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月下の契り

作者: 牧村エイリ

天の月。


海に映る月。


あなたの美しさよりも、今は手の温もりを。


あなたに向かって、落ち行く我はただ…闇に沈んでいく。


顔を上げれば、月が揺れ、我の生が遠ざかる。



月揺れて


この世の運命(さだめ)


泡と化す。







嘉永7年一月。


第十二代将軍徳川家慶の死去を知ったペリーは、去年幕府と交わした一年という猶予を破っり…半年で、再び浦賀に姿を見せた。


前年より多い…十隻の蒸気船は、江戸中の人々を不安と恐怖に陥れていた。


新たに将軍の座についた徳川家定は病弱であった為に、この混乱を抑えることができなかった。


磐石だと思われていた徳川の世が、崩壊へと向かい始めた時期…月岡夢時は、母親に呼び出されていた。


「失礼します」


質素な襖を開けると、祭壇の前に、母親が正座していた。


月岡家は、代々将軍家に仕える旗本であったが、少し特殊な役目を担っていた。


それは、月詠みと呼ばれる占いである。


かつて、その占いはよく当たると評判であった。


しかし、真実のみを告げ、政の為の嘘をつくことができない…融通のなさが、公の場から、月岡家を遠ざけていた。


それでも、その予言の的中率は凄まじく、無視することはできなかった。


それ故、危険性だけが重要視され、時の幕府に半ば幽閉のように、旗本として召し抱えられ続けていたのだ。


「夢時殿。そなたが、この家の当主となられ、どれくらい経ちますか?」


神妙に座る母の前に、夢時も正座し、


「もう二年になります」


「二年ですか…」


母親は呟くように言うと、じっと夢時の目を見つめながら、口を閉じた。


しばしの時が流れた。母親はため息をつくと、おもむろに口を開いた。


「ご先祖様が、大和の広陵の地から、この地に連れて来られてから、はや数百年…。我が家は旗本として、上様にお仕えして参りました。しかし、それも…もう終わる時が来たのです」


母親の衝撃的な言葉は、月詠みによって、得たものであろう。


「母上!」


驚きを隠せない夢時を、母親は愛おしそうに見つめ、


「お父上がお亡くなりになり、二年。そなたが、跡を継がねば、この家はおとり壊しになっていたでしょう。だが…月岡家において、真の当主は、女子(おなご)なのです」


母親が次に口にする言葉に、夢時は気付いた。


「母上!その話は、やめて頂きたい。私が死ぬまでは、口にしない約束ではございませんか!」


夢時の言葉に、母親はゆっくりと首を横に振り、


「そなたは、もう十六…隠し通せる歳ではございません


「母上!」


「私は…今回のお告げに、内心安堵しております。これでやっと…月岡家は、自由になれるのですから」



着物の袖で顔を隠し、しくしくと泣き出す母親を、これ以上で見ていられなかった。夢時は、居た堪れなくなり、立ち上がると、部屋から飛び出した。


「夢時殿!」


母親の制する声を無視して、夢時は屋敷の外へと飛び出した。


「旦那様!」


玄関前をほうきで掃いていた使用人が、驚いて声をかけてきたが、止まることはなかった。





「は、は、は…」


激しく息を切りながら、夢時が目指した場所は、海だった。


町中を走る夢時の耳に、町人達のひそひそ話が飛び込んできた。


「怖いわ…」

「どうなるんだ、俺達は」

「戦になるのか?」


不安そうな町人の声は、昨年のどんちゃん騒ぎとは、明らかに違っていた。



「この国は…なぜ」


夢時は、黒船に対する幕府の対応が気に入らなかった。


怯え、顔色を伺う外交など、認められるはずがなかった。


「何の為の刀ぞ!何の為の武士ぞ!」


遠くに黒船が見える場所まで来た時、夢時は海に向かって、いつのまにか叫んでいた。


「何の為の…男ぞ…」


夢時の瞳から、一筋の涙が流れた。



「夢時…」


その時、突然後ろから、声をかけられた。


夢時は、その声にはっとなり…涙を袖で拭ってから、振り返った。


夢時から少し距離をおいて、1人の若い侍が立っていた。見守るような…やさしい目を向けて。


「新之助…」


まだ初々しい雰囲気が残る侍は、悲しげな背中を見せる幼なじみに、話し掛けずにはいられなかった。


振り返った夢時の目が、赤いことに気付き、新之助はすぐに、話し掛けたことを悔いた。


顔を背けるように、新之助はすぐに頭を下げた。


「すまない。見るつもりはなかったんだが…」


「どうしてここに?」


それも答えにくかった。


しかし、答えなければならない。


新之助は、距離を置いたまま、


「お主の姿を見て…」


お主の涙に気付いて…。


しかし、すべての言葉を口には出せなかった。


唇を噛み締める新之助から、夢時は顔を逸らすと、真っすぐに黒船を睨み、


「今は一大事じゃ…町中を走って、何が悪いか」


少し怒ったような口調になる夢時に、新之助はさらに心を痛めた。


これ程の思い…幾許の思いを…新之助は心にしまってきた。


どんなに鍛えようが、どんなに着物で隠そうが…髷で誤魔化そうが…。


(そなたは、女子ぞ…)


それに気付くのは、多分自分だけであろう。幼なじみである自分だけ。


それくらい完璧な男を…武士を演じなければならない幼なじみの考えなど、新之助はわかっていた。


「ゆくのだろ?」


「え?」

言われるだろうと予測していた内容と真逆の新之助の言葉に、驚き…夢時は振り返った。


「いつやるつもりだ?」


真剣に自分を見つめる新之助の目力に、夢時は真意を口にしてしまった。


「今夜…」


「わかった」


新之助は頷いた。そして、すぐに夢時に背を向けると、


「今は、幕府の規制が厳しい。しかし、混乱している」


新之助は、一度言葉を切ると、


「船着場には、知り合いがいる。一隻くらい何とかなるだろう」


「新之助」


「今晩…ここで会おう」





新之助が去ってからも、夢時は屋敷に戻らなかった。日が落ちても、ずっと海に浮かぶ巨大な黒船を見ていた。


冷静に観察すると、日本の船とまるで違う。海に浮いていることも、信じられなかった。


まるで…勝てる気がしなかった。




だけど、それで怖気づいては、武士が廃る。


日本の…武士の意地を見せつけなければならないのだ。


(せめて、一太刀)


夢時が決意を固めていると、岸辺に、一隻のぼろ船が近づいてきた。


その中には、新之助が乗っていた。


船頭がいない。


一番近くの船着き場に寄せたぼろ船に、夢時は駆け寄った。そして、激しく揺れる船内に、何とか乗り込んだ。


「大丈夫か?」


そんな夢時を支えながら、新之助は申し訳なさそうに口を開いた。


「こんな船しか調達できなかった。それに…すまない。皆、近づきたくないそうだ」


夢時はフッと笑うと、


「仕方あるまい」


「…」


新之助は、乗せる時に夢時の体に触れ、改めて思った。やはり華奢だと。


「お主…」


突然、夢時が顔を覗き込んできた。間近で顔を見られ、心の中を見透かされたのかと思った新之助の鼓動が、激しくなった。


しかし、夢時はまったく、予想と違う言葉を口にした。


「よいのか?私は…」


「…ああ」


新之助は、夢時に最後まで言葉を言わせなかった。


「俺は次男だ。別に構わん。それに、武士ならば…ゆかねばならぬ」



新之助の目を見るだけで、その決意がわかった。


(昔から言いだしたら、きかぬ)


それは、お互い様だった。

しかし、夢時は…新之助が友人として付き合ってくれると、思っていた。


夢時は、新之助の隠した思いには、気付いていない。


「いくぞ」


新之助が漕ぐと、船はゆっくりと闇の中…水面を滑るように、進み出した。


新之助は漕ぎながら、ずっと見つめていたくなる夢時の横顔から、強引に顔を逸らした。


夢時には、黒船しか見えていない。



「……今夜は、月も星も綺麗だな」


心の中で、自分に笑ってから、夢時の緊張を解こうと、新之助は他愛もない話題をふった。


すると、夢時は初めて星空を見上げた。


「本当だな」


見上げたときの夢時の首のラインの輪郭のしなやかさと、星を見つめる表情の柔らかさに、新之助は堪らず口にした。


「黒船には…俺が潜入する。お主は帰れ」


「え?」


夢時は耳を疑った。


新之助は、夢時の反応を無視して、言葉を続けた。


「今、幕府は…いや世間は混乱しておる。その混乱は、大きくなり…どうなるかわからん。もしかしたら…」


「何が言いたいのだ」


夢時は、新之助のことをよく知っている。そんな言い方では、誤魔化されない。


言葉の裏に、真意がある。


新之助は、しばらく口をふさいだ。


しかし、やがて…願いを言葉にした。


「お主が、武士ではない…別の生き方ができるようになるかもしれん…」


「な」

夢時は絶句した。


幼少の頃からの仲である。ばれているかもしれない。


しかし、だからこそ…口にすることはないだろうと、夢時は勝手に思っていた。


「お、お主は!」


思わず、立ち上がった勢いで、船が揺れた。しかし、夢時は気にせずに、新之助を睨み付けた。


「お主は!」


言葉が続かない。


新之助は漕ぐ手を止め、


女子(おなご)であるお主が、死ぬ必要はない」


ただ真っ直ぐに夢時を見つめた。


その真剣な言葉と瞳に、夢時は刀を抜いた。


研ぎ澄まされた刀身が、月明かりに反射して、妖しく光った。


「今の言葉、取り消せ!」

夢時は刀を握りながらも、小刻みに震えていた。真実を告げられた動揺が、今まで張り詰めていた緊張の糸を切ったのだ。


「俺は、次男だ!嫡男として、育てられたお主と、俺とでは世間の目も違う!だけど…」


感情が爆発し、思わず立ち上がった新之助。


と同時に、小さな音がした。


「え…」


驚く夢時の目の前で、新之助は崩れ落ちるように、倒れた。激しく揺れる船内。


その揺れで、夢時が抜いた刀の輝きが、水面に乱射した。


新之助は、撃たれたのだ。


鞘から抜いた瞬間の刀の輝きが、船の接近を向こうに教えた。


その為、黒船から、狙撃されたのだ。


興奮状態にあった二人は、刀身の反射に気付かなかった。


「新之助!」


船はいつのまにか、黒船のすぐ近くまで来ていたのだ。


潮流れの速さと、闇に同調した黒船の船体が、距離感を狂わしたのだ。


「逃げろ…」


新之助は、刀を持つ夢時の手に、手を重ねた。


「お主に…刀は似合わない…」


「新之助!」


夢時の絶叫は、突然鳴った汽笛によって、かき消された。


巨体を動かした瞬間、大きな波が起こった。そばにいた小さなボロ船は、その波に巻き込まれ…ひとたまりもなかった。


船体はひっくり返り、夢時と新之助は海へと、叩き落とされた。


(夢時…せめて)


新之助は海に落ちても、夢時の手を離さなかった。


(せめて…来世はともに)


一度ぎゅっと握り締めた後、新之助は…思いを噛み締めた。


(だから…現世は、どうあっても生きろ!)


沈んでいく新之助が、夢時の手を離そうとした時、別の手が、新之助の腕を取った。


(夢時…)


夢時の左手が、新之助の腕をしっかりと掴んでいた。


そして、右手に持っていた刀を離した。


海の底に消えていく…刀。


(ああ…)


その時、真っ暗だった海中に明かりが灯った。


月がちょうど、真上に来たのだ。


その瞬間、奇跡が起こった。


海中でも、微笑む夢時の顔を見ることができた。


(そなたを…愛しておる)


二人は、互いに微笑みながら、海中へと沈んでいった。


決して、手を離すことなく。




ほんの少しの出来事は、誰にも知られることなく…終わりを告げた。


なぜならば、これから来る激動の時代は、些細なことなど気にする余裕は、なかったのだから。


夢時が拘った。


いや…すべての武士が拘ったものは、ほんの些細なことで始まり、終わりを迎えてゆく。


その流れを止める程の力を、人は持っていない。


それ故…人には、選択の余地があまりない。


時の流れにただ、流されていくのか…。それとも、少しだけ前へ、自らの力で泳ぐのか…。


流れに逆らうことは、できないのだから。


しかし、どんなに自分の力で泳いでも…岸に辿り着くとは限らない。


途中で、力尽き…沈んでしまうかもしれない。




時と月。


無常な夜。


すべて夢。




終わり。

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