シャルル
旧仮名遣ひは多分に間違ってゐると思ひます。
「蟾蜍」ギイ・シャルル・クロオとか云ふ人の詩だ。
家の近くにある、その時期には彼岸花の綺麗になる河川敷を友人と歩いてゐると教えられた。
彼女はこの詩が嫌いだ。彼女の名前は夏花と云って、名前の通りに情熱家である。好きな科目は物理学。私の好きな学問でもあるけど、彼女の方は本当に熱を出してしまうほどにこれが好きらしい。
中学ではまだ習わないから、二人で一緒に勉強してゐる。彼女は物理オリンピックに挑戦するらしい。私もその予定だ。
今日は二人で夜の七時まで勉強したあと、熱を発する頭を涼しい環境で冷やすために歩いてゐた。
巾着田。田圃を通って高麗川へ。
私たちの周囲では蛙が、私の密かな楽しみである彼女との散歩を冷やかすやうに彼方此方で泣いてゐる。
この辺りは幼い頃から父親に連れられて歩いてゐたのでよく知ってゐる。昼間に一人で歩くと、まだ中学生なのに幼少を思ひ出して苦しくなる。
昼に歩くと嫌ひ。夜に歩くと好き。あなたと歩くともっと好き。
私は彼女の方にふと目をやる。
背後から森林のマイナスイオンにあたって冷やされた熱風が私たちのスカートを揺らした。
「ねえ。知ってる。蟾蜍って詩。」
「いや?知らない。」
「して翌日も同じことを繰り返して、昨日に異らぬ慣習に従えばよい。
即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。
ゆくてを塞ぐ邪魔な石を蟾蜍は廻って通る。
って、人間失格でさ、学校の授業でやったじゃん。」
ああ思ひ出した。人間失格の主人公の葉蔵?と云ったのか、が三人目?の女に抱かれてゐる時に出てきた詩だったっけ 。
「知ってゐるけど。それがどうしたの。」
「どうおもふ?」
彼女はイタズラっ子みたいにふっとにやけて、こちらを試すうやうに語かけてくる。風が彼女の髪を向こうから靡かせて、汗の甘いかをりがする。彼女の裡にはきっと宇宙の秘密が握られてゐる。
私はどうだらう。臭くないかな。
「別に、この詩自体は好きじゃないけど、人間失格自体は好きだよ。」
「違ふよ。詩の話だよ。ちなみに私は嫌ひ。」
嫌ひなことを云ふときにも彼女は嬉しさうだ。」
「私さ、思ふんだよね。荒っぽい喜びも大きな悲哀も避けた人生なんてさ、地獄じゃないかなって。せっかく生まれたんだからさ、好きな人生を選ぼうよ。ワクワクするやうな自殺をさ。」
何処かの優れた漫画家がそんなことを云ってゐたやうな気がする。彼女もその漫画好きなのかな。
私が彼女を好きになったきっかけを聴かれたとしても特に返すやうなことは思ひ当たらない。
けれども多分、私が彼女を好きになった理由には心当たりがあるやうな気がする。
或る日、いつも通りの日常で、私は彼女と一緒に放課後の空教室にゐた。
私は壁に寄りかかって、特に得るものがないと分かりながらも、某国が生み出した日本に限らず世界中の女子中高生を虜にしてゐる音符マークのアプリを見て、ひたすらに画面をスワイプしてゐた。
本当は学校にスマホを持ってきてはいけないのだけれど。それを考えると少し心が痛む気がした。不思議なものだ。学校の規則とかを莫迦にしてゐる節があるのに、それを破ることには畏れを感じずにはゐられない。きっと私の精神には母親譲りの生真面目と父親譲りの曲がったものを嫌ふところがあるのだらう。
一方彼女は私の横で椅子に座って物理五輪の分厚い参考書を開いてゐた。
すごい集中力だ。私はかうして一日の授業で疲れた時には勉強をサボる。しかし彼女はさうではない。どんなに疲れてゐる時もいつも必ず一冊の本を持ち歩いてゐる。
難解かつ明瞭な文章。それを見る彼女の二重の瞳、瞳孔の深さ。さう深いんだ。昏いのではない。その瞳には光も闇もなく、ただ一つの目的のためだけに脳に情報を送り込んでゐた。
集中した彼女の、形の綺麗な頭はその空間の中で唯一ぴたりと静止して、相対性理論の否定した時空間の絶対性がそこには確かに存在してゐた。
私は彼女に声を掛けなかった。話しかけたいやうな、でもこのまま見続けてゐたいやうな、そんな時間が好きだった。
さうして時間が経った。昨日の晩には二、三センチくらひの雪が降って、校庭は真っ白に冷えてゐて、梅の花は冬の温度に凍りついてしまってゐる。
この一年、私は結局オリンピックの方は一次すら通過せずに落ちてしまったのだけれど、それでも佳い思ひ出になったと思ふ。彼女は順調に進んで行った。つひには今日、日本代表の選考の結果を教えてもらふ。これに受かれば国際オリンピックに挑戦できるやうになる。
彼女が少し遅れて登校してきた。
「おはやう」
平静を装って声を掛ける。自分のことじゃないのに不安でドキドキしてきた。自分の好きな人の成功は自分のそれよりもずっと気になることだと気づいた。
「物理五輪のやつさ、通ったよ。日本代表選手。」
これを聴いて先ほどとは打って変わって心臓が歓喜でドクドクした。やはり、彼女はやり遂げる人だとずっと前から知ってゐた。
よかった。次は国際大会だね。私は云った。しかし続いて彼女の口から出てきた言葉は私の心を垂直に刺した。
「ん、いや国際大会はいいかな。なんかもう結構頑張ったし。一応思ったところまではいけたし。」
なんと云ふことだらう。彼女は折角のチャンスを棒に振るらしい。どうして、どうして、ずっと努力してきたのに。
しかし彼女の顔を見ればその理由は聴かずともわかった。私は気づいた。彼女の情熱は古代からある月のやうなものに対してのものであった。決して届いてはいけないものであった。対等ではいけないのだ。向こうが振り返って、報われるやうなものではいけないのだ。
今や彼女の物理学にへの情熱は冷め切ってゐた。
私は呆然とした。さうして恐ろしくなった。私の持つ彼女への気持ちも、彼女が振り向いたら終わってしまうやうな気がした。眩暈がして吐き出しそうになった。
私はその日一日をまるで魂の抜けてしまったやうに過ごした。身長157cmの制服を着た人形は教室に座って、まるで世界に一人取り残されたみたいだった。
放課後は一人で歩いた。冬の夜は早い。昨日は雪曇りだったけれど、今日は晴れて雲のひとつもない。
一人で見た月は満月で、いつもと変わらず綺麗だった。
読んでくださり有り難ふ御座います。