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第1章 奇妙な喫茶店

前書きというほどのものはありませんが、文章に拙い部分があるということをあらかじめご了承ください(汗)

幽霊喫茶  ghost café


始まりはごくごく普通だった。

大学の学生支援課でアルバイトの募集があった。内容は以下の通り。

『喫茶店のアルバイト大募集!時給900円から!』

同じ学科の奴らも「バイトやってる」って言ってたから、なんとなく目を通した求人情報にそんな広告があった。時給900円に釣られて、俺はその喫茶店に向かうことにした。紹介されていた求人情報の中で一番時給が高かったからだ。


――今思えば、このあたりで不審に思っても良かったのかもしれない。


喫茶店の場所が分からなかったので、スマートフォンで探してみた。

しかし、結果は『該当なし』

というより、喫茶店の住所がおかしかった。

後で調べたら、広告にあった住所は存在しないものであった。電話番号もデタラメだった。

その後はっきりしたことは、その喫茶店の名前だった。

その名は『幽霊喫茶』


第1章 奇妙な喫茶店



某国立大学に入学してからしばらく経った夏のある日、俺は学生支援課のアルバイト紹介コーナーにいた。

大学生活に慣れた頃合いを見計らって、バイトを始めようと思ったのだ。

居酒屋、牛丼屋、駅前のビラ配り等、いろんな業種がそろっている。

「どれにしようかな…」

掲示板とにらめっこをしながら、俺は考えていた。業種にこだわりは無いので、とりあえず時給が高いものにしようと考えているのだが、どれもこれも同じようなものばかりだ。

室内はクーラーが強めに効いていて、強い日差しに晒された熱い体を容赦なく冷やす。近くには購買もあって、二、三人の学生が買い物をしていた。

帰りに何か買おうかな、と思ったとき、一枚の求人情報が目に留まった。

『喫茶店のアルバイト募集中!時給900円から』というものだった。

それによると、喫茶店の場所は俺の通う大学のすぐ近く。時給も他より高い。なにより、喫茶店ならいけそうな感じがした。

結局、俺はその広告を手に掲示板を後にした。

これがすべての始まりとも知らずに。



異変に気付いたのは、下宿先に帰ってからだった。

肝心の喫茶店の名前が、どこにも明記されていないのである。

生協の記入ミスだろうか、と思い直し、スマートフォンのナビゲーションアプリを起動して喫茶店の住所を入力した。

しかし、結果は『該当する住所はありません』だった。

俺は首をかしげた。今度は俺の入力ミスか?と思ったが、何度見返しても間違いは無い。

おかしい。俺はそう考えて、パソコンからインターネットにアクセスし、ウェブサイトからもう一度住所を入力、検索した。

が、結果は変わらず『該当なし』だった。

しばらく悩んで、俺はひとつの結論に至った。これは誰かが仕組んだイタズラである、と。

もちろん、決定的な証拠があるわけでもない。が、状況から考えてみれば極々普通の結論だろう。

犯人はおそらく友人の誰か、あるいはサークルの先輩、赤の他人だろう。

――まったく、妙なことしやがって

誰とも知らない犯人に向かって詰り、俺は広告をくしゃくしゃに丸めて屑籠に放り込んだ。



翌日

いつも通りに講義が終わり、俺は講義棟を出た。時刻は午後4時を軽く過ぎた頃で、耳に痛いクマゼミの声と強烈な西日が斜めに差し込み、辺りは蒸し暑い空気で溢れている。

「ち~~あき!」

いきなり後ろから声をかけられ、俺はびっくり――ではなく呆れた表情を向ける。

「木元、その呼び方はやめろって何回言わせる気だ?」

「えぇ~だって千秋寺センシュウジってなんか仰々しいじゃん。千秋の方がまだ言いやすいよ」

木元は笑いながら言った。こっちに越してきて染めた短い茶髪にカラフルな服装をしている。見た目は完全にチャラ男だが、これでも成績は俺よりいいらしい。

たしかに、俺の本名(千秋寺 智也『せんしゅうじ ともや』)は一般的に見ても珍しい。いまでこそ慣れたが、小さいころはこの名前に変なコンプレックスを抱いたものだった。

「千秋って…なんか女っぽいぞ」

「いーのいーの!なぁ千秋、今日遊びにいかね?」

「いいけど、ちょっと待ってくれ。求人見てくるから」

「バイト?」

俺がうなずくと、木元は「俺もいく」と言い出した。本人曰くギターが欲しくてバイトがしたい、らしい。

昨日立ち寄った掲示板の前に立ち、俺たちはしばらくバイト探しにいそしんだ。隣には締切がとうに過ぎている奨学金の募集ポスターと、一般教養の講義の連絡が張り出された少し大きめの掲示板がある。

「千秋!これこれ!よくないか?」

木元が一枚の広告を持ってきた。

「ウェイターのバイト探してます…お前には無理だ」

「ひっでぇの。なんでさ?」

「お前みたいに無神経な奴がウェイターなんかにむいてるわけないだろ」

俺がそういうと、坂元は「むぅ…」と唸った。どうやら思い当たる節があったようだ。

まさか、昨日のイタズラ広告はひょっとしてコイツが犯人ではないか?と俺は思い、それとなく探りを入れてみることにした。

「ギター買うなら、時給が高い方がいいって」

「でも、ここいらじゃ700円が相場だぞ?それ以上って結構キツイ仕事じゃないと」

「昨日ここに寄ったら、900円のバイトがあったぞ」

「まじで!?どこどこ?」

慌てた仕草で掲示板を舐めるように見渡す木元に、俺は続ける。

「俺が持って帰った。今はごみ箱の中でクシャクシャになってる」

「えぇ~~~!?もったいねぇ!俺によこせよぉ!」

以外とかなり必死に食らいついてくる。見た限りでは嘘をついている感じは無い。

「やめといた方がよかったぞ。たぶんイタズラだから」

それから俺は、バイト先の住所、電話番号がデタラメだったことを話した。

「なるほどなぁ…確かに変だな」

「てっきりお前のイタズラかと思ったぞ」

「おいおい…」

「ま、変な情報に惑わされないでよかったけど…」

「シュミ悪いイタズラだよなぁ」

結局、木元は幹線道路の交通量を調べるバイト(歩道に突っ立って、通った自動車の数をカウンターで数えるだけの仕事)を、俺は何も持たずに生協を出た。


「ただいまぁ~~」

誰もいないのに、帰宅するとつい口にしてしまう。いつものあいさつを済ませてから、俺は靴を脱いで空気のこもった部屋に上がり込んだ。

ベッドにボスっと寝っころがり、白い天井を眺める。木元とあの話をしてから、広告のことが頭から離れない。妙に気になって、俺はもういちど広告を見てみることにした。

リビングのごみ箱の中には、クシャクシャになった広告が…ない。

「…えっ?」

おかしい。昨日確かにほうりこんだはずの広告がなくなっている。

「っかしいなぁ…」

一通り室内を見渡す。テレビ、テーブル、棚、机。いつもと変わったところはない。

今度は注意深く室内を探す。広告は机の下から出てきた。しかもクシャクシャではなく、真新しいコピー用紙のようにまっさらな状態で。

しかも、変わったのは外見だけではない。

「……QRコード?」

昨日見たときは無かったが、標準サイズのQRコードが広告の右下にある。

「……」

とっさにポケットをまさぐった。部屋の鍵とスマートフォンが入っている。スマートフォンを取り出し、バーコードリーダーを起動。QRコードに合わせるとウェブサイトのURLが出てきた。

『このURLに接続しますか?  →はい いいえ』

画面の上に二つの選択肢が表示される。一瞬ためらったが、右手の人差し指で『はい』を選択した。

「なん…だよ?これ…」

表示された画面には『該当するURLは無効です』の文字があった。そこまではある程度予想していたが、その直後、画面が真っ黒になり、とある文字が表示された。

『WELCOM TO GHOST CAFE』


次の瞬間、目の前が真っ暗になった。



不意に、目の前がぼんやりと明るくなった。

視線の先で何かがくるくる回っている。目を凝らすと、カフェの天井にあるようなオシャレな扇風機であった。

体は何ともないが、頭ががんがんする。立ちくらみしないようにゆっくりと立ち上がった。

落ち着いた雰囲気の室内にはアンティークな造りの調度品が並んでいる。所々塗料の剥げ落ちていて、しかししっかりとした作りのテーブルとイス。壁面には、りんごの入ったバスケットを抱え、優しい笑みを浮かべた少女の油絵が飾られている。カウンターの背後には棚があり、高そうな酒瓶やグラスがたくさん並んでいる。カウンターの横には蓄音機もあって、悲しげで落ち着きのある音楽が控えめに流れていた。

「ここは…?」

そう言ったとき、ある異変に気付いた。

さっきまで私服を着ていたはずだが、今は白いシャツに赤いネクタイ、シックな模様のエプロンを着ている。まるでカフェのウェイターのようだ。

「あら、かわいいアルバイトさんね」

突然の声に、俺は驚いて振り返った。

さっきまで誰もいなかったカウンターに、一人の女性がいる。肩まで伸ばした黒い髪に黒い瞳、冬の夜空のような漆黒のワンピース。口元に小さな笑みを浮かべた、とにかく黒ずくめの、見るからに妖しい雰囲気を放つ女性だ。

「……あなたは?」

思わず後ずさり、俺は尋ねる。

「私は……そうね、店長よ」

「店長…?」

「そう、ここのね」

「…名前は?」

「さぁね」

「ここは…?」

「あら、さっき見たでしょ?『GHOST CAFE』っていうんだけど」

彼女は小さく笑った。魅力的な笑顔だが、できれば違うシチュエーションでお目にかかりたかった。

「俺を…どうする気だ?」

思わず一歩引き、身構える。彼女は構わず続けた。

「そんなに身構えなくても、捕って食べたりしないわ。ここでバイトしてもらうだけだから」

「…はぁ?」

笑う彼女に対して、俺は随分と間抜けな返事をする。

「…バイト?」

「ここは、あなたの知っている普通のカフェとは違うの。お客様はみんな幽霊なのよ」

「…………」

「幽霊は変な人が多くてね…私ひとりじゃ手に負えないから、アルバイトを雇うことにしたのよ。で、あなたがそのアルバイト第一号ってわけ」

「なんで俺が…」

頭が理解できる範囲を完全に超えている。幽霊?バイト?と、俺はなんとか冷静に考えようとした。

「誰でもいいわけじゃないのよ?ある種の『霊感』がある人にしか、あのチラシは見えないようにしているから」

「霊感?」

「チラシ見て来たんでしょう?少なくとも、ここに来られるってことは霊感があるってこと。まぁ、幽霊見えないと、ここのバイトは務まらないし」

そう言って、彼女はまた小さく笑った。そして、細い指先で蓄音機のスイッチをカチッと切る。

「ちょっと待って!俺こんなところでバイトする気なんか無いんだって!」

「…じゃあ、なんでここに来たの?」

慌てて説明するが、彼女は近くのイスに腰掛け、そう言った。

「なんでって…変なQRコード出できたし、興味本位で…」

「それは、あなたの責任じゃなくて?」

黒い双眸が俺を見つめた。感情が一切こもっていない不気味な視線だ。

「うっ…」

おもわず背筋が凍りつく。嫌な静寂が、一瞬流れた。

「まぁ、あなたがここに来た時点で、ここで働く意思があると私は判断するわ」

「……」

俺はほっとため息をつく。背中を生暖かい汗が伝うのを感じた。彼女の言うことにも一理あるし、下手に逆らったらここから帰れなくなりそうだと思った。

「…わかったよ。それで?俺は何をしたらいい?」

「開店まではまだ時間があるわ。それまでゆっくりしてて」

「ゆっくりって…」

「カウンターには私が立つから、あなたはウェイターをお願いね」

「…わかったよ、店長」

「あら、年上には敬語を使うものよ?」

「…わかりました」

相変わらず小さく笑う彼女を見て、俺はまた息を吐いた。




「客が幽霊って、本当なんですか?」

テーブルを布巾で拭きながら、俺は彼女に尋ねた。店内にはさっきとは違う音楽が流れている。

「本当よ。私自身幽霊だもの」

「へぇーー…えぇ?」

「触ってみる?」

カウンターで酒瓶を整理していた店長が振り向いて、スッと右手を差し出してきた。俺は少し躊躇ったが、彼女に近づくと軽く触れるように手を差し伸べてみる。

触れた。と思った瞬間、ゾッとするほどの冷たい感触と共に、彼女の白い手は俺の手をすり抜けた。

「う…うわぁぁぁぁ!」

本能的に危険を感じ、手を引っ込める。冷たい感触はしばらく消えずに、俺の手のひらにべっとりとへばりついていた。

「あ…あんた幽霊なのか?」

若干震えた声で間抜けな質問をする。彼女は答えず、ただ小さく笑うだけだった。

「さぁ、私の言うことが本当だってわかったら、さっさと準備なさい」

パンッと手を叩いてから、何事も無かったかのように棚に向き直る。

「…ウソだろ」

額の脂汗を拭って、俺はつぶやいた。

冗談じゃない。ちょっと時給がいいから来てみたら、とんでもない事に巻き込まれてしまった。

とにかくここから早く…

「逃げよう、なんて思わないことね」

彼女がさらっと言った。たったそれだけなのに俺はギクッとする。

「えっ!?」

「フフッ、意外と単純ね」

振り返った俺を気にも留めないように向こうを向いてはいるが、彼女があの小さい笑みを浮かべているであろうことは容易に想像できた。

「まさか、心が読めるとか…」

「幽霊にそんな能力はないわ」

「…じゃあ、どうして」

「さぁ、どうしてでしょう?」

振り返った彼女が笑う。たったそれだけなのに、なんだか自分が馬鹿にされたような気がして、俺はそっぽを向く。

「さぁ、そろそろ開店よ。表の札を『open』にしてちょうだい」

ちょうど俺が向いた先に店の玄関ドアがある。心の中で盛大に舌打ちをしてから、俺は玄関を開けた。

外は濃い霧を含んだ重苦しい空気が漂っていた。地面はあるが、視界が悪いおかげで足元がまともに見えない。土地勘がなければ、たちまち迷子になってしまうだろう。なるほど、確かに「逃げることは考えない」方がよさそうだ。

ため息をついてから、ドアにぶら下がっている札を『close』から『open』にした。そして「本当に客は来るのか?」と思ったときだった。


「開きましたか…」

「えっ!?」

どこからともなく声がした。後ろを振り返ると、霧の中から一人の老人が現れた。

シルクハットをかぶり、黒いスーツを着た英国紳士風の老人だ。霧が深いおかげで顔は見えないが、声色から優しそうな雰囲気を感じた。

「あ、これは失敬。驚かせてしまったようですな」

「あっ…いえいえ!どうぞ!」

帽子を取り、ゆっくりとした口調と仕草で彼は頭を下げる。つられて俺もペコッとお辞儀をし、ドアを開けた。



「あら、カインベルト伯爵。いらっしゃい」

老人が入ってくるのを見るなり、店長は笑顔でそう言った。

「マスター、今日もおいしい紅茶を頂きに来ました」

「なら、ちょうどいい茶葉が入ったの。いま淹れるわね」

カインベルト――それがこの老人の名前なのだろう。と俺は解釈した。伯爵は帽子を脱いで壁際のフックにかけ、カウンター席に腰掛ける。高い鼻と丁寧に手入れされた白い髭、優しい眼差しが印象的な老人である。

「…で、彼は?」

伯爵が俺を見ながら、店長に尋ねた。

「バイトの子よ。今日からウチで働くことになったの」

「ほぅ…なるほどねぇ」

「初めまして。千秋寺といいます」

「初めまして、私はカインベルト家第三十一代当主、シーザーフォン=R=カインベルトと申すものです。どうぞよろしく」

そう言って、カインベルトはスッと左手を差し出す。俺もつられて握手を交わそうと思ったが、先ほどの店長のことを思い出し、手を止めた。

「すいません…さっき店長と握手して…その…」

「あぁ、そうか…君は生身の人間なんだね」

バツの悪そうな俺の足元に目をやって、カインベルトは言った。

「はい…」

「はっはっはっ!そうかそうか!幽霊にしてはやけに存在感があると思ったら人間かね!」

カインベルトは声をあげて笑った。

「存在感って、大して変わらない気もしますが…」

「変わるともさ、ほれ、私は足が透けている」

そう言って、彼はズボンの裾を引っ張り上げる。なるほど、革靴を履いているはずの足が透き通り、床の板目がぼやけて見えた。

「しかし、こっち側に来られる人間がいたとは…世界は広いですなぁ」

彼がそう言ったとき、ちょうど紅茶が入った。カインベルトはティーカップを取り上げると、立ち上る蒸気の香りを楽しむように顔を近づけて、上品な振る舞いで紅茶を口に運んだ。

「いい香りと風味だ……死んでも上等な茶が楽しめるのは、死者の特権ですかな」

「特権よ。少なくとも、これ以上の紅茶を出せる店は現世にはないわ」

店長が小さく笑った。

「なるほど、それでは現世に対する未練も無くなってしまいますなぁ」

ははは、とカインベルトは笑った。

しばらくすると、彼以外にも客がちらほらと訪れ始めた。もちろん、皆幽霊である。

はるばる人間界から来たアルバイトとして、俺はすぐにちょっと目立った存在になった。



「おつかれさま、今日はもう閉店しましょう」

俺が冥界(?)に来てから四時間ほどした頃店長がカウンターから声をかけた。俺は息を吐いて近くのイスに座る。

「っあぁ~~~!疲れたぁ…」

「初めてのバイトお疲れ様」

彼女が温かいココアの入ったマグカップを差し出す。

「あっ…どうも」

「どうだった?」

「どうだったって……未だに信じられないですよ。幽霊ですよ?ゆ・う・れ・い!」

そう言って、俺はココアを口に含む。疲れた体と頭にココアの甘い味が隅々まで染み渡り、癒された。

「そっちじゃなくて、バイトのほうよ」

「あぁ…まぁ、果てしなく予想外だったけど、楽しかったですよ」

「よかった。じゃ、明日もよろしくね」

「明日は無理ですよ。サークルの集まり……って木元との約束!」

ガタっと立ち上がり、俺は焦る。まずい、成り行きで働いてしまったが、今晩木元と遊ぶ約束をしていたことを思い出した。

「問題ないわ。あなたがこっちに来た時間帯に戻れるようになっているから」

「…先に言ってくださいよ」

帰ろうと腰を上げようとしていた俺はホッとして、どしっとイスに腰を戻す。

「っていうか、どうやって帰ればいいんですか?ここっていわゆる…あの世でしょ?」

「携帯を開いてごらんなさい。あなた、あのサイトにログインしたままでしょ?ログアウトすれば現世に帰れるわ」

彼女に言われるままに、俺はスマートフォンを見る。画面は依然黒いままだが、右上に表示されたアイコンがネットワークにアクセスしたままであることを示していた。

「ログアウトって…?」

「普通に電源ボタンを押せばいいわ。それでこの世界から出られる」

淡々と述べる彼女に、なんだかソーシャルゲームみたいなシステムだな、と思った。実感が湧かないが、文字通り『あの世からログアウト』というわけである。

「ふぅん…で、明日は何時からバイトですか?」

「そうねぇ…今日と同じ時間帯でいいわ」

「分かりました…では」

そう言って、俺は電源ボタンを押した。

次の瞬間、目の前が真っ暗になった。




「……っ」

目の前に見覚えのある室内灯がある。白い壁と天井、棚、テレビ――俺の部屋だ。

「帰ってきたのか…」

ゆっくりと起き上がり、何の気なしに部屋を見渡す。

「………」

未だに信じられないが、彼女の手の平の感触は本物だったし、最後に口にしたココアの後味が舌の奥深くに残っている。どうやら夢ではないようだ。

冷蔵庫からパック詰めのレモンティーを取り出し、コップに注がず一気に飲む。気分を落ち着かせるためだが、残念ながら気分は晴れなかった。

「………」

ちらりとリビングに目をやる。黒いボディーのスマートフォンが机の上に置かれていた。新着メールがあることを知らせる黄色いランプが点滅していたが、どうにも見る気になれない。少なくとも、今日はもうあんなことはこりごりだった。

スマートフォンを机の上に放置したまま、俺は生暖かいベッドに寝っ転がる。約束を忘れたわけではないが、とりあえずゆっくりしたかった。


木元から電話が入ったのは、それから10分も経たない頃合いだった。

『どうしたんだよ?メール見たのか?』

「悪い…気分悪くなってさ…」

『おいおい、そんな体調で大丈夫か?』

「大丈夫だ、問題ない……って何言わせんだよ」

『返せる元気があるなら大丈夫そうだな!んじゃ、本通りの例のゲーセンで』

「あぁ、8時からな」

電話を切ってから、俺はせっせと身支度を始める。と、再び電話が鳴った。

画面には見慣れない電話番号。名前には『店長』と表示されていた。自分の口元がへの字になるのを抑えて、俺は通話ボタンを押した。

『私よ』

「…なんですか?」

思わずぶっきらぼうな口調になるが、彼女は構わず続ける。

『確認よ、あなたの携帯に繋がるかどうか』

「なんで俺の番号知ってるんですか?」

『あら、バイトの子の番号を知らないようじゃ、店長は務まらないのよ?』

かすかな笑い声が聞こえた。電話の向こうで小さく笑う彼女を思い浮かべ、俺は鼻でため息をつく。

「気味悪いからやめてください」

『もうしないわ。確認できたから必要ないもの』

「…………」

『じゃ、明日よろしくね』

「だからサークルの集まり…」

ブッ、ツーツー…

「……はぁ…くっそ」

スマートフォンを強めに切って、俺は半ばあきれ気味に部屋を出た。アパートの通路には夏の温かい空気が漂っていて、空は黒く晴れ渡っていた。黒い空を見ていると嫌な気分になってきそうだったので、俺は足早に待ち合わせの店に向かった。



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