第2章 出会い
翌日
ヴーーヴーー
スマートフォンのバイブレーションが耳障りな音を鳴らす。布団の中で俺は目を覚まし、ゆっくりとした動作で枕元をまさぐった。
硬くて冷たい感触を確認すると、記憶を頼りにボタンを押してアラームを止める。
「……んん…」
カーテンの隙間から暑い朝日が斜めに差し込んでくるのを肌で感じながら、それを避けるように身をよじる。今日は土曜日。大学は休講で今日はバイト以外に大した予定もない。久しぶりにゆっくりできそうだ。と寝不足でガンガンする頭で考えてから、俺は布団に身を委ね、再び休眠体制に入る。その時だった。
ヴーーヴーー
「……んだよ…?」
若干イラっとしながら、再びスマホを取る。虚ろな目で画面を見ると、ぼやけた「店長」の二文字が確認できた。
「‥‥‥‥‥‥」
数秒ほど固まったが、俺は躊躇わずにスマホを置いた。せっかくの休日だ、少しぐらい休ませろ。と心の中で店長に言ったあと、再び布団に入る。
ヴーーヴーー
「‥‥‥‥‥‥」
俺はのそのそと起き上がった。観念したわけではないが、文句の一つでも言ってやろうと思ったので、俺は通話ボタンを押した。
「なんですか…?まだ時間じゃない…」
『どうして1回で出なかったの?』
「うっ……」
返す言葉がない、とはこのことだ。いきなり正論をぶつけられて、俺はたじろぐ。
何か言い訳しないと…と一瞬焦った時だった。
『まぁいいわ。今日は来なくていいから』
「えっ…?」
いきなりのニュースに、俺は生返事を返す。
「来なくていい、って……」
『じゃ、そういうことだから』
そう言って、彼女との通話はあっさりと切れた。ちなみにこの間、20秒も経っていない。
「何なんだよ…?」
寝起きで回らない頭で考えてみたが、どうにも納得できない。また布団に戻ろうかと考えたが、モヤモヤした状態で安眠を望めるはずもない。仕方ないので、冷蔵庫から牛乳の入った紙パックを取り出し、一気に煽った。
そして、手帳の予定にあった「バイト」の3文字をボールペンでグリグリと修正する。
「一気に暇になったなぁ…」
あくびを噛み殺して、一人つぶやく。考えても仕方ないので、外を適当にぶらつくことにした。
顔を洗い、Tシャツに短パンというラフな服装で俺は部屋を出る。
じりじりと照りつける太陽と高温のアスファルトによる照り返しで、外はうだるような暑さだ。風は吹いているものの、空気自体が暑いためか涼しさは微塵も感じられない。部屋も若干暑かったが、日差しが遮られていただけでもマシだった。俺は部屋の中との温度差にいささかうんざりする。
とりあえず階段を降りながら、目的地を考えた。
真っ先に浮かんだのが映画館だが、友人からの情報によると面白そうな映画はやっていないらしい。購読している週刊誌の発売日はまだ先だし、ここからコンビニまではだいぶ離れている。灼熱地獄の苦しみとコンビニを天秤にかけたところで、天秤は微動だにしなかった。
残るはここから近場にある大学附属図書館ぐらいだ。学生証を提示すれば資料室にも入れるし、クーラーも効いている。自販機の飲み物もほかと比べて安い。近くのカフェで軽食も取れるので、暇つぶしには最適だ。
「図書館にでも行くかな…」
目的地が決まったのは、ちょうど駐輪場についた時だった。そういえば、一般教養の講義の課題レポートがあったはずだ。その資料探しも兼ねて、俺は自転車にまたがり、図書館に向かってペダルを漕ぎ出す。
部屋を出てから5分、俺は絶望していた。
頭上には容赦なく照りつける太陽。足元には灼熱のアスファルト。こんな暑苦しいサンドイッチは頼まれたって御免だが、俺が絶望していたのはそのことではない。原因は目の前の看板にあった。
『道路工事中につき通行禁止』
看板の奥では、緑色の小型重機がアスファルトを掘り返している。汗だくの作業員が、その近くで穴の深さを計測したり、小さなロードローラーで地面を均しているのが垣間見える。
どうやら、いつも大学に向かう道が工事中で通れないようだ。幸い迂回路はあるし、大学に行けないことはないのだが、いかんせん遠回りで時間がかかるのが難点だった。
すぐに到着すると思っていただけに、この予想外の事態は辛い。かといって、今頃は日差しで暑くなっているであろう部屋に戻るのもなんだか自分に負けた気がしたので、結局迂回路を通ることにした。
それからさらに5分後、俺は道路沿いの神社にいた。
狭い敷地の中で、御神木と思しき大木に寄りかかり、木陰に入って休んでいる。
「あぢぃーー…」
空を見上げながら、やけにオッサンじみた声で愚痴った。
視線を下げると、二匹の狛犬がこちらを見ている。もちろん、石像の方の狛犬ではなく、守り神としての狛犬である。
古くから神社を守ってきた二匹は、御神木に寄りかかる無粋な大学生を時折じろりと睨みながら、日差しを避けるように神社の階段の影で丸くなっていた。
俺が自分たちを認識していると知ってか知らずか、「おい、人間。神木に気安く寄りかかるでない」と話しかけてくる。答えるとロクなことにならないので、こういう時は知らんぷりをするのが一番いいと俺は知っていた。
やがて、狛犬がすぅっと掻き消える。石像に戻っていったのだ。
同じタイミングで俺は立ち上がり、神社をあとにする。帰り際に「お邪魔しました」と小声で狛犬(の石像)にそっと囁いておいた。
図書館にはそこそこの人がいた。
テーブルに座って何やら話し込んでいる学生達や、パソコンで何やら調べ物をする学生。本棚からたくさんの蔵書を運んでいる教授の姿もある。
受付で学生証を提示し資料室の入室許可をとって、俺は二階の書庫に向かう。
二階には自習スペースと社会・自然系列の書庫があり、目的の書庫は二階の奥の方にあった。
「さて、と…」
きちんと整理されている本の数々。尋常じゃない量を目の前にして、気分が少し萎えた。
それでも、当初の目的を変えるのは真っ平だ。とりあえず、レポート作成に役立ちそうな本を探す。
「…多い」
幸い、必要な書籍は見つかった。それも大量に。
「選別すっか…」
入手した部数は8冊。最低でも3冊ぐらいに減らす必要がある。
8冊をざっと見てから、候補外の1冊を取り上げて本棚に戻そうとした時だった。
突然視界がぶれる。足元の何かにつまずいたと気づいた時には、俺は本もろとも前のめりに転倒してしまった。
ドサッ!バサバサ!
「いっ…てぇ…」
大した怪我を負ったわけではないが、地味に膝を強打してしまう。
振り返ってみると、大量の本とダンボールが床に転がっている。どうやらこれにつまづいたようだ。
「こんなところに置くなよな…」
どっこいしょと立ち上がり、散らかった本を手に取った時だった。
『死後の世界』
本のタイトルにそう書いてある。
普通なら「気味の悪い本」と思ってしまうような、オカルトマニアなら持っていそうな本であるが、俺は全く違うことを想像していた。
「死後の世界って……」
昨日の出来事が鮮明に蘇ってくる。QRコード。店長。幽霊喫茶…
確か店長が「お客様はみんな幽霊」と言っていた。
もしそれが本当なら…
あそこが死後の世界だとしたら…
「君、大丈夫?」
後ろからの澄んだ声に、俺は唐突に現実に引き戻された。
振り返ると、一人の女性が心配そうな目でこちらを見ている。
後ろでまとめた長い茶髪に落ち着いた光を宿した瞳。服装は水色のカーディガンの下に白いシャツ、薄茶色のショートパンツという格好をしている。顔つきは世間一般でいう「べっぴんさん」といったところだろう。
「あ、すいません…」
「気をつけてね、ここら辺足元見えづらいから」
そう言って、彼女は俺がぶちまけてしまった本を片付け始める。少し遅れて、俺もダンボールにせっせと本を戻した。
しかし、その手はすぐに止まってしまう。
『冥界』
『日本語でいうあの世とは』
こんな類の本が、それこそ数十冊とあるわけである。普通の人間なら見向きもしないような、あるいは気味悪がって目線を逸らしてしまうような書籍の数々である。しかし、俺は違った。そういった物との接触は(不本意ながら)昨日果たしてしまったわけで、むしろ若干の興味が湧いてくるほどだ。
「大丈夫?」
どこか痛むと思ったのか、女性が再び声をかけてきた。
「は、はい!だいじょぶです!」
考え事をしていたためか、反応が一瞬遅れた。そのせいで盛大に噛んでしまう。
「ふふっ、そう」
彼女が小さく笑った。魅力的な笑顔だった。
「…気になるんでしょ?」
「えっ?」
「この本。さっき、まじまじと見つめていたから」
『明快!冥界の説明書』とナンセンスなネーミングの本を手に取り、彼女はまた笑った。
「あっ…いや、その…」
まさか本当のことを言うわけにもいかない。「昨日、あの世にある喫茶店でバイトしてきたんですよー」なんて言ったら、ただの変人に思われてしまう。
なので俺は「ちょっと変わってるなって思っただけで・・・」と誤魔化しておいた。
「ふぅん…」
うまくいったか?
「じゃあ、興味があるってことでいいのかな?」
あぁ、これは長期戦になるな、と俺は覚悟した。
「あの…」
「あ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね」
そういって、彼女はポケットから名刺を取り出す。
行川 麗美
総合心霊学研究所 役員
名刺にはそう書かれていた。
「心霊学…」
「簡単にいうと、幽霊を研究する…機関?委員会?みたいなところね」
「そんなのあるんですか…」
妙に感心しつつ、心の奥がギクッとなる。
「それで、君は?」
「あっ、1年の千秋寺智也といいます。学部は総合科学です」
「センシュウジ…変わった名前ね」
「千の秋に寺、で千秋寺です」
「ふぅん…めんどくさいから千秋君でいいかな」
「は、はは…」
俺は乾いた笑い声を漏らす。木元ならいざ知らず、初対面の人間にいきなりそう呼ばれた時の対処法を知っているはずがない。とりあえず笑っておいたが、心の底にはモヤッとしたものが溜まっていた。
「んー…ちょっと馴れ馴れしいかな?」
「…千秋でいいです」
ここで訂正しても、この人には意味がない気がする。なぜかそう確信したので、俺は彼女に説明することを止めた。
「そっか。資料さがしの邪魔しちゃったかな?」
「いえ、目的のものは見つかったので…」
「そう、邪魔しちゃ悪いからそろそろ帰るわね」
そう言って、行川さんは踵を返して書庫を後にした。
「………」
本を抱えたまま、俺はなんとも言えない気分を味わっていた。
美人に話しかけられたのだから、悪い気分ではない。しかし、彼女の所属している団体がちょうど俺の(嫌な)経験とダブるような物だったので、奇妙な偶然を感じてしまう。
その後、俺は資料室から出て、夕方まで自習スペースでレポート作成に勤しむのであった。
時刻は8時頃。辺りはすっかり暗くなり、大体の人は帰路につく頃合である。
図書館を出た俺は、道に迷っていた。
来るときは迂回路を通って来たのだが、今まで通ったことのない道を夜中に帰るというのは、相当記憶力がないと難しい。
このあたりは住宅街で道が入り組んでいて、同じ場所に戻ったり、行き止まりになっていたりする。
「ここ…どこだよ…」
ため息を漏らしながら、俺はガクッとうなだれた。
このままでは部屋に戻れない。人に道を尋ねようにも、住宅街をこんな時間に出歩く人はまずいない。
あぁ、俺はこのまま朝を迎えるしかないのか…。と諦めた時だった。
視線の先に道をぼんやりと照らす薄暗い電灯。その下に誰かがいる。
背格好からして中学生ぐらいの年頃の少女だ。髪型は薄茶色のショートボブ、服装はセーラー服といった具合だが、この暑い時期になせか長袖を着ている。
少女はというと、電灯が照らすアスファルトの上でじっと立っている。まるで誰かを待っているかのように。
まぁいい。不審者と間違えられるかもしれないが、あの子に道を尋ねてみよう。と俺は少女に近づいた。
「すみません、道を尋ねたいんですが…」
電灯から15mほどの距離まで近づいてから、なるべく警戒心を刺激しないように口を開いた。
しかし、少女は俺をまじまじと見つめている。俺の存在に驚いている、といったような反応ではない。話しかけられたことに対して「信じられない」といったような印象を感じた。
「あの…もしもし?」
あんまり少女が驚いているので、俺がもう一度訪ねた時だった。
「私が……私が見えるんですか?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
「見えるって…?」
そう答えて、ふと視線を下に下げた時だった。
月明かりは無いに等しく、照明は今にも消えそうな電灯のみ。それでも、俺の影をぼんやりとアスファルトに落とすだけの光量はある。
無論、電灯に近づけば影も濃くなるわけだ。俺よりも電灯に近い少女はなおさらだ。
しかし、彼女の足元に黒い影は見当たらない。電灯からどんな方向に立っても、影は必ずできるというのに。
そして、俺は気づいた。
彼女の体が、消えそうな電灯のように、ぼんやりと霞んでいることに。
「ひょっとして……幽霊?」
俺はおずおずと彼女に言う。
すると、少女はしばらく悩んだあと、年相応の仕草でこくんと頷いた。
「…マジかよ」
幽霊に出会っても話しかけないようにするのが俺の流儀である。理由は簡単、後が面倒くさいからだ。
一度話しかけると、幽霊は自分を認識できる人間を記憶してしまう。もしそうなってしまったならば、いつでも、どこでも、俺が何をしていようと関係なく、話しかけてくるのだ。
「なあなあ兄ちゃん、聞いてくれよ〜」と、幽霊の未練話を延々と聞かされては、流石に気分が滅入ってくる。
それでも一人の時はまだいい。それなりに話を聞いてやることができるし、何もない空間に向かって耳を傾けている俺の姿を誰かに見られる心配もないからだ。
話しかけてしまったことを俺が後悔していると、少女はさらに言葉を繋げてくる。
「やっと…会えました…」
心の底からほっとした表情をしていた。どうやら、自分を認識できる人間を待っていたようだ。
「…ここで死んだのか?」
もはや無視するわけにもいくまい。俺は腹をくくって少女に話しかけた。
「えっ?」
「俺みたいな奴を探してたんなら、こんなところでじっとしてるわけないからな。ここから動けない、って考えたほうが妥当だし」
「…2年前に、交通事故で」
少女が自嘲気味にそう言った時、俺は彼女の左腕(正確には、肩と肘の間から指先)が掻き消えていることに気づいた。
「その腕は…?」
「事故の時に、トラックに巻き込まれて…」
「そうか…」
「…………」
「ところでさ、道を教えて欲しいんだけど…」
「道?」
「迷っちゃって…国道に出たいんだ」
それなら…と、少女は国道への通り道を教えてくれた。
「そういえば、まだ名前聞いてなかったね」
「…九条。九条奈々(クジョウナナ)っていいます」
「俺は千秋寺智也。道教えてくれてありがとう。じゃあね」
「あの……話を聞いて欲しいんですが…」
まずい。このパターンは面倒くさくなるタイプだ。
どうするか…と打開策を考える俺に、ひとつのアイデアが浮かんだ。
「ねぇ、幽霊喫茶って知ってる?」
「幽霊喫茶って…あの世にある?」
九条さんは少し考えて、思い出したように答えた。どうやらあの店は、それなりの知名度
があるらしい。
「俺、そこでバイトしてるからさ、よかったら寄りなよ」
「じゃあ…話はそこで?」
「うん。今日はもう帰りたいし、明日バイトの予定入ってるから」
これは嘘だ。明日は店長から休みをもらっていて、バイトの予定は入ってない。それでも、ちょっと話を聞くだけなら大丈夫だろう。最悪、無理やり予定を入れてもらうこともありえる。
「分かりました…じゃあ」
そういって、九条さんはすぅっと消えた。
一人になった俺はため息を吐いて、彼女に教えてもらった道を自転車で走り出す。
今夜は熱帯夜ではなく、空気はいつもよりひんやりとしている。体を撫でる風が心地いい。月のいない夜空はひたすら暗く澱んで、この世界の上を覆っていた。
『明日に入れるようにシフトを組み直して欲しい…ね』
自分の部屋に戻ってシャワーで汗を流した後、俺は店長にそう電話で告げた。
「今日の分の埋め合わせとして、明日にいれて欲しいんです」
『ふぅん……随分とやる気ね』
電話の向こうから、あの蓄音機の音楽が流れてくる。どうやらまだ店を開けているようだ。
「…まぁ、止むに止まれぬ事情がありまして」
乾かしていない髪の毛を拭きながら俺は答えた。まさか「女の子が店に来るから予定を入れろ」なんて言えたもんじゃない。
『その事情を聞きたいところだけれど、あなたには明日来てもらおうと思っていたからちょうどいいわ』
「へぇ…っていうか、なんで今日はいきなり休みになったんです?」
素朴な疑問を口にした。実は、そのことが朝方から心に引っかかっていたのだ。
『…………』
「…?店長?」
『…あなたと一緒よ。止むに止まれぬ事情があるの』
「…事情」
無意識にオウム返しに呟く。
『もう切っていいかしら?そろそろ店を閉めたいから』
「あ、はい。お疲れ様です」
そう言ってから通話を切り、俺はベッドにボフッと体を預ける。髪が濡れたままだったことに気づき、慌ててドライヤーを手にとった。
店長の事情とはなんなのだろう?詮索したところで答えは出てこないが、喉の奥に小骨が刺さったような違和感を感じてしまう。
結局、その日は頭の中に灰色の重たい何かがどっぷりと溜まっているような、モヤモヤとした気分で眠った。