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正しい男

掲載日:2026/05/02


朝五時三十分、男は目を覚ます。

目覚ましが鳴る三分前だった。


いつものことだ。

体内時計に誤差は少ない。

布団を整え、

洗面台を拭き、

歯ブラシを所定の位置へ戻す。

台所では湯を沸かし、

弁当箱に昨夜の残りを詰める。

卵焼きは端が欠けないよう四角く切る。


警察官になって十五年。

遅刻は一度もない。

始末書もない。

飲酒運転の検挙数は署内で上位。

落とし物の現金は一円たりともごまかさない。


正しいことは、呼吸と同じだった。

妻の美咲は、まだ寝室にいる。

娘の紗菜は七歳で、寝相よく毛布に包まっていた。

男は娘の額にかかった髪をよけ、少しだけ笑う。


幸福だと思っていた。


少なくとも、そうあるべきだと思っていた。

美咲が変わったのは、いつからだったか。

会話が短くなった。

目が合わなくなった。

夕食の味が濃くなった。


小さな異変ばかりで、

事件として立件できるほどの証拠はなかった。

男は問いただすより、自分を点検した。


靴下を脱ぎ散らかしていないか。

言葉が足りなかったか。

記念日を忘れていないか。


だが、ある夜。

美咲のスマートフォンがテーブルに置かれたまま震えた。

 

表示された名前は、知らない男だった。


男は見なかった。

見るべきではないと思った。

だが震えは二度、三度と続いた。


その夜、男は初めて妻の帰宅時間を記録した。

証拠は簡単に揃った。

ラブホテルの駐車場。

腕を組んで歩く二人。

車内で笑う横顔。

仕事なら、十分すぎる裏取りだった。

 

だが夫としては、何ひとつ理解できなかった。


帰宅した美咲に、男は写真を差し出した。

声を荒げず、机の上に静かに置いた。


「説明してくれ」

美咲はしばらく黙り、やがて鼻で笑った。


「……だから何?」

 男は耳を疑った。


「悪いと思わないのか」

「思うよ。でも、あなたといると苦しいの」

「苦しい?」

「あなた、正しすぎるのよ」

 美咲の声は次第に熱を帯びた。


「ちゃんとしてる。

真面目。

約束守る。

嘘つかない。

立派。

……でもね、

一緒にいると、

自分のだらしなさとか、

弱さとか、

全部照らされるの」

男は何も言えなかった。


「あなたの隣にいると、私だけが汚れて見えるの」

「だから、裏切ったのか」

「逃げたかったの!」

叫んだのは、美咲の方だった。


「あなたみたいな人の妻なんて、息が詰まるの!」

男は理解できなかった。


殴ったことはない。

怒鳴ったこともない。

生活費を欠かしたこともない。

娘の行事にも出た。

家事も分担した。

酒に溺れず、

賭け事もせず、

女遊びもしない。


それでも、捨てられるのか。


悪くないのに。

何ひとつ、悪くないのに。


その夜、男は浴室で声を殺して泣いた。

嗚咽の仕方がわからず、

喉だけが何度も痙攣した。

 

数ヶ月後、離婚が成立した。

親権は美咲に渡った。

娘は母親と暮らすと言った。責められない年齢だった。

 

男の部屋には、寸分違わず整えられた家具だけが残った。


ある日、署で後輩が愚痴をこぼした。

「俺、また嫁に怒られましたよ。靴下そこらへんに置くなって」

皆が笑った。

男も、少しだけ笑った。

「……置けばいい」

「え?」

「たまには、散らかしておけ」

後輩たちは意味がわからず首をかしげた。

 

休日。

男はスーパーで卵を買った。

袋詰めのとき、ひとつ床に落として割った。

店員が駆け寄る。

「お取り替えします!」


 男はしばらく割れた卵を見つめ、

それから言った。

「このままでいいです」

殻の欠片を拾いながら、少し笑った。


完璧なものだけが、生き残れるわけではない。


遅すぎて、

痛すぎて、

取り返しもつかなかったが。

男は初めて、

正しさでは

人を抱きしめられないと知った。




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