最終楽章
廊下を歩きながら考える。
腹部の痛みはひどく体から力が抜けるが、全く歩けないほどではない。
ザルカ帝国は核保有国だ。
そしてほとんどの核保有国は、国のトップがいつでもそれを使用できるようにしている。
具体的には、トップのすぐそばに核発射ボタンを置いている。
これは可能性でしかない。
もしかしたら共産党トップの部屋にも、その装置が存在しているかもしれない。
その装置を使ってザルカ帝国内の全核兵器を自爆させる。
それがガーランの作戦だった。
国内各地のミサイル基地全てで核爆発が発生すれば、ザルカ帝国とてひとたまりもない。
一瞬で人類叡智の炎に焼き尽くされる。
もちろん、そこに核発射ボタンがあればの話だが。
ガーランは廊下を曲がる。
正面に、一際立派な観音開きのドアがあった。
ずっしりした木製のドアには彫刻が施されていて、真鍮のドアノブはライオンを模したデザインになっている。
ガーランは、そのドアに爆薬を取り付けた。
数秒後、美しいドアはひしゃげて吹き飛ばされた。
炎の爆ぜる中、ザルノフは拳銃を構えて委員長室へと突入した。
彼の目が、大きく見開かれる。
実質的なザルカ帝国のトップの仕事部屋である委員長室は、それに見合う豪華な造りになっていた。
紅い絨毯が敷かれ、壁には高名な画家による絵が飾られ、中央にはずっしりとしたオーク材の机が置かれている。
机の上には2つのブリーフケースが載せられていた。
ケースの中にはケーブルとスイッチで構成された機械が納められている。
そこには、ガーランもよく知っている人物が座っていた。
「なぜここに」
次の瞬間、後頭部に強い衝撃を受けてガーランの意識は途絶えた。
「危なかったですね。マエストロ」
額に傷のある男が、拳銃を下ろした。
「ええ。助かりましたよ。ヴァイオリニスト。他などうなりました?」
マエストロと呼ばれた初老の男性は、状況を聞いた。
「元警察と元連邦警護庁の2人は死亡を確認しました。黒人の散弾銃使いは上手く逃げおおせたようですね。狙撃手は見失いましたが、ビルからは出ていないと思いますよ」
ヴァイオリニストと呼ばれた男は、丁寧な口調で報告した。
「そうですか、2人は死にましたか」
マエストロは、どこか寂しげにそう言った。
情報本部副長官
特務機関本部長
そして赤いオーケストラ、マエストロ
数々の名前を持つ彼は
「それでは、我々も演奏しましょうか。最終楽章を」
イヴァンはうっすらと笑みを浮かべて、そう言った。
ヴァイオリニストは、深く頷く。
「思えば長かったですね」
イヴァンはブリーフケースの機械を操作しながら、そう呟く。
「はい」
男は、感傷に浸るような声で返事をした。
イヴァンはブリーフケースの片方を指差す。
「これでアトラ連邦の全核兵器を自爆させ、核抑止力を無効化する」
イヴァンは、続けてもう片方を指差した。
「そして、これでアトラ連邦の全主要都市を核の業火で包む。焼き消えたアトラ連邦に共産党政権を樹立し、この戦争に終止符を打てる」
政府から独立しつつも高い権限を持つ特務機関にとって、アトラ連邦の核兵器発射ボタンを入手することは難しくない。
そして赤いオーケストラは、ザルカ帝国核戦力の全てを運用している。
「それでは、始めますか」
「ええ。ですがその前に、あなたに死んでもらう必要があります」
発砲音が鳴り響いた。
腹部に弾丸を受けた男は、ゆっくりと倒れる。
「なぜ?」
ヴァイオリニストは、動揺してそう言った。その口から血が溢れる。
「ここまでついてきてくれてありがとう。ようやく全てを終わらせられますよ」
イヴァンは、一方的に語る。
「先の世界大戦の際、私はアトラ連邦とザルカ帝国の国境近くで暮らしていました。ええ。ムリズという村です。知っていますか?」
ヴァイオリニストは全てを察した。
その村が、先の大戦時にザルカ帝国が実験的なガス攻撃を行った村だからだ。
「私の家族は全員死にましたよ。ガスで苦しんで。国防軍にいた私は海外に出征していたので助かりましたが」
イヴァンは、ブリーフケースの機械を操作して、中央の大きなスイッチを押した。
「これでザルカ帝国の全核兵器は全て自爆しました。周辺の農園や村はこの世から消え去ったでしょうね。潜水艦乗組員は苦しむ間もなく即死でしょう」
イヴァンは、世間話でもするような口調でそう言った。
「ふざけるなよ」
ヴァイオリニストは、腹の底から怒りを搾り出すような声を出して、イヴァンを睨みつける。
だがイヴァンはそのまま続けた。
「ですが、これだけでは大した被害にはなりません。ほとんどの核兵器は、都市から遠く離れた場所に設置されていますから。それでこちらです」
イヴァンは使い終わったブリーフケースを床に落とすと、もう片方のブリーフケースを目の前に寄せる。
「これはアトラ連邦の核発射ボタンです。押せばアトラ連邦の保有する全ての核兵器が、ザルカ帝国の主要都市全てに向けて発射されます」
「やめろ」
ヴァイオリニストは血の止まらない腹部を押さえながら拳銃を構える。
「やめろ」
ヴァイオリニストは、痛みでろれつの回らない舌を必死に動かして、もう一度言った。床の絨毯に血だまりが広がっている。
不健康なまでに青白くなったヴァイオリニストの顔を、嫌な汗が流れていた。
イヴァンはそれを見て、表情ひとつ変えることもなくスイッチを押した。
机の上にはヴァイオリニストを射撃した拳銃がまだ置いてあったが、イヴァンがそれを手に取ることはない。
ヴァイオリニストは拳銃の引き金に指をかけて、強く引いた。
ヴァイオリニストの唇から勢いよく血が溢れた。
彼はゆっくりと振り返る。
「お前、まだ生きていたのか」
最後の言葉を言い切って、ヴァイオリニストは倒れた。
イヴァンの目に、立ったまま狙撃銃を構えるシャーナが映った。
銃口からは硝煙が燻っている。
「話は聞いた。イヴァン」
シャーナはもはや敬語も殴り捨て、そう言った。
狙撃銃の銃口を下す。イヴァンを殺すつもりはなかった。
別に彼は嘘をついていない。ただ本当のことを言わなかっただけだ。
わざわざ共産党本部にシャーナたちを突入させる意味は分からないが、それもイヴァンが組んだ緻密なまでの音楽には必要だったのだろう。
何より、たとえシャーナが今ここで『赤いオーケストラ』に殺された仲間たちの仇を打ったところで、何の意味もない。
核が放たれた以上、イヴァンも死ぬからだ。
「あなたはどうするつもりですか?ここに着弾するまであと20分もありませんよ」
「お前はどうする?」
シャーナは聞き返した。
「私は自決しますよ。自らの命令で多くの人を殺してきましたから。最後に核の炎で蒸発して死んだら、勇敢な死者たちに顔向けできません。せめて彼らと同じく、鉛で死にたい」
イヴァンは男を撃った拳銃を持ち上げると、自身のこめかみに当てた。
その銃口はまだ熱を帯びている。
「あなたはどうするつもりですか?」
イヴァンは、穏やかな口調でもう一度聞いた。
「‥‥特に何もしない。ガーランの側にいるよ」
シャーナは、ただそう言った。
すでにザルカ帝国への復讐は終わっていた。シャーナはそれ以上にやりたいことがないし、自分を好きだったガーランも、すでにいない。
「そうですか。それではヴァルハラか地獄かで、またお会いしましょう」
イヴァンはそう言い残して、引き金を引いた。
脳髄が床に飛び散り、彼は永遠の眠りに落ちる。
シャーナはイヴァンの骸に敬礼して、ガーランの側に膝をついた。
「ガーラン。復讐に飲まれた私のような人間を好きになってくれたことに礼を言わせてくれ。ありがとう」
シャーナは、子守唄のような声でそう言った。
かつてガーランだった死体は答えない。
シャーナはその頭を自身の膝において、見開いた瞳を閉じた。
こわばっていたガーランの顔が、穏やに眠るような表情へと変わる。
抉られた後頭部から溢れる血と脳髄が、シャーナの膝を汚した。
残された時間は、あと15分もない。
シャーナはガーランの頭を持ち上げて、唇を重ねた。
鉛にも似た血の味がするキスだった。
シャーナは長い時間そうしていたが、やがて優しく唇を離すと、ガーランの上半身を強く抱きしめた。
ロケットが飛翔する音が、空気を切り裂く。
「またね」
刹那。
シャーナは白い炎に包まれた。
ザルカ帝国首都上空で炸裂した核弾頭は、首都全域に向けて熱線を吹き付ける。
炎の嵐が、ザルカ帝国首都を襲った。
数千人の人々が悲鳴を上げる間も無く蒸発し、続いて数十万人の人々が火だるまになって焼き尽くされる。
爆風は立ち並ぶ高層建築物を炎に包んで薙ぎ倒し、全てが更地と化していく。
ほんの数分ほどで、栄華を極めたザルカ帝国首都は、炎の地獄に変わった。
炎の奔流が、爆発を生き残った全てを焼き尽くす。
その炎も徐々に消えていき、後には放射能で汚染された廃墟だけが残された。
生き残った人が、1人また1人と逃げ出していく。
持ち出すものはおろか、行く当てすらなく。
すでにザルカ帝国の主要都市は全て核の業火で焼かれ、他も内戦状態だ。
全てを失った彼らに、今後安住の地は現れないだろう。
「これが、この戦争の終わりか」
1人の大柄な黒人男性が、瓦礫の上に座って煙草を燻らせていた。
一挺の散弾銃が、彼に寄り添っている。
彼のすぐ側には蓋の開けられたマンホールがある。
核兵器が炸裂する間一髪のところで、ザルノフはここに転がり込んだ。
だから助かった。
半身を火傷し、肺と片目を押し潰され。体中にコンクリート片が突き刺さる重傷を負ったが、僅かに命をつないだ。
「カヤ。聞こえるか」
無線に呼びかけたが、返事はない。
放射能と一緒に撒き散らされた電磁パルスのせいか、あるいはカヤもここにいたのか。
分からないし、今後永遠に分かる事もないだろう。
「また、みんな逝ってしまったのか」
ザルノフは紫煙を吐き出して、そう呟く。
かつて戦争で故郷を追い出され家族を殺されてから、ザルノフはひたすら戦い続けてきた。
何度も仲間を失い、全てを失い、ただ進んできた。
戦っている間だけは、全てを忘れられた。
ザルノフは辺りを見回す。
瓦礫、死体、瓦礫、死体。
どこまでも広がる灰色の世界に、ただ血だけが赤い。
「戦争ってよくないな」
煙草の煙を、ため息と一緒に吐き出した。
ザルノフは軽く咳をして、血を吐いた。
もうザルノフが助からないことは明白だし、彼自身もそれは理解している。
この世に心残りなどない。
家族も仲間も、皆向こうに逝ってしまった。
眠気が込み上げてくる。
ザルノフは近くのコンクリート片で煙草の火を擦り消して、吸い殻を投げ捨てる。
吸い殻は少しの間先端を赤く燃やしていたが、すぐに消えた。
ザルノフは何かを懐かしむように笑って、目を閉じた。
そして、もう二度と目を開けなかった。
滅んだ街を、沈黙の夜が包み込んでいく。
終




