。鏡の前の机には純白のベールが用意されいた。
「どうしたの、ぼうと気の抜けた顔しちゃって。まだ寝ぼけてるの?」
「いいや、しっかり目が覚めたよ。玲、綺麗だ」
「あ……、ありがと」
照れた玲がぷいっと顔を背ける。耳と頬がウェディングドレス以上に紅く染まっていた。
「もうすぐ式なんだからしっかりしてよね。式の最中に新郎がうとうとされたら赤っ恥もいいところだから」
「そうだな。気をつける」
思わず苦笑する俺に、玲がところで、と話を蒸し返した。
「ところで浩輔、気持ちよく転寝してたみたいだけど、どんな夢を見ていたの?」
「さてな……忘れた」
俺は白々しく誤魔化した。思わず頬を緩める俺を見て玲は怪訝そうに眉をひそめたが、追求はせず困ったように苦笑した。
咄嗟に嘘をついたのは、正直に夢の内容を話したら、今いる世界の方が夢だったと言われるのではないか、と子供じみた杞憂を感じたからだった。
だから、自分自身に言い聞かせるようにしみじみと呟く。
「俺たち、結婚するだな」
「何を今更……そのために今日まで準備してきたのよ」
呆れたように玲が笑う。告白されてから5年間。ゼミの研究やら、就職活動やら、新人研修やら、長かったような短かったような、不意に感慨深いものがこみ上げてきた。
とんとんと、控え室の戸が叩かれた。玲がはいと返事をすると、会場スタッフの女性が入ってくる。両脇には花嫁のドレスの裾を持つ子供たちが緊張した様子で気を付けしていた。
女性は入場するため移動してくださいと言い、簡単に最後の打ち合わせをした。といっても土壇場で行うのは心の準備くらいで、手順は事前にみっちり頭に叩き込んだし、軽い確認のみで終わった。俺たちは頷き、玲にはベールがふわりとかぶせられた。
隣に立ち腕を軽く曲げると、そっと玲が手を添える。子供たちが後ろにつき、女性の先導で歩き出す。
俺の腕にそっと添えられた温もりを、確かな現実だとかみ締め、俺は胸を張った。