拾わなかった想い
春の風はやさしいのに、葵の心はざらついていた。
届き続ける“未来の日付の手紙”――それは過去の自分からの声かもしれない。
失われた三年前の記憶、そして「拾いに行かないで」という謎の警告。
時を越えて届く想いの正体を、葵はまだ知らない。
翌朝、葵はいつもより少し早く目を覚ました。
昨日の手紙のことが、眠っているあいだも頭を離れなかったからだ。夢の中でさえ、机の上の薄い便箋がこちらを見ていた。文字は淡いピンク色で、ところどころに指の跡のようなにじみがある。まるで書いた人が泣きながら書いたみたいに。
カーテンを開けると、東の空はもう白く明けていた。春の光はやわらかくて、ベランダの植木の葉をつやつやと濡らす。けれど、その明るさのわりには心が晴れなかった。
(“拾いに行かないでください”……)
あの一文。
どう考えればいいのかわからなかった。落とす、というのは物のことなのか、人のことなのか。未来からの警告みたいなその文面は、怖いようで、でもどこか懐かしくもあった。知らない誰かからの優しさ、というよりも、“知ってる誰か”が自分を案じているような、そんなぬくもりがあったからだ。
顔を洗い、軽くメイクをして、コーヒーを淹れる。マグカップを持ったまま、葵はまた机の上に視線を落とした。昨日届いた二通の手紙は、揃えてクリップで留めてある。どちらも差出人の名はない。けれど、筆跡は同じ。紙も同じ。インクのにじみ方まで同じだった。
(本当に……私が書いた、の?)
三年前。
その言葉が、胸の奥でにわかに重くなる。
三年前の自分は、何をしていたっけ。
その頃はまだ今の会社じゃなくて、派遣を転々としていて、休日は友だちとよく出かけて、桜を見に行ったりもして――。
そこまで思い出したところで、記憶がふっと切れる。まるでそこだけ消しゴムでこすったみたいに、ある一定の時期だけがぼやけていた。
(違和感……)
ふと、玄関の方から音がした。
ポストが、小さく鳴った。
心臓が一度、強く跳ねた。
コーヒーを置き、葵はスリッパのまま駆け寄る。ドアの内側からポストを開けると、やはりそこには一通の封筒が落ちていた。昨日と同じ、黄ばんだ、ざらざらとした紙の封筒。角は丸くなっていて、端は少しだけ折れている。
喉がひとりでに鳴る。
葵は封筒を拾い上げ、すぐには開けずに、しばらく指でその感触を確かめた。紙の厚みはやはり同じだ。部屋に戻り、机に腰を下ろすと、深呼吸をしてから、そっと封を切った。
中には一枚だけ、便箋。
そして、今度は最初の一行から昨日とは違っていた。
「あのとき、あなたを止められなかったことを、今も悔やんでいます。」
読み上げるように小さくつぶやいた瞬間、胸の奥にひゅっと冷たいものが走った。
(止められなかった? 誰を……?)
続きがある。
「あれは、私の弱さでした。あなたが選んだことを、応援するふりをしてしまった。そうするしかないと思い込んだ。もしあのとき、ほんとうのことを言えていたら、今とは違う今日になっていたかもしれません。」
文字はところどころで強くなって、また弱くなっている。息を詰めて書いたときの、あの筆圧だ。自分が日記を書くときの、“誰にも見られたくないことを書くときの癖”に、よく似ていた。
さらに、その下に小さく、こう書いてある。
「明日の“落とし物”のことは、どうか信じてください。」
やっぱり――昨日の手紙とつながっている。
葵は便箋を持つ手に、ぎゅっと力を込めた。
窓の外では、通学の中学生たちが走っていく。彼らの笑い声は、本人たちにはもう聞き慣れて騒がしくもない音なのだろうが、葵には少しだけまぶしく響いた。自分にも、ああやって何も考えずに笑っていた時期があったはずなのに、どうして途中から、あれほど「何かを選ぶこと」が怖くなってしまったのだろう。
スマホのカレンダーを開く。
三年前の今日。
そこには、やっぱり何も書かれていなかった。けれど、よく見ると一箇所だけ、予定があった跡がある。削除された予定の影。
タイトルは表示されていない。ただ、“場所”の欄に、うっすらと文字が残っていた。
――河川敷。
その単語を見た瞬間、胸の奥で何かが、どん、と鳴った。
(河川敷……あぁ)
あの日の空気の匂いが、一気によみがえる。春先特有の、冷たさと土の匂いが混ざった、あの夕方の匂い。川面を渡ってくる風、遠くで聞こえていたサッカーボールの音。沈みかけた夕日が川を細く光らせていた。
けれど、そこで記憶はまた途切れた。
何か、とても大事なことがあったはずなのに、その「大事なところ」だけが曇っている。
どうして思い出せないんだろう。
どうして三年前の自分は、未来の自分に向けて手紙なんて書く必要があったんだろう。
会社に行く支度をしながらも、葵の頭の中は手紙でいっぱいだった。電車の中でも、イヤフォンはつけたふりで、実際は何も再生していない。窓ガラスに映る自分の顔は、普段よりずっと真剣で、そのくせどこか不安げだった。
「どうしたの、葵ちゃん。今日はちょっと顔がこわい」
職場で同じ部署の先輩が、昼休みに笑って言った。
葵ははっとして笑顔を作る。
「え、そうですか? ちょっと寝不足で」
「また夜更かし? もう若くないんだからさ~」
「ひどくないですかそれ」
軽口をたたきながらも、心の奥ではずっと考え続けていた。
“あなたを止められなかった”という書き出し。
誰かがどこかに行こうとしていて、自分はそれを見ていた。でも、止めなかった。止められなかった。
それが「今も悔やんでいます」と書かなきゃいけないほどのこと。
そんな出来事は……あっただろうか。
ふと、スマホの壁紙に目がいった。
そこには、三年前の夏の写真が表示されていた。海、ではなく、川。河川敷にかかった小さな橋の手すりに、誰かと並んで寄りかかっている写真。顔は見えないように撮られているが、肩が触れている。
誰と撮ったんだっけ、と考えようとして、また霧にぶつかった。
(これ、もしかして……全部、その頃のことに関係してる?)
仕事はとくに忙しい日ではなかったのに、やたらと一日が長く感じた。
ようやく定時を迎え、パソコンを落として帰り支度をする。肩にかけたバッグには、例の手紙をクリアファイルに入れて持ってきていた。なんとなく、家に置いていくのが不安だったのだ。まるで、置いておいたら消えてしまうんじゃないか、そんな気がして。
会社を出て、夕方の風にあたる。昨日と同じ、花びらをはらはらと巻き上げる風だった。空はまだ完全には暮れていない。オレンジと群青のあいだ、街灯がぽつぽつと灯り始める時間。
――落とします。
でも、拾いに行かないでください。
昨日の手紙のあの文が、ふいに胸の中で大きくなった。
落とすって何を。
そんなことを思いながら、歩道橋の上でバッグの中をいじっていたときだ。
するり、と。
何かが指先から逃げた。
「あっ」
小さなシルバーのチャームだった。
大学の友だちにもらった、桜の花びらの形をしたキーホルダー。バッグのファスナーにつけていたものが、持ち方を変えた拍子に外れて、ころころと歩道橋の階段の方へ転がっていく。
――明日、あなたは大切なものを落とします。
でも、それを拾いに行かないでください。
その一文が、目の前で点滅したような気がした。
反射的に拾いに行こうとして、葵は、足を止めた。
キーホルダーは、階段の三段目で止まっている。手を伸ばせばすぐに届く。誰かに蹴られてしまうかもしれないし、そのまま風に押されて落ちてしまうかもしれない。あれは友だちが「就職おめでとう」ってくれたもので、失くしたくはない。
けれど――。
手紙は、拾いに行くなと言っている。
まるで、拾いに行ったら、そこで何かが起きる、と知っている人の書き方だ。
階段の下から、子どもを連れたお母さんが上がってくるのが見えた。
このままだと、あの人が蹴ってしまう。
どうしよう。どうする。どうしたら正しい?
このときの自分の選択が、三年前の自分が悔やんでいた「ひとつの決断」とつながるのだろうか。
葵はぐっと歯を食いしばり、階段の脇に寄った。
キーホルダーに手は伸ばさなかった。
通り過ぎていく親子が、不思議そうにちらりと見ていく。小さな子どもが、階段の途中にある桜のチャームを見つけて、「これなにー?」と指さした。
「誰かのかな。踏まないでね」
母親はそう言って、子どもの手を引いて行ってしまった。
そのあと、少し風が吹いて、チャームはふわ、と浮いて、階段のすみへと落ちていった。もう、手を伸ばしても届かない場所。
胸が痛んだ。
でも、同時に――不思議と、守られているような気もした。
“拾いに行かないでください”という文には、突き放すような冷たさはなかった。今日、ここで拾いに行かなかったことを、きっと誰かが喜ぶ。そんな予感があった。
家に帰ると、机の上の手紙を並べなおした。
昨日の一通目。
“あなたが選ぶ“ひとつの決断”が、私の未来を変える。”
昨日の二通目。
“明日、あなたは大切なものを落とします。でも、それを拾いに行かないでください。”
そして、今日の手紙。
“あのとき、あなたを止められなかったことを、今も悔やんでいます。”
三通そろったところで、葵はようやく、そこにある共通点に気づいた。
全部、“選ばなかったこと”を肯定している。
行かない。拾わない。止める。
どれも、“しないほう”を勧めている手紙だった。
(もしかして私、三年前……“行ってしまった”んだ)
その思いがよぎった瞬間、胸の奥で、閉じられていた記憶の箱が、ほんの少しだけ開いた。
――夕焼けの河川敷。
――スマホに届いた一通のメッセージ。
――「最後にどうしても会いたい」という、切羽詰まった文字。
――迷った。行くか、行かないか。
――そのとき、誰にも相談できなかった。
――“行かないで”と言ってくれる人が、一人でもいたら――。
「……私、書いたんだ」
ぽつりと、葵は呟いた。
あのとき欲しかった言葉を、三年後の自分が、三年前の自分に向けて書いたのだ。
届かなかった言葉を、未来から投げている。
自分で自分を助けようとしている。
けれど、まだ一番大事なことはわからない。
“誰に会いに行こうとしたのか”。
“なぜそれが、そんなに悔やまなきゃいけないほどのことだったのか”。
机の上の手紙のすみに、今日の便箋にはこうも書かれていた。
「忘れているのは悪いことではありません。あなたが生きていくために、必要だったからです。けれど、もうすぐ思い出すときが来ます。
そのとき、どうか自分を責めないでください。
これは、あなたを守るための手紙です。」
そこまで読んだところで、葵はもう涙をこらえられなかった。
頬を伝うものを、手の甲で雑に拭う。
誰もいない部屋の中、時計の針の音だけがしている。
外では風が吹いて、また花びらを舞わせていた。
(守るための、手紙……)
その言葉は、どこかで聞いたことがある気がした。
家のどこかに、似たようなことを書いたノートがあったような。
そう思って本棚を探っていると、昔使っていたスケジュール帳が出てきた。三年前のものだ。ページをめくると、日記のように思いつきを書きなぐったページがあり、その一角にこう書かれていた。
――もし今日の自分が間違えそうになったら、未来の自分が助けてくれたらいいのに。
葵は息を呑んだ。
やっぱり、ここだ。ここからだ。
三年前の“あの日”を境に、自分は何かを決めた。
そしてそれを、今も後悔している。
だから、届かなかった手紙を、時間を越えてでも届けようとしている。
窓の外はすっかり夜になっていた。
月はまだ細く、街の明かりの方がまぶしい。
机の上の三通の手紙は、まるで順番待ちをしているみたいにきちんと並んでいる。
けれど、葵は知っていた。
これはきっと、終わりではない。
まだ届く。まだ何か来る。
そして次こそは――三年前の“あの人”の名前が、きっと書かれている。
葵はペンを取り、真っ白な便箋を一枚引き抜いた。
自分も、書いてみようと思ったのだ。
未来の自分に。
あるいは、三年前の自分に。
“あのとき言えなかったこと”を、今度こそ言葉にしておきたかった。
「……ごめんなさい。あのとき、ちゃんと怖いって言えばよかった」
声に出してから、文字にする。
それは手紙というより、告白だった。
けれど、そのときの葵は、まだ知らなかった。
翌朝のポストに入っている手紙が、これまでのどの手紙よりも長く、そしてやさしく、そして何よりも――自分の名前を、はっきりと呼んでいるということを。
2話では、「記憶の欠片」と「選ばなかった未来」を軸に描きました。
“拾いに行かないでください”という言葉には、後悔の中にも優しさがあります。
それは、誰かを守りたいという祈りのようなもの。
届かなかった手紙が、もし本当に未来からのものだとしたら――
きっとそれは、自分自身を許すための手紙なのかもしれません。
次回、第3話では三年前の真実がついに明らかになります。
「君に届かなかった手紙」――その“君”が誰なのか。どうか見届けてください。




