夜の学校のラプンチェル
月明かりはか細く、人の影が飲み込まれてしまいそうな静寂が、廊下に佇んでいた。
目的の教室は目の前だった。
無意識に息を整える。今日はどうだろうか。約束はしていない。いてくれたら嬉しいと思うと同時に、悲しいと感じる。矛盾した気持ちに踏ん切りがつかぬまま、教室の後ろの入り口にたどり着いてしまった。
ドアは開いていた。おおっぴらにあけるのではなく、細い人がかろうじてすり抜ける程度に開かれているのが、なんともらしかった。嬉しいと悲しいはやはり半々で、数秒間その場に立ち尽くすも、大きく嘆息して気持ちを押し流した。
身を横にして、するりと隙間を縫うように教室に入る。
静かだった。
夜が端々まで染み渡った教室。昼間の喧騒は見る影もない。迎えるのは物言わず整列した机たちだけで、虫の声すらも聞こえない。世界から切り取られ、取り残されたかのように代わり映えのない風景が眼前一杯に広がっていた。
視界の端、動くものの気配を捉え振り返る。
いた。いてくれた。いてしまった。
「ラプンチェル」
違えることなく、彼女だった。月光のように白い顔。細い白木のような美しい手足。闇にとけ込んだ長い髪が夜風にさらわれ膨らむ。頑なに空を見上げている表情は気高くも、はかなげで、目を放した隙に夜明けの日差しを浴びて花弁を散らしてしまうような危うさを内包している。
切れ長の目が、憂いをためた視線をこちらに向けられる。
「またきたの?」
夜分遅くやってきた無礼者を、鼻であしらうような冷めた言い方だった。
「それはぼくの台詞だと思うけど? ああ、違うか。君に言うなら、いつまでいるの? かな」
揚げ足を取って言ってやると、舌打ちが聞こえた。 それって女子がするものじゃなくない? と思ったが、余計なことは言うまいと戸口を閉じた。
億劫そうに緩慢な動きで、ラプンチェルが振り返る。
ラプンチェルとは、ぼくが勝手にそう呼んでいる名前だった。何度か名前を尋ねてみたが、妙に意固地になって教えてくれなかった。とはいえ、呼び名がないの不便だ。おい、と呼ぶのは偉そうだし、君、などと呼ぶのは他人行儀でよそよそしい。なので、ぼくはラプンチェルと呼ぶようにした。
誰とも会えない夜の学校にひっそりたたずむ姿が、昔読んだグリム童話のラプンチェルに似てるな、と思ったからだ。
「私がここにいるのは私の都合よ。だいたい、私がここにこなくなったからって、あんたにメリットがあるとでも?」
「さあてね。少なくとも安心するかな」
「は、食えない奴」
「ぼくだって、ぼくの都合で来てるんだ。まあ、話し相手がほしいってくらいの単純な理由からだけど」
「話し相手がほしいなら、生物教室か、音楽室にでもいくのね」
「あいにく、物言わぬ人体模型やら、人物画やらに話しかける趣味はないんだけどね。それに、よく出るっていう名所ばかりじゃないか。怖いやら、心細やら、あまり近づきたくないなあ」
「よく言うわ」
「けど、ラプンチェルが出迎えてくれるって言うなら、喜んで行くよ」
軽い冗談で言ったら、ラプンチェルはすっと、視線をそらした。
「女の子一人を心霊スポットに待たせるなんて、いい趣味をお持ちで!」
「あはは。冗談だよ」
ラプンチェルは完全に機嫌を損ねてしまい、体ごと窓のほうに向いてしまう。世の中を見限ったような達観した表情だけが彼女ではない。確かに彼女の一面ではあるが、全部ではない。
どういう事情があって、彼女が寂しげな表情をするのか詳しくは知らない。定時制学科のない高校で、夜に教室にいる時点で日中の学校で問題を抱えてるのは想像に難い。友人関係がうまくいかないのか、授業についていけなくて落ちこぼれているのか、はたはまほかの理由か。
いくらでも可能性は考えられるが、ぼくは深く考えないようにしていた。それらは所詮、憶測でしかなく、彼女が抱えている問題を真に捉えてるはずがないからだ。
だから、今日もぼくは話をする。
「大蔵のやつがさ、授業中に板書もせずノートに落書きばっかしてんだけど、この前ついに担任に見つかってな。こっぴどく怒られたんだ。そしたら大蔵の奴、無駄に反抗心抱いて、数学なんて電卓があれば、必要ないだろって言い返したんだ」
「バカね。教師の注意なんて、テキトウにうなずいておけば、虚偽の成果に満足して引き下がるものよ」
「さらりと毒づくな。教育熱心な人たちが聞いたら落ち込むよ?」
「自分の成功例を唯一絶対の正解と妄信して、薄っぺらな価値観を押し付けてくれう奴らに情状酌量の余地はないわ」
「全員が全員、そうじゃないんじゃないかな」
徹底して人の厚意を卑下にする物言いに、かける言葉も見つからない。ひたすら困って頬をかいていると、ラプンチェルが横目でぼくを見た。続きは、と無愛想な声で言った。
なんだかんだ言って、話の腰を折った自覚はあるみたいだ。初めて会った時よりは前進した……と思っていいのかな。
「ええと、どこまで話したっけ?」
「教師に怒られたところ」
「ああ、そこね。といっても、この話はほとんど終わりだよ。言い返した大蔵は、見事に担任の逆鱗に触れてね。そんなに授業より落書きが大切なら、黒板いっぱいに落書きしてみなさいっ、て、売り言葉に買い言葉。どちらも頭に血が上っててね。大蔵は大蔵で、ぷっちんきて、本当に黒板いっぱいにチョークで絵を描いたんだ」
件の場面を思い出して、思わず笑みがこぼれる。ラプンチェルが不機嫌そうな顔でにらんできた。口を開けば、「そっちから話を振ったのに、一人で勝手に盛り上がらないで」とか、悪態を付きそうだ。
「いやね。大蔵が描いた絵ってのが、思いのほか上手でね。ものの5分で、中庭に咲いた桜と瓜二つの絵を見事に描いたんだ。チョークでだよ? まるで写真のような絵を見て、たきつけた担任も血の気を引いてたよ」
話の落ちが付いたところで、ぼくは堪えきれなくなって大いに笑った。腹を抱えて笑った。笑い声が机や教卓に反射して、にわかに教室内がにぎやかになった。
広がった笑い声が収まってきたころ、ふと、大蔵が今何をやってるか、気になった。相変わらず、絵を描いてるだろうか。それともまじめに働いて、結婚までしてるだろうか。
胸に巣くう一抹の寂しさが伝わってしまったのか、ラプンチェルが声のトーンを落として言った。
「後悔、……しているの?」
容赦ない彼女にしては珍しく、躊躇いがちな声だった。他人の事情に土足で踏み込むようなことをしていいのか。踏み込んだとして、自分にできることはあるのだろうか。そんな不安や、怯えをはらんでいた。
ぼくは、彼女を慰めるように笑いかけた。
「後悔はしてないよ。生きてきた時間の中で、後悔したことなんて一度もない――というと嘘になるけど、後悔するよりも、やってしまったことを反省して、次に失敗しないようにって考える方だったから」
正面から彼女の顔を見た。
「世の中に取り返しの付かないことなんてめったにないよ。間違いに気づいたら何度でもやり直せる。きれいごとに聞こえるけど、元通りじゃなくても、代わりになるものはいくらでも見つかる」
「…………」
「そういう、不思議な巡り会わせを、君にも知ってほしいな」
「…………無理よ」
ぽつりと、本音を吐露する。色白の顔はさらに青ざめていた。夜闇にまぎれて消えてしまいそうな小さな姿が見ていて痛々しかった。物言いたげに見つめてくるが、かすかに震える唇から、ついに思いがつむがれることはなかった。
「ふん。大体、人間関係なんて、気疲れするだけじゃない」
替わりに聞こえてきたのは、いつもの調子を取り戻した彼女の、強がりに似た皮肉だった。
「相手の顔色伺って、空気を壊さないように、はみ出さないように同調して何が楽しいの? どんなに気を張ってても壊れるときはあっさり壊れる。そんなものを無理して維持して、得るものなんてストレスと虚無感だけよ」
「そうでもないさ。気心知れた奴らと一緒にいたら、なんとなく楽しい気分になれる」
「表面上は楽しげでも、楽しさを共有することはできない。心のどこかで、どこがおかしいのか首をひねっているのに、周りが笑ってるから、つられて笑う演技をする滑稽さに反吐が出るわ」
「ううん……。手厳しいね」
今更だけど、彼女は頑固だ。頑なに自分の意見を曲げる気がない。単に折れないだけじゃなくて、こちらがあの手この手で曲げようとすると、曲げた分だけはねっかえりがあるから扱いが難しい。言葉を捜しながら、攻め手を変えてみることにした。
「けど、そう考えてるってことは、楽しさを共通したいって思ってることだよね」
「言葉をあやよ。揚げ足を取って勝ち誇ったような顔しないで」
「この顔は生まれつきだって。それでどうなの? 人付き合いを煩わしい、だけど同じくらい憧れてもいる。違う?」
「まったく、見当違いよ。他人なんて、コンビニの店員や配達の人間だけでいれば十分。私は一人でも生きていける」
彼女は胸を張って視主張したが、ぼくの考えは違った。
「そうかな?」
一人ぼっちでは、この世界は広すぎる。周囲が盛り上がっていたら自然と目を引かれるし、自分の知らないところで変わっていく様は寂しい気分になる。どうしようもうないと分っていても、無力感にさいなまれる。
「それでもぼくは、他人と関わってほしいと思う。こんな夜の学校で一人ぼっちは、やっぱり寂しいから」
彼女が何かを言いかけたが、ぼくはそれをさえぎって続けた。
「世俗から引き離された部屋で、誰にも届かない歌を歌い、届かないと諦めた外の世界を夢見て眺めるのは終わり。王子が来るのなんて待たなくていい。窓を開けて、飛び出してみなければ、見えないものもある」
「要領を得ないわね。何が言いたいの?」
「はは。普通に学校に通って、普通に友達を作って、普通に勉強して、普通に卒業して、普通に日々を過ごしてほしい」
「それが、……あなたの未練?」
彼女は真剣な声でたずねた。
「いいや。純粋なぼくの願望さ。ぼくの身勝手な、ね」
ふうと、息をつく。女の子はずるいな、と思った。お互い、自分の事情をはぐらかし合っているというのに。真剣なまなざしで見つめられたら、おざなりな嘘を答えて傷つけることなんてできないじゃないか。
「未練や留まる理由は、とうの昔に忘れた。本当だよ。怒りや悲しみ、流すはずだった涙はとっくの当に枯れてしまって、ここからいなくなる時を漫然と長らえていただけさ。さっきも言ったよね。ぼくは後悔してない。
後悔する時間すら与えられず、死んでしまったから」
すくめる肩も無く、気持ちを吐露するとラプンチェルは悲しそうに顔をゆがめた。
ぼくは、この世にはいない。交通事故だったみたいだけど、事故したときの記憶すらないから確かではない。気づいたら、幽霊になってこの学校に縛り付けられていた。
昨日まで自分が座っていた机に花が置かれ、浅からず交友を深めていた友人たちが戸惑い、困惑し、咽泣き、ぼくの死を受け止めず気持ちをふさぎこむ様を、ぼくはただ傍観するしかできなかった。当時付き合っていた彼女も、痛々しいほど茫然自失としていたのに、慰めの言葉をかけることも、抱きしめて泣き腫らした目を隠してやることもできなかった。
そして、消えない傷を負ったまま、彼女はここを卒業した。
自分が知る友人たちがいなくなっても、成仏できなかった。毎年、150人近い生徒が卒業し、同じ数が入学していく。何度も何度も、生徒たちを見送り、生徒たちを向かえ、たった一人、年をとることもできずここに取り残された。
本当は未練があったのかもしれない。それが時の流れに磨耗され、肉眼では見えないくらいに小さくなってしまったのかもしれない。
ただ、惰性に生きていた中で、ぼくはラプンチェルと出会えたことに感謝していた。
見守ることしかできなかったぼくの声を聞き、届かないと諦めていた世界につなぎとめてくれた。だからこそ、死んでからできた唯一の友人として、ぼくは彼女の力になりたかった。
外を見れば、空の端が白み始めていた。
夜が終わる。再びやって売る夕方に、ぼくが、彼女が、現れる保証はない。うたかたのようにもろい関係だからこそ、ぼくは、唯一彼女の心にふれらる言葉を届ける。
「さっきのことだけどさ、人と付き合うのなんて簡単だよ」
「どういうこと?」
「素直な気持ちをぶつければいい。我慢とか、無理して同調する必要なんてない。つまらないときはつまらないと言えばいいし、自分で面白くしちゃってもいい。疲れてしまったなら休んでしまえばいいよ。そして、楽しい時や、心のそこから笑いたい時には笑うんだ。作った笑顔じゃなくて、無様でも、不細工でもいいから、素直な気持ちを表して笑うんだ」
そうすれば、相手もきっと答えてくれる。そう言おうとしてやめてしまったぼくは、意地悪なのかもしれない。
ラプンチェルは、はっとなって顔を上げた。後ろを振り替えり、青の色が鮮明になりつつある空と、ぼくの表情を見比べて、何かしらを察したように愕然となった。
「もう、いくの?」
「そうだねぇ。上るのか、落ちるのかは分らないけど、いい加減出頭しないと延長料金が膨大になってそうだし」
それが彼女の尊大な勘違いと感づきながら、ぼくはあえて話の流れに乗った。
「いい加減、ぼくも成仏するべきだ。もとより未練なんてなかったわけだし」
もしかしたら、子供の自立を促す親ってこんな気持ちなのかもしれない。せっかく手にしたぬくもりが離れてしまうのは寂しいが、悪い気分ではない。清々しくすらある。
「あとは、どこかの泣き虫さんが巣立ってくれれば、心置きなく逝ける」
俯いて、混濁したさまざまな感情に堪えていた彼女は、おもむろに顔を上げた。
決意をこめた表情。けれど、少しだけ弱気が見え隠れしている。
「できるかしら」
「さあてね。そればっかりは、ぼくにもわからない」
「無責任ね。もし、うまく順応できなかったときは、」
「おいおい。勘弁してくれよ。そんな後味悪いこといわれたら、それこそ未練たらしくこの世に縛り付けられちゃうだろ?」
不安のあまり退路を用意しようとする彼女を叱咤した。意地の悪い言い方だな。妙なところで見栄っ張りな彼女なら、そういわれておめおめと泣きつくことはできない。結構、悪霊の才能あるかもしれない。決してほめられたことじゃないけどさ。
目を真っ赤にして、今にもこぼれそうになる涙を乱暴に指でぬぐうと、挑戦的な目でぼくをにらんだ。
「当たり前じゃない! あんたなんかいなくても、面白おかしく生きてやるわよ!」
「そのいきだ」
窓の外を見る。雲ひとつない晴天だった。まるで彼女の門出を祝うかのようで、心から安堵した笑みになる。彼女も朝焼けの光ににじむような、優しい笑みを覚えた。
最後の最後で見せた、本物の笑みに、強烈な既視感を覚えた。 ふと、思い立ち、今なら教えてくれるかと思って彼女に聞いてみた。
「へ、名前……? あー、そういえば教えてなかったっけ」
意地を張っていた自分が恥ずかしかったのか、頬を主にして、そっぽを向きながら答えてくれた。
「高岳千代よ」
「千代ちゃんか。ねえ千代ちゃん、もうひとつ聞いてもいいかな。おかしなことを聞いてるかもだけど、君のお母さんの名前は?」
「いきなり呼び捨て? ま、まあいいけど。よれよりどうしてママのこと聞くの?」
「いいから答えてくれ!」
疑念は晴れないが、これまで見せたことない剣幕に飲まれ、おずおずと千代は母親のことを教えてくれた。
「ママの名前は高岡きよら。もともとこの高校の卒業生で、ええと、……確か、出生番号がいつも一番だったとか自慢げに」
「もしかして、旧姓は相坂?」
「あ、うん。そう、相坂きよら――て、何であんたが知ってるの!」
千代がびっくりして身を乗り出し、いろいろと叫んでいたが、残念ながら声はもう聞こえなかった。
相坂きよら。ぼくが好きだった子。ぼくが突然死んでしまったために、一生消えない傷を負わせてしまった。すべて思い出した。ぼくが死んでなお現世に残っていた理由。学校に縛り付けられるだけの未練。
それは、大好きだった彼女が、ぼくのことなんて、とっとと忘れて幸せになってくれることだった。
そうか。そうだったんだ。相坂は、いやきよらはとっくの昔に悲しみを乗り越えていた。代わりの幸せを見つけていた。ぼくの死を忘れているのか、捨てきれない深い悲しみと折り合いをつけて生きているのか知るよしもないけど、前を向いて歩いてくれていたことが、どうしようもなく嬉しく、言い尽くせないほど愛おしい。
あふれ出す感情のあまり、ああ、と熱っぽい息が漏れた。感情がこみ上げてくる感覚はいつ振りだろうか。ひどく懐かしく、空っぽのはずの心臓が苦しかった。
ああ、なんて世間は狭いのだろう。
けれど、これで本当に未練は無くなってしまった。いつまでも過去にしがみ付く理由も、意義もない。幸せを見つけたきよらの笑顔を一目見たいとか、千代がこれからどう他人と付き合っていくかを見守っていきたいとか、新しく生まれた欲もぼくの身勝手な願望でしかない。
「ねえ、聞いてるの! ねえったらっ。聞こえてるでしょ? 返事をしてよ! 突然消えるなんて卑怯よっ。まだ、……まだ何も言えて、ない……。お別れも、……お礼も、……気持ちだって。ねえ、……答えてよ……そこにいるんでしょ」
涙ぐんだ千代の声が教室に響く。改まって聞いてみると、確かにきよらの声に似ていた。親子だから当たり前か。
冷静に観察してる場合ではなかった。千代は木目の床にへたり込み、力なく肩を落としてしまった。泣きむせる気力も失せ、目から絶え間なく涙が頬を伝って落ちる。
このまま悲しみにくれる千代を見過ごしては、死んでも死に切れない。過去の過ちをやり直すことはできないけれど、失敗を反省して次につなげることはできる。
遠のく意識のかけらを気合で引き寄せて、千代を後ろから抱きしめた。
「お礼を言うのは、ぼくの方だ。千代、生まれてきてくれてありがとう。きよらに、君のお母さんに幸せを運んでくれてありがとう」
声は届かないだろう。だけど、あふれる気持ちを、ありのままの心を、ぼくは言葉に乗せた。
「そして、ぼくを見つけてくれてありがとう」
千代がぎこちなく振り返る。ぼくの死を受け入れきれず、感情をふさぎこんだきよらの顔がよみがえる。決して繰り返してはいけない。何も告げず、消え去ることだけは決して許されない。
「ばか、……意味がわからないわよ」
光を消した暗い目に、わずかに強がりが戻ってきた。
今度こそ、きちんとお別れを言った。
「さよなら、千代。いろいろ話せて本当に嬉しかった」
どうにかつなぎとめていた意識が溶けていく。体の輪郭があいまいになり、端から光の粒になって消えていく、なんて演出があればよかったな、とのんきに思った。
「さっさと逝け、ばか」
最後まで強がって毒を吐く千代の強情さに苦笑する。それが最後だった。意識がふわっと浮かび上がり、魂をつなぎとめていた中身のない体は一瞬のうちに昇華した。
この先、千代に幸あらんこと。
先ほどまで感じていた温もりが消えた。
背中から包まれるような感覚に振り返ってみたが、やっぱりあいつの姿はなかった。
結局あいつの口から、別れを聞くことはできなかった。私が、心から感謝していたことも、あいつのことを友人としてではなく、一人の男として好きになりかけていたことも、告白する機会は永遠に失われてしまったことだけは確かだった。
けれど、不思議と気持ちは軽やかだった。
たぶん、先ほどの錯覚のせいだ。あいつが後ろから抱きしめてきて、妙に優しく語りかけてきたような気がした。だから、とっさに強がってひどいことを言った気がする。
ほんと、最後の最後まで意地悪な奴だった。
「あんた以上にいい出会いなんて、あるわけないじゃない……、ばか」
朝日が差し込む教室で、私は天井に向かってひとりごちた。
枯れることなく流れ続ける涙をブラウスの袖でぬぐうと立ち上がった。あいつとの約束だ。あいつが、あっちで死んだことを悔やむくらい幸せに生きてやる。
だから、まずは泣きはらしてぐちゃぐたになった顔をどうにかしよう。
トイレに行って、顔を洗い、私は前に歩き出す。