表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

拾わなかった想い

春の風はやさしいのに、葵の心はざらついていた。

届き続ける“未来の日付の手紙”――それは過去の自分からの声かもしれない。

失われた三年前の記憶、そして「拾いに行かないで」という謎の警告。

時を越えて届く想いの正体を、葵はまだ知らない。


翌朝、葵はいつもより少し早く目を覚ました。

 昨日の手紙のことが、眠っているあいだも頭を離れなかったからだ。夢の中でさえ、机の上の薄い便箋がこちらを見ていた。文字は淡いピンク色で、ところどころに指の跡のようなにじみがある。まるで書いた人が泣きながら書いたみたいに。


 カーテンを開けると、東の空はもう白く明けていた。春の光はやわらかくて、ベランダの植木の葉をつやつやと濡らす。けれど、その明るさのわりには心が晴れなかった。


(“拾いに行かないでください”……)


 あの一文。

 どう考えればいいのかわからなかった。落とす、というのは物のことなのか、人のことなのか。未来からの警告みたいなその文面は、怖いようで、でもどこか懐かしくもあった。知らない誰かからの優しさ、というよりも、“知ってる誰か”が自分を案じているような、そんなぬくもりがあったからだ。


 顔を洗い、軽くメイクをして、コーヒーを淹れる。マグカップを持ったまま、葵はまた机の上に視線を落とした。昨日届いた二通の手紙は、揃えてクリップで留めてある。どちらも差出人の名はない。けれど、筆跡は同じ。紙も同じ。インクのにじみ方まで同じだった。


(本当に……私が書いた、の?)


 三年前。

 その言葉が、胸の奥でにわかに重くなる。


 三年前の自分は、何をしていたっけ。

 その頃はまだ今の会社じゃなくて、派遣を転々としていて、休日は友だちとよく出かけて、桜を見に行ったりもして――。

 そこまで思い出したところで、記憶がふっと切れる。まるでそこだけ消しゴムでこすったみたいに、ある一定の時期だけがぼやけていた。


(違和感……)


 ふと、玄関の方から音がした。

 ポストが、小さく鳴った。


 心臓が一度、強く跳ねた。

 コーヒーを置き、葵はスリッパのまま駆け寄る。ドアの内側からポストを開けると、やはりそこには一通の封筒が落ちていた。昨日と同じ、黄ばんだ、ざらざらとした紙の封筒。角は丸くなっていて、端は少しだけ折れている。


 喉がひとりでに鳴る。

 葵は封筒を拾い上げ、すぐには開けずに、しばらく指でその感触を確かめた。紙の厚みはやはり同じだ。部屋に戻り、机に腰を下ろすと、深呼吸をしてから、そっと封を切った。


 中には一枚だけ、便箋。

 そして、今度は最初の一行から昨日とは違っていた。


「あのとき、あなたを止められなかったことを、今も悔やんでいます。」


 読み上げるように小さくつぶやいた瞬間、胸の奥にひゅっと冷たいものが走った。


(止められなかった? 誰を……?)


 続きがある。


「あれは、私の弱さでした。あなたが選んだことを、応援するふりをしてしまった。そうするしかないと思い込んだ。もしあのとき、ほんとうのことを言えていたら、今とは違う今日になっていたかもしれません。」


 文字はところどころで強くなって、また弱くなっている。息を詰めて書いたときの、あの筆圧だ。自分が日記を書くときの、“誰にも見られたくないことを書くときの癖”に、よく似ていた。


 さらに、その下に小さく、こう書いてある。


「明日の“落とし物”のことは、どうか信じてください。」


 やっぱり――昨日の手紙とつながっている。

 葵は便箋を持つ手に、ぎゅっと力を込めた。


 窓の外では、通学の中学生たちが走っていく。彼らの笑い声は、本人たちにはもう聞き慣れて騒がしくもない音なのだろうが、葵には少しだけまぶしく響いた。自分にも、ああやって何も考えずに笑っていた時期があったはずなのに、どうして途中から、あれほど「何かを選ぶこと」が怖くなってしまったのだろう。


 スマホのカレンダーを開く。

 三年前の今日。

 そこには、やっぱり何も書かれていなかった。けれど、よく見ると一箇所だけ、予定があった跡がある。削除された予定の影。

 タイトルは表示されていない。ただ、“場所”の欄に、うっすらと文字が残っていた。


 ――河川敷。


 その単語を見た瞬間、胸の奥で何かが、どん、と鳴った。


(河川敷……あぁ)


 あの日の空気の匂いが、一気によみがえる。春先特有の、冷たさと土の匂いが混ざった、あの夕方の匂い。川面を渡ってくる風、遠くで聞こえていたサッカーボールの音。沈みかけた夕日が川を細く光らせていた。


 けれど、そこで記憶はまた途切れた。

 何か、とても大事なことがあったはずなのに、その「大事なところ」だけが曇っている。

 どうして思い出せないんだろう。

 どうして三年前の自分は、未来の自分に向けて手紙なんて書く必要があったんだろう。


 会社に行く支度をしながらも、葵の頭の中は手紙でいっぱいだった。電車の中でも、イヤフォンはつけたふりで、実際は何も再生していない。窓ガラスに映る自分の顔は、普段よりずっと真剣で、そのくせどこか不安げだった。


「どうしたの、葵ちゃん。今日はちょっと顔がこわい」


 職場で同じ部署の先輩が、昼休みに笑って言った。

 葵ははっとして笑顔を作る。


「え、そうですか? ちょっと寝不足で」


「また夜更かし? もう若くないんだからさ~」


「ひどくないですかそれ」


 軽口をたたきながらも、心の奥ではずっと考え続けていた。

 “あなたを止められなかった”という書き出し。

 誰かがどこかに行こうとしていて、自分はそれを見ていた。でも、止めなかった。止められなかった。

 それが「今も悔やんでいます」と書かなきゃいけないほどのこと。

 そんな出来事は……あっただろうか。


 ふと、スマホの壁紙に目がいった。

 そこには、三年前の夏の写真が表示されていた。海、ではなく、川。河川敷にかかった小さな橋の手すりに、誰かと並んで寄りかかっている写真。顔は見えないように撮られているが、肩が触れている。

 誰と撮ったんだっけ、と考えようとして、また霧にぶつかった。


(これ、もしかして……全部、その頃のことに関係してる?)


 仕事はとくに忙しい日ではなかったのに、やたらと一日が長く感じた。

 ようやく定時を迎え、パソコンを落として帰り支度をする。肩にかけたバッグには、例の手紙をクリアファイルに入れて持ってきていた。なんとなく、家に置いていくのが不安だったのだ。まるで、置いておいたら消えてしまうんじゃないか、そんな気がして。


 会社を出て、夕方の風にあたる。昨日と同じ、花びらをはらはらと巻き上げる風だった。空はまだ完全には暮れていない。オレンジと群青のあいだ、街灯がぽつぽつと灯り始める時間。


 ――落とします。

 でも、拾いに行かないでください。


 昨日の手紙のあの文が、ふいに胸の中で大きくなった。

 落とすって何を。

 そんなことを思いながら、歩道橋の上でバッグの中をいじっていたときだ。


 するり、と。

 何かが指先から逃げた。


「あっ」


 小さなシルバーのチャームだった。

 大学の友だちにもらった、桜の花びらの形をしたキーホルダー。バッグのファスナーにつけていたものが、持ち方を変えた拍子に外れて、ころころと歩道橋の階段の方へ転がっていく。


 ――明日、あなたは大切なものを落とします。

 でも、それを拾いに行かないでください。


 その一文が、目の前で点滅したような気がした。

 反射的に拾いに行こうとして、葵は、足を止めた。


 キーホルダーは、階段の三段目で止まっている。手を伸ばせばすぐに届く。誰かに蹴られてしまうかもしれないし、そのまま風に押されて落ちてしまうかもしれない。あれは友だちが「就職おめでとう」ってくれたもので、失くしたくはない。


 けれど――。


 手紙は、拾いに行くなと言っている。

 まるで、拾いに行ったら、そこで何かが起きる、と知っている人の書き方だ。


 階段の下から、子どもを連れたお母さんが上がってくるのが見えた。

 このままだと、あの人が蹴ってしまう。

 どうしよう。どうする。どうしたら正しい?

 このときの自分の選択が、三年前の自分が悔やんでいた「ひとつの決断」とつながるのだろうか。


 葵はぐっと歯を食いしばり、階段の脇に寄った。

 キーホルダーに手は伸ばさなかった。

 通り過ぎていく親子が、不思議そうにちらりと見ていく。小さな子どもが、階段の途中にある桜のチャームを見つけて、「これなにー?」と指さした。


「誰かのかな。踏まないでね」


 母親はそう言って、子どもの手を引いて行ってしまった。

 そのあと、少し風が吹いて、チャームはふわ、と浮いて、階段のすみへと落ちていった。もう、手を伸ばしても届かない場所。


 胸が痛んだ。

 でも、同時に――不思議と、守られているような気もした。

 “拾いに行かないでください”という文には、突き放すような冷たさはなかった。今日、ここで拾いに行かなかったことを、きっと誰かが喜ぶ。そんな予感があった。


 家に帰ると、机の上の手紙を並べなおした。

 昨日の一通目。

 “あなたが選ぶ“ひとつの決断”が、私の未来を変える。”

 昨日の二通目。

 “明日、あなたは大切なものを落とします。でも、それを拾いに行かないでください。”

 そして、今日の手紙。

 “あのとき、あなたを止められなかったことを、今も悔やんでいます。”


 三通そろったところで、葵はようやく、そこにある共通点に気づいた。

 全部、“選ばなかったこと”を肯定している。

 行かない。拾わない。止める。

 どれも、“しないほう”を勧めている手紙だった。


(もしかして私、三年前……“行ってしまった”んだ)


 その思いがよぎった瞬間、胸の奥で、閉じられていた記憶の箱が、ほんの少しだけ開いた。


 ――夕焼けの河川敷。

 ――スマホに届いた一通のメッセージ。

 ――「最後にどうしても会いたい」という、切羽詰まった文字。

 ――迷った。行くか、行かないか。

 ――そのとき、誰にも相談できなかった。

 ――“行かないで”と言ってくれる人が、一人でもいたら――。


「……私、書いたんだ」


 ぽつりと、葵は呟いた。

 あのとき欲しかった言葉を、三年後の自分が、三年前の自分に向けて書いたのだ。

 届かなかった言葉を、未来から投げている。

 自分で自分を助けようとしている。


 けれど、まだ一番大事なことはわからない。

 “誰に会いに行こうとしたのか”。

 “なぜそれが、そんなに悔やまなきゃいけないほどのことだったのか”。


 机の上の手紙のすみに、今日の便箋にはこうも書かれていた。


「忘れているのは悪いことではありません。あなたが生きていくために、必要だったからです。けれど、もうすぐ思い出すときが来ます。

そのとき、どうか自分を責めないでください。

これは、あなたを守るための手紙です。」


 そこまで読んだところで、葵はもう涙をこらえられなかった。

 頬を伝うものを、手の甲で雑に拭う。

 誰もいない部屋の中、時計の針の音だけがしている。

 外では風が吹いて、また花びらを舞わせていた。


(守るための、手紙……)


 その言葉は、どこかで聞いたことがある気がした。

 家のどこかに、似たようなことを書いたノートがあったような。

 そう思って本棚を探っていると、昔使っていたスケジュール帳が出てきた。三年前のものだ。ページをめくると、日記のように思いつきを書きなぐったページがあり、その一角にこう書かれていた。


 ――もし今日の自分が間違えそうになったら、未来の自分が助けてくれたらいいのに。


 葵は息を呑んだ。

 やっぱり、ここだ。ここからだ。

 三年前の“あの日”を境に、自分は何かを決めた。

 そしてそれを、今も後悔している。

 だから、届かなかった手紙を、時間を越えてでも届けようとしている。


 窓の外はすっかり夜になっていた。

 月はまだ細く、街の明かりの方がまぶしい。

 机の上の三通の手紙は、まるで順番待ちをしているみたいにきちんと並んでいる。

 けれど、葵は知っていた。

 これはきっと、終わりではない。

 まだ届く。まだ何か来る。

 そして次こそは――三年前の“あの人”の名前が、きっと書かれている。


 葵はペンを取り、真っ白な便箋を一枚引き抜いた。

 自分も、書いてみようと思ったのだ。

 未来の自分に。

 あるいは、三年前の自分に。

 “あのとき言えなかったこと”を、今度こそ言葉にしておきたかった。


「……ごめんなさい。あのとき、ちゃんと怖いって言えばよかった」


 声に出してから、文字にする。

 それは手紙というより、告白だった。


 けれど、そのときの葵は、まだ知らなかった。

 翌朝のポストに入っている手紙が、これまでのどの手紙よりも長く、そしてやさしく、そして何よりも――自分の名前を、はっきりと呼んでいるということを。

2話では、「記憶の欠片」と「選ばなかった未来」を軸に描きました。

“拾いに行かないでください”という言葉には、後悔の中にも優しさがあります。

それは、誰かを守りたいという祈りのようなもの。

届かなかった手紙が、もし本当に未来からのものだとしたら――

きっとそれは、自分自身を許すための手紙なのかもしれません。


次回、第3話では三年前の真実がついに明らかになります。

「君に届かなかった手紙」――その“君”が誰なのか。どうか見届けてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ