幸福の基準
スマホを持って、毎日ネットを見て、冷蔵庫には卵と牛乳があって、夜になればコンビニの明かりがつく街で暮らしていて、それでも「貧しい」と言う人たちがいる。
その声を聞くたび、僕は少しだけ苛立ってしまう。
いや、「少しだけ」なんて控えめな言葉じゃ足りない。正直に言えば、腹が立つのだ。
SNSを開けば「日本人の生活はもう限界だ」とか「こんな国で子どもを育てられない」とか、そんな言葉が毎日流れてくる。
その投稿をしている人のプロフィール写真には、最新のスマホで撮ったフィルター付きのカフェラテが並んでいる。
疲れたと言いながら旅行にも行くし、嫌いな仕事を続けながらも、たまに高級なチョコを食べて「これが幸せ」とつぶやく。
それが悪いわけじゃない。むしろ、それが人間らしいと思う。
でも「もう終わりだ」「この国は地獄だ」と、まるで被害者のように言うのは、なんだか違う気がしてならない。
僕はかつて、本当の貧しさを見たことがある。
夜中にゴミ捨て場で残飯を探していた男の子。
スーパーの試食コーナーで何度も列に並び直していた親子。
あれを「貧しい」と言うのだと思っていた。
彼らはスマホを持っていなかった。
SNSに「苦しい」と書き込む場所も持っていなかった。
ただ静かに、今日を生き延びるために呼吸をしていた。
だから、誰かが「生活が苦しい」と言うたび、僕は条件反射のように思ってしまう。
何と比べて?
君の苦しさは、どこに線を引いているんだ?
スマホを握りしめながら、電気の通った部屋で、Wi-Fiに繋がったまま、世界中の不満と比べているその姿を、どうしても美化できない。
もちろん、分かってはいる。
相対的な貧困という言葉も。
精神的な余裕のなさも。
誰もが同じ苦しみ方をするわけじゃないことも。
それでも、だ。
僕はどうしても腑に落ちない。
冷たい床に寝ていた時、財布の中に硬貨が1枚しかなかった時、電気が止まって真っ暗な部屋で蝋燭を灯した夜。
その時、僕は「日本の生活は苦しい」とは思わなかった。
ただ、「自分が情けない」とだけ思った。
それでも、自分の足で立とうとした。
今、そこそこの部屋に住んで、朝にはちゃんと温かいご飯を食べている。
それでもたまに、SNSを見ていると妙に虚しくなる。
皆が「不幸だ」と言えば言うほど、僕の中の幸福が少しずつ削られていく気がする。
「幸せ」を口にした瞬間、それは軽んじられる。
「幸せなんて幻想だ」「上級国民の戯言だ」と。
まるで、幸福を感じることが罪のようだ。
そうして人々は、「不幸の奪い合い」を始める。
誰が一番苦しいか。
誰が一番報われないか。
誰が一番怒っていいのか。
それを競うように、不幸を飾り立てて投稿する。
まるで、貧しさが勲章みたいに。
僕はもう、そういう戦いから降りたいと思っている。
苦しみを誇るよりも、ささやかな幸福を拾いたい。
安いスーパーの唐揚げ弁当がうまかったとか、駅前の子どもが笑ってたとか、そういう些細なことのほうがずっと本物のように思える。
誰かが「それで満足してるの?」と笑ってもいい。
満足してるんだから、仕方がない。
貧しさは、物の量じゃない。
感じ方の深さでもない。
それは、比べ続ける心の病だ。
スマホの中の誰かと自分を比べて、「足りない」と思うたび、人は勝手に貧しくなる。
そして、自分で作り出したその貧しさを「社会のせい」にして、悲劇を語る。
でも、もういいんじゃないかと思う。
今日、僕たちは生きている。
屋根の下で、飯を食って、夜には電気を消して眠れる。
それ以上を望んでいいけれど、それ以下を忘れてはいけない。
もし誰かが「この国はもう終わりだ」と言うなら、僕は静かに言い返したい。
終わっていない。
君がスマホを持って、その指で言葉を打てている限り、まだ始まってすらいない。
そして、僕は小さな声で言うだろう。
「どうせ生きるなら、もう少し感謝して生きてみよう」と。




