正しい男
朝五時三十分、男は目を覚ます。
目覚ましが鳴る三分前だった。
いつものことだ。
体内時計に誤差は少ない。
布団を整え、
洗面台を拭き、
歯ブラシを所定の位置へ戻す。
台所では湯を沸かし、
弁当箱に昨夜の残りを詰める。
卵焼きは端が欠けないよう四角く切る。
警察官になって十五年。
遅刻は一度もない。
始末書もない。
飲酒運転の検挙数は署内で上位。
落とし物の現金は一円たりともごまかさない。
正しいことは、呼吸と同じだった。
妻の美咲は、まだ寝室にいる。
娘の紗菜は七歳で、寝相よく毛布に包まっていた。
男は娘の額にかかった髪をよけ、少しだけ笑う。
幸福だと思っていた。
少なくとも、そうあるべきだと思っていた。
美咲が変わったのは、いつからだったか。
会話が短くなった。
目が合わなくなった。
夕食の味が濃くなった。
小さな異変ばかりで、
事件として立件できるほどの証拠はなかった。
男は問いただすより、自分を点検した。
靴下を脱ぎ散らかしていないか。
言葉が足りなかったか。
記念日を忘れていないか。
だが、ある夜。
美咲のスマートフォンがテーブルに置かれたまま震えた。
表示された名前は、知らない男だった。
男は見なかった。
見るべきではないと思った。
だが震えは二度、三度と続いた。
その夜、男は初めて妻の帰宅時間を記録した。
証拠は簡単に揃った。
ラブホテルの駐車場。
腕を組んで歩く二人。
車内で笑う横顔。
仕事なら、十分すぎる裏取りだった。
だが夫としては、何ひとつ理解できなかった。
帰宅した美咲に、男は写真を差し出した。
声を荒げず、机の上に静かに置いた。
「説明してくれ」
美咲はしばらく黙り、やがて鼻で笑った。
「……だから何?」
男は耳を疑った。
「悪いと思わないのか」
「思うよ。でも、あなたといると苦しいの」
「苦しい?」
「あなた、正しすぎるのよ」
美咲の声は次第に熱を帯びた。
「ちゃんとしてる。
真面目。
約束守る。
嘘つかない。
立派。
……でもね、
一緒にいると、
自分のだらしなさとか、
弱さとか、
全部照らされるの」
男は何も言えなかった。
「あなたの隣にいると、私だけが汚れて見えるの」
「だから、裏切ったのか」
「逃げたかったの!」
叫んだのは、美咲の方だった。
「あなたみたいな人の妻なんて、息が詰まるの!」
男は理解できなかった。
殴ったことはない。
怒鳴ったこともない。
生活費を欠かしたこともない。
娘の行事にも出た。
家事も分担した。
酒に溺れず、
賭け事もせず、
女遊びもしない。
それでも、捨てられるのか。
悪くないのに。
何ひとつ、悪くないのに。
その夜、男は浴室で声を殺して泣いた。
嗚咽の仕方がわからず、
喉だけが何度も痙攣した。
数ヶ月後、離婚が成立した。
親権は美咲に渡った。
娘は母親と暮らすと言った。責められない年齢だった。
男の部屋には、寸分違わず整えられた家具だけが残った。
ある日、署で後輩が愚痴をこぼした。
「俺、また嫁に怒られましたよ。靴下そこらへんに置くなって」
皆が笑った。
男も、少しだけ笑った。
「……置けばいい」
「え?」
「たまには、散らかしておけ」
後輩たちは意味がわからず首をかしげた。
休日。
男はスーパーで卵を買った。
袋詰めのとき、ひとつ床に落として割った。
店員が駆け寄る。
「お取り替えします!」
男はしばらく割れた卵を見つめ、
それから言った。
「このままでいいです」
殻の欠片を拾いながら、少し笑った。
完璧なものだけが、生き残れるわけではない。
遅すぎて、
痛すぎて、
取り返しもつかなかったが。
男は初めて、
正しさでは
人を抱きしめられないと知った。




