有子 in the School Life 前半
――ろ。
ぼんやりと、呼ぶ声がした。
ゆさゆさと体を揺らされて、かえって心地いい。もう少し、後五分だけ。もごもご口を動かし、私は言った。
薄目を開け眺めていたが、相手は強行手段に出た! 肩を揺らしていた手を離し、徐に机のほうに歩いていく。本棚に並んだ分厚い辞書の中から、飛び切り重厚な一冊を手に取り……
「――ちょっとまったっっ!!」
「ああ、起きたか。ユウコ、おはよう。おばさんが朝ごはん用意してるから、さっさと用意しな」
「おはよぅ――じゃなく! シロっ、あんた今何しようとしたの!」
まどろんだ眠気など一気にぶっ飛んだ。朝から乙女の部屋に何食わぬ顔で踏み込み、凶器を手にした幼馴染に、私は顔を真っ赤にして言い寄る。
「なにって。『寝坊』って単語の意味を調べようかと思ってな」
「そんなもの、広辞苑引っ張り出さなくても知ってるでしょうが!」
広辞苑はあくまで調べ物に使うものであって、決して寝起きの悪い幼馴染を殴るものではない! 断じてない!
怒って枕を投げつけるも、シロはひょいと首を傾けてよける。壁にあたって落ちた枕をつかむと、丁寧にベッドの上に置き直す。
ふう、と鼻を鳴らして、シロは内ポケットから懐中時計を取り出した。細かくメッキがはがれ、年季の入った時計を片手で開くと、何事もなかったかのように言った。
「8時11分32秒。まあ、間に合うか。5分で着替えれて鞄を用意すれば」
「女の子の着替えを何だと思ってんのよ!」
礼儀しらずの朴念仁を追い出して、私はいそいそと学校に行く準備を始めた。
いつものように通学路をシロと走っていると、呆れたように声を掛けてきた。
「なあ、ユウコ。いい加減自力で起きろよ」
「うるさい。ぎりぎりなんだから、口を動かす前に足を動かしなさい!」
「いや。もともとユウコのせいだろ。今月で何個目だ? 壊した目覚ましの数」
淡白な口調でたずねられて、私は首をかしげた。昨日の夜にセットしていたはずの目覚ましは、なぜか庭に打ち捨てられていた。窓ガラスは割れてなかったから、誰かが鍵を上げて、窓を開け投げ捨てたのだ。まったく、迷惑な話だ。
「いや、投げ捨てたのお前だから」
まるで心理を読み取ったかのようなシロに、即座に訂正された。証拠が見せてみろ、と言い返そうと振り返ると、スマフォの画面に映った自分と目が合った。スマフォはシロのものだ。下からのアングルから二階の部屋を捉えた写真では、眠そうに細めた目をこする私が、もう片っ方の手で目覚ましを構えている。
急いで証拠隠滅しようと手を伸ばしたが、シロはひょい、とすばやくスマフォをしまう。
「うぐぐ……。ふん、だ。文句があるなら一人でどこへなりとも行けばいいじゃない!」
「いやいや、学生の行く先は学校だし。それに、置いていったら後で怒るだろ?」
「当たり前でしょ! 家が隣同士の幼馴染は、もうかたっぽのフォローをするのが義務なんだから」
「理不尽だなぁ」
シロといいやってる間に、ぞろぞろと校門をくぐっていく生徒たちが見えた。どうやら、始業時間には間に合いそうだ。
集団に合流して門をくぐると、すぐ近くで黄色い声が上がった。
「相変わらずの女性人気だね、服部センセ」
私が振り向くのと、シロが嘆息するのはほぼ同時だった。
視線の先に女性徒が群がっていて、中央で優しげに目を細める青年教師がいた。手に持ったハットを、芝居じみた動作で頭にかぶせたのは、家庭科担当の服部先生だ。甘いフェイスと、柔和な微笑みで女子たちからの採点はかなり高い。けれど私はあの人苦手。妙にいい訳くさいというか、胡散臭い雰囲気があるのに、恋多き女子高生には哲学的に見えるらしい。
と、服部先生がこちらの視線に気づいた。目があうと、気障っぽく完璧なウィンクをして、拳銃の形にした人差し指でハットの鍔を持ち上げる。取り囲んでいた女子たちが、また、きゃあきゃあと恍惚とした声を出した。
隣からも、喉から空気漏れしたみたいな感嘆が聞こえた。
「うわぁ。抜け目ないな。恥ずかしげもなくウィンクする人、テレビ以外だとあの人くらいなもんでしょ」
「もしかして、シロはあんな軟派男にあこがれてるの?」
「いんや。まっぴらごめんだね。ただでさえ厄介な腐れ縁のせいで自分のペースを崩されっぱなしなのに、あんな群集まで身にまとったらやってられないよ」
シロらしい潤いゼロの意見だった。というか、厄介な腐れ縁てのは私のこと? 遠まわしな嫌味に頬を膨らまして抗議する。けど、シロは鼻息を漏らしながら肩をすくめるにとどまった。
道すがら知り合いに声をかけつ、かけられつつ、教室に向かう。
教室の戸を開けて、おはよう、と挨拶すると、いくつか挨拶が返ってきた。
「よ、シロウ。いつも夢野の付き添いご苦労さん♪」
「同伴出勤かよ、シロウ。羨ましいな」
それぞれの席に着くため離れたシロに早速男子たちが絡んでいた。どうでもいいことだけど、皆の『シロウ』って発音が、『シロウッ』と語尾が息詰まった感じに聞こえるのは、名前に当てられた漢字に由来する。兎年の、一面雪で真っ白に覆われた日に生まれたから、シロのお父さんがゲンかつぎにつけたらしい。
小学校の頃は、名前の下に二文字追加してからかわれたこともあった。
初めはシカトしていたシロも、3年生に上がる頃、おふざけが悪質になってついにキレた。その時、ふざけていた同級生に向けた、冷え切った目は今でも覚えてる。私が言ったわけでもないのに、そばに立ってるだけで殺されるかと思った。寒さに震えて、握り締めたのが当人の腕なのだから、ちょいと恥ずかしい。
あの頃よりかは成長したシロは、男子たちを適当にあしらっていた。
私も友達とわいわい話しつつ、なんとなく様子を盗み見ていたが、シロが無造作に懐中時計を閉じた。
前のドアががらりと開いた。
長い髪を後ろの高いところで一房にまとめ、下半分を緑色で縁取りした眼鏡をかけた秀麗な猫無エミ先生が顔を出す。猫のように気まぐれで大雑把な性格だが、笑うと色気が増して、男子生徒がそろって鼻の下を伸ばす。エミ先生目当てで、男子たちが職員室に行く用事を競い合うこともままあった。
「出席を取るわね。相田くん、飯塚くん、乾くん、……」
意気揚々と返事をしていく男子たちに、女子たちが白けた視線を送りつつ、エミ先生が点呼を終えると連絡事項も特にはなく、黒板脇の椅子に腰掛けた。
5分ほどしてチャイムがなると、座ったまま教科書を開いた。たまたま一時間目が担当教科だったから持ってきていたらしい。なんというものぐさっぷり。単純な男子どもはだらしない顔で、気にしてないみたいだけど。
「んじゃ、今日は……どこからだっけ?」
「教科書の53ページからですよ」
「そだっけ? ええとじゃあ、木下さん、段落一つ読んで見て」
「猫無せんせ、先に練習問題の解答してください……」
「あら、そっか。なら読むのはとりけし。木下さん、前に出て黒板に書いて。あとは、そうね野中くんと、小枝島さん、百瀬くんも前に出てくれる」
生徒から指摘を受けてえっちらほっちら授業を進めてる様子もだいぶ見慣れてきた。先生がしゃんとしてないから、生徒が付き合ってるという有様だ。
こんな様子で進路指導教員も勤めているのだが、放任主義というか寛容というか、やりたいならやってみなさい、と言って終わりなのが常だった。生徒の進路にもっと興味もって、と言いたい。いつ教師をクビになってもおかしくない不勤勉ぷりなのに、意外と揉め事は起きていない。教師陣もエミ先生の虜、なんて考えたくないけど、多分理由は、なんとなく憎めない空気をかもし出してるからだと思う。
呆れたり、ため息はつくものの、無視したり、反抗的な態度を取る生徒はいない。不思議なことに!
授業も半ばを過ぎ、うつらうつらしていたら、エミ先生が目ざとく見咎めた。
「ほら、夢野さん。あとちょっとだから、舟をこくのはもう20分待ちなさい」
「せんせぇ、20分は後ちょっとじゃないです」
シロにたたき起こされた上に、学校まで走ってきたから眠気もひとしおだった。どうにか言い訳を考えるべく視線をめぐらせる。おあつらえ向きに、斜め前の席の女の子が、教科書やノートを出さず、すやすやと眠っていた。
「それにヤマネちゃんだって寝てるのに、そっちはスルーでいいんですか?」
「彼女はいいの。髪の毛がふわふわしてて気持ちいいし。小テストや定期試験でもそれなりにいい点を取るから」
「……髪の毛は関係ないでしょ」
揚げ足を取られて、そう反発するのが精一杯だった。
ヤマネちゃんは日がな一日寝てる不思議ちゃんだ。いまだって、すやすやと吐息を立て、呼吸のたびにご自慢のふわっふわな髪が上下に揺れている。すやすや可愛らしい寝息や、枝毛の一本もないふわふわ髪に癒される人は後を絶えず、動物園のコアラよろしく、動かないのにクラスの愛玩動物的な地位を確立していた。彼女は、驚くべきことに、試験の時すら寝てる。けど試験の結果はいつも上位5位以内なのだから、世の中は何かが致命的に狂ってる。
ちなみに、起きたら井戸の中に住む姉妹の話とか、素っ頓狂な話を始めるから、寝てる方が賢いくらいかも。
「夢野さんも、居眠りを黙認してもらいたかったら、髪の手入れはしっかりすることね」
「いや、だから。髪の毛は関係ないでしょ」
とぼけたやり取りに辟易していたら、教室のあちこちから、くすくすと笑い声が上がっていた。
「たしかにヤマネちゃんは髪ふわふわだもんね」
「コットンみたいにあったかいし、触ったら癒されるよねえ」
「うんうん。持って帰って枕にしたい!」
そっちか!
和気藹々とした雰囲気の中で、一人だけ、はあと深くため息をついていた。結局エミ先生に丸め込まれて、居眠りの機会は失った。
午前の授業が終わって、私はべたーとはしたなく机に突っ伏した。
や~~~と、一息つける! とだらだらしていた私に耳に、ドタタタと慌しい足音が届いた。
「せーんーぱーいっっ!」
きゃんきゃんと甲高い声に振り返り、げ、と思う。予想通りの女の子が、後ろ側の入り口に立っていた。目を線にして、目いっぱい手を振る。頭に載せた唐草模様のリボンが頭の動きにつられて揺れていた。
まるで飼い主を見つけた子犬のように、嬉しそうに全速力で私のほうに走ってきた。突進するように私に抱きついた。砂糖菓子のような甘いにおいがした。
「お昼ですよ! お茶にしましょっ。お茶にしましょっっ」
「大きな声じゃなくても聞こえてるから、ミツキ……」
ちっこい体を引き剥がし、頭をなでてやると、気持ちよさそうに目を細めてされるままにされた。ややあって、くりっとした目を開ける。曇り一つない栗色の瞳が私を見つめ、ことりと可愛らしく小首をかしげた。
「せんぱい、元気ないですね? 午前はきらいな教科ばっかりでしたか?」
「ううん、別にそういうわけじゃないんだけどねぇ。ちょっこし疲れたかな」
心配そうに除いてたミツキの瞳に、ひときわ煌々とした光がともる。しまった、身を起こしたときには手遅れだった。
「それはいけません!! 疲れたときには糖分ですっ。お砂糖不足はお肌の大敵です!!」
「いや、糖分の取りすぎは体重に……」
「ここは一つ、ミツキ特製っ、スイーツティーを飲んで午後の授業に備えましょう!」
話聞いてよ!
天真爛漫に鼻歌を歌い始めたミツキは、小柄な体のどこに隠していたのか、バスケットを引っ張り出し、ティーポットとカップを私の机に並べた。
「……ええと、ミツキ? ポットがつ6つもあるんだけど」
「はい! 少しでも先輩の疲れを癒せるよう、今日は奮発してみました」
「へ、へえ~~」
鼻をつく甘い匂い。先ほど感じたのはこれか。カカオに蜂蜜とガムシロップをたらして、ザラメやジャムやカラメルをごちゃごちゃに混ぜたような強烈な匂いが脳まで侵食してくる。たまらず人身御供を探したが、ついさっきまで懐中時計をにらんでいた姿はいなかった。
逃げやがったな、あいつ! しきりに時刻を気にしてたのはこのためか!
シロの替わりに周囲に助けを求めるも、全員にが全員、コンマ1秒で目をそらした。
薄情もの~~、と心中で盛大に叫ぶ。しかし、不安そうに縮まって、上目遣いで見つめくるミツキと目があうと、捨て犬を見つけた時のような保護欲をかきたてられ、厚意を無碍にできなかった。
からからの喉をぎこちなく動かし、それとなく中身を聴いてみた。
「ええと、じゃ、じゃあ、どれから、……貰おう、かな?」
「どれもお勧めです! まず一番左が細かくしたチョコとアッサムをブレンドして、隠し味に桜シロップをたらして……」
ちょっと待ってっ! 紅茶にチョコをブレンドってどういうこと! どこからか驚愕の悲鳴が上がる。出鼻をくじかれた私だが、ミツキの舌足らずな紹介は止まらない。
「こっちはセーロンにクリームチーズと、三温糖を混ぜて、ミントを漬け込んでですねっ――」
「これはですね! レモングラスを炭酸の抜けたサイダーで割って、シナモンをたっぷりと――」
「ブドウウーロンってあるじゃないですかっ! だから、きっと合うと思って、ウーロン茶にオレンジディキュールをたらして、隠し味にマーマレードを大さじ3杯くらい――」
ミツキが嬉々としてお茶(?)を構成を紹介するたび教室のあちこちから、うえ、と嗚咽が聞こえた。一杯も飲んでいないはずなのに、すでに胃がもたれてきたのだ。
教室の空気は、どん引きどころか、無邪気に笑う小柄な女生徒への畏怖に染まりきっていた。
ミツキが、ふうと満足げに息をつき、私に向かって両腕を広げた。
「さあ、せんぱい! たあんとお試しあれっ!」
とても愛らしい死刑宣告に、私は引きつった笑みを返すしかできなかった。