夢の中で会いましょう
激しい吹雪が吹き荒れる。
視界はままならず、刻一刻と体温とともに体力が奪われていく。解けた雪が登山靴にもしみこみ、足は棒切れのように硬く感じられた。自分は斜面を登っているのか、降りているかも判然とせず、ただひたすらに前に進むため、足に力をこめた。
初めて山登りをしたのは、小学校の遠足を除けば、大学の研究室に入ったころだ。研究室の教授が無二の山好きで、好きが講じて山登りも趣味な人だった。そのおかげで、毎年、親睦会と称して近くの山に登り、頂上でバーベキューをするのが慣例だったのだ。もちろんバーベーキューセット一式は、私たち4年生が運ぶ係だった。自分の身一つでも険しい山道を、研究室のメンバー分だけ余計な荷物を背負って登ったものだから、せっかくのバーベーキューも肉がのどを通らず、雲ひとつ無いすがすがしい景色も、モノトーンの写真のように感じられるほどだった。
あの時は、もう山登りなんてするか、と硬く心に誓ったものだ。だというのに、こうして山を登っているのは、衝動を抑えきれなくなるというか、有害な煙を吸うばかりで、ストレス解消どころか脳の活動を鈍化させると自覚していてもタバコをやめられないのと同じで、まあ、つまり一種の病気なのだと思う。
山頂に上っても、達成感の前に疲労感でへたり込んでしまうし、景色を楽しむ余裕どころか、元来た道を降りていくことを想像して辟易としてしまう。翌日は決まって筋肉痛で、ひどいときにはベッドから立ち上がる気力さえ起きない。
あまつさえ、この悪天候。ほんと、山登りなんてするもんじゃない!!
しかし、今は弱気を吐くより先に前に進むべきだ。視界が雪で埋め尽くされているため、麓に向かっているか怪しいものだが、何もせず雪に埋もれて死んでいくのを待つつもりは毛頭無かった。
自分の体に鞭をうち進むうち、多くで黒い点のようなもの影が見えた。近づくほどに点は大きくなり、瞬く間に私の身長を超えて広がった。
山小屋だ。助かった、と思わず気持ちが緩む。とたんに分厚く積もった雪に足をとられ前のめりにこけた。ずぼ、と雪に埋まり、触れた頬がナイフで裂かれたように痛んだ。冷え切った体は鉛の塊になったかのように深く、深く雪に沈んだ。意識が遠のき、大学時代、教授に付き合って山登りに明け暮れた日々が、ふとよみがえった。これが走馬灯ってやつなのかもしれなかった。
あと少し、山小屋までたどり着けば暖をとり、吹雪をやり過ごせず。それに山小屋であれば、数日分の食料は貯蔵されているはずだ。
私は、最後の力を振り絞り、どうにか状態を起こすと、再び山小屋に向けて歩き出す。
何度も前に倒れそうになったが、あと少し、あと少し、と呪文のように唱えながら、山小屋と思しき建物にたどり着いた。
目の前に立って始めて、山小屋ではなく、一軒家であることに気づいた。こんなところに住んで不便ではないだろうか、と疑問がついて出たが、現に一軒家からは明かりが漏れている。人が住んでいるのは間違いない。
ともかくも、事情を話せば、一晩くらいとめてもらえるだろうという期待のほうが大きく、迷わず玄関の戸をたたいた。
数秒待ってみたが反応は無い。
風の音だと思われたのかもしれない。もう一度、先ほどより少し強く戸をたたく。
「はーい。少々お待ちいください」
反応があった。穏やかで優しそうな女性の声だ。
玄関の向こうから人影が小走りにやってくる。
程なく、戸を開いて顔を出したのは、やはり女性だった。
私は、思わず目を見張った。生まれたからいままで太陽の日を浴びてこなかったかのような、白く透き通った肌。腰まですとんとまっすぐ落ちた艶やかな黒い髪。柳のように手折れそうな細い体型に、藤をあしらった着物がとてもにあっていた。
「まあ、ひどい顔。真っ青ではありませんか!! 外は吹雪でさぞ、お寒かったでしょう。手足もかように振るえなさって!」
女性は、ひどく驚いた顔で、袂から手拭を取り出すとすっと私に手を伸ばした。そのまま、髪や頬についた雪を払う。手拭も着物と同じく、藤の花が咲いていた。
目に留まる雪を払うと、女性は腕を引いて家に上がるよう促した。何かいわなければ、と思い、けれど青ざめた唇はがたがたと震えるばかりで言葉を作ることができず、素直にしたがって今にお邪魔した。
居間の中央に庵があり、天井付近からつるされた棒に鉄なべがかけられていた。中身はお湯のようで、ぐつぐつと勢いよく湯気を上げて沸き立っていた。
イ草を編んで作られたサブトンを薦めると、女性は「なにか、暖かいものをご用意いたしますので、それまでごくつろぎください」とおくに引っ込んでしまった。
女性が持ってきてくれのは雑煮だった。蒸した粟に、野沢菜や菜の花を入れて煮込んだもので、粟の粒つぶした触感や菜の花の渋みは慣れなかったが、数時間ぶりにありつけた食事にあっという間になべの中身を平らげてしまった。
少し間をおいて、食後のお茶を誘われ、飲みつつ改めて女性に事情を話した。山を8合目まで登ったところで天候が悪化し、吹雪の中、どうにかここまで降りてきたと話すと、女性は「それは災難でしたね」と目端を下げ、憂いの満ちた目で見つめてきた。
「けれど、助かりました。家にあげていただいたうえに、雑炊もご馳走様でした!」
「お粗末さまです。こちらこそ、あまり大層なものをご用意できなくて申し訳ありません」
「と、とんでもないです。とてもおいしかったです!」
「お口にあったのなら、こちらも安心いたしました」
女性は小さく笑い、「食材の買出し以外、麓に下りないので、周りの方がどのようなものを食べてるのかもよく知らないのです」と恥ずかしそうに、湯飲みで口元を隠しながら付け加えた。
「もし差し支えなければ、麓……いえ、外の世界のことをお聞かせいただけませんか」
「そんなことでいいなら」
一宿一飯の恩には到底及ばないが、外の世界の話が聞きたいという彼女の要望に答え、大学の卒業旅行でいった外国の話をした。
砂漠地帯では昼間は灼熱地獄なのに、夕方になると急転直下に寒くなることとか。石油の産出国は石油王と呼ばれる一部の人が富を独占していて、そうした富豪層のためにやたらめったら豪華なホテルがあることとか。昔、隣の国からの侵略を防ぐため築いた城壁のこととか。高校の地理で習うような浅い知識だったが、女性にはどの話も新鮮に移ったらしく、かわいらしく目を丸めて驚いたり、きらきらと眼を輝かせりしながら聞いてくれて、この時ばかりは親や高校の友人などあちこちに借金しまくって世界一周してよかったと心の奥底から思った。
女性は少し――いや、かなり世間に疎かった。石油の話をした際など、そんな便利な燃料があるなら、庵の炭も石油に変えたら楽になる、と言い出したほどだ。もちろん、必死に石油は扱いが難しくて危ないことを説明して説得した。
そんな感じで、女性はどこかずれた観点で私の話を聞いていた。買出し以外で麓に下りない生活は伊達ではない。
「ふわ……少し、話が長くなってしまいましたね」
「ふふ、大きなあくびですね。夜も更けてまいりましたし、今晩がこのあたりでお休みになられたらいかがでしょう」
「何から何までありがとうございます」
「いえ、こんな吹雪の日にあったのも何かの縁。それに久方ぶりに愉快なお話をたくさん伺えましたし、私のほうも嬉しいですよ。お布団をご用意いたしますので、もう一杯お茶はいかがですか」
「ありがたくいただきます」
寝室に入る女性を見送り、新しく入れてもらったお茶をちびちびと飲む。
「ふわ……」
また、大きくあくびが漏れた。蓄積された疲労がどっと出てきた。忘れていた寒気が全身を包み、体が重くなり、指先がぴりぴりと帯電してるかのようにしびれた。いや、その感覚も遠くなる。自分の手足を引っこ抜いてマネキンの手足に付け替えた見たいに何も感じなくなっていた。
――夫ですか。
意識の端っこで、誰かの呼ぶ声が聞こえた。ゆさゆさと、体を揺さぶられる。
――こえますか! 返事を――! 生存者を発――! くり――、生存――見!! すぐに――!
ついに、意識が途切れた。
目を覚ましたのは、病院のベッドだった。
見舞いに来た友人によると、私が山登りをしたあの日、8合目付近で雪崩に飲み込まれ行方不明。必死の捜索活動のすえ、発見されたときには半ば雪に埋もれた状態で、意識は無く、四肢は凍傷がひどく、生存は絶望的だと思われていた。
「俺も、さすがに死んでると思ってたわ」
と友人は、無遠慮に笑った。空気を読め、ここ病院だぞ。
確かに、俺がこうして快復に向かっているのは驚異的だと担当医も驚いていた。突発的に雪崩に飲み込まれたため、ショック状態に陥って冬眠状態になっていたため、体表面の東証がひどくとも脳やその他内臓にダメージが少なかったのだとか。まるで現実間が無くて、交付気味に説明していた医者の話などろくに覚えていなかった。
ともかくも、俺は助かったということだ。凍傷が特にひどかった右足と、左腕はまだほとんど動かないが、リハビリを続けていけば、日常生活に支障が無いレベルには復帰できるだろうと太鼓判まで押された。
「いったいなんだったんだろうな」
「んん? お前が見てた夢のことか?」
「だってよ……」
私が吹雪の中、一軒家にいったことは夢ということで結論が出された。一部始終は警察に報告したが、医者の診断を信じれば私の体は早々に冬眠状態に陥っていたため、体を動かせるはずが無い。冬眠状態でも夢を見るのか、と疑問になるが、それでも手足が勝手に動いて歩き出すよりは信憑性があるというわけだ。
ちなみに、夢で見たという家だが、念のため警察が調べてくれたらしいのだが、そんな家はどこにもなかったという。
まったくわけがわからず、私は視線を友人から横にずらした。
ベッド脇の棚の上。過敏に一本だけ、藤の花が添えられていた。
しきりに笑い飛ばしていた友人が私の視線に気づき、同じく藤の花を見た。
「けど、不思議だよなぁ。あの花。お前が発見されたとき、胸の上にそっと置かれるようにしてあったんだってよ。地元に住んでるじいさん、ばあさんは、この花がお前を救ってくれたんだっ、なんて言ってたんだってよ」
そこまで言って、依然話した夢の内容を思い出したのか、友人仁万に間と笑いながら視線を私に戻した。
「意外と、天使さんから贈り物だったりしてなあ」
そんなわけあるか、と私はあきれたふりして寝返りを打った。
それにしても……
不思議なことに、私にはあの夢の出来事が、夢だとは思えなかった。
もし仮に、あの時であった女性が私を救ってくれたなら、また話をしにいきたいと思った。私の話を聞いて、子供のように表情を輝かせる女性を見てみたかった。
今度は、どこの世界の話をしようか。そんなせん無きことを考えつつ、目を閉じた。
そのために、今はリハビリに励もう。