音のない音楽
私は一人の男に電話をかけた。一分待っても、相手は応答しない。諦めて通話を切った後、椅子に腰掛けて折り返しを待った。必ず、向こうからかかってくると信じていた。
携帯電話が鳴り響いた。飛びつくようにして出ると、コンサートホールの職員だった。一週間後に控えているリサイタルの打ち合わせだ。落胆したが、それも重要な相談ではあった。その後眠りにつくまで待っていたが、とうとう電話はかかってこなかった。
彼と最後に話したのはもう二十年以上も前のことになる。あの時交わした暗い内容の会話と、彼が下した絶望的な判断を思い出すだけで、胸が痛む。だが、彼が決めたことを覆す権利は私にはなかった。彼は深く傷ついており、どんな慰めや激励の言葉も空虚に思えた。
私は彼のいわゆる師匠であり、彼は私の弟子だ。古めかしいが、師弟という言葉が我々には一番相応しかった。私はコントラバスという弦楽器を演奏することを生業としており、当時彼が在籍していた大学オーケストラに教えに来た時、コントラバスを始めたばかりの彼と出会った。
彼は音楽に対して非常に貪欲で、上達が早かった。誰よりも音楽を楽しんでいた。じきに、私の元へ個人レッスンに通うようになった。大学生二年生になってからは指揮の勉強を始め、学生指揮者として団員たちの前に立った。
彼に学生指揮を勧めたのは他でもないこの私だ。それを老境にさしかかった今でも後悔している。指揮者などにならなければ、彼は今でも楽しく演奏を続けていたかもしれないのに。
彼は学生時代最後の定期演奏会をきっかけに、音楽をやめた。そして、学生時代の全ての人間関係を断った。今彼がどこで、何の仕事をしているのか、家族はいるのか__何一つ私は知らない。
だが……。
先日、ある知人から連絡があった。楡山修悟。四十代のバイオリン奏者で、市民オーケストラを最近創設したらしい。私はかつていくつかの大学オーケストラに教えに行っていたが、楡山はその中の一つに所属していた。彼とは違う大学である。
楡山は、先日開催された演奏会の動画を私に見せた。
「聴きに行けなくてすまなかったね。楡山君」
彼は首を振る。
「いえ、いいんです。ご多忙でしょうから。ただ……先生には、お知らせしておきたくって」
彼は舞台の上手を指差した。私はすぐに彼の意図を理解した。
コントラバス奏者は四人いる。その中の一人だけ、私が知っている顔がある。
私の弟子だ。
「復活したのか」
冗談めかして言うと、楡山もうなずいた。
「復活しました。やっと」
やっと。そうだ、やっとだ。私は、この時をずっと待っていた気がする。音楽に愛想を尽かした弟子が、再び弓を手に取る時を。
「よく、奴を演奏会に引っ張り出せたな」
「粘り勝ちです」
楡山は誇らしげに微笑んだ。「毎晩コントラバスを抱えてカラオケに入って行く男がいると噂で聞いて、連絡を取ったんです。最初は断られたけど、無理矢理楽譜を送ったら、向こうから参加表明が来ました」
「強引だな」
「コントラバス奏者は貴重ですよ」
私は動画の中の彼に釘付けになった。いきいきと演奏している。温かい気持ちになった。
(__よかったな)
私は心の中だけで彼に呼びかけた。君がまたこの世界に戻ってきてくれて、本当によかった。
「これからも継続してオケに加わるのかね」
「終演後に話した時は、好感触でした。いきなり正団員になってくれなくてもいんです。まずはエキストラから、ってね」
楡山は冷めかけたコーヒーを一口すすった。
「そこで提案したいのですが、先生も一度練習に来られませんか?」
私は楡山を見つめた。
「なんだ、勧誘の話だったのか? 高くつくよ」
「いえ、そうではなく。彼に会ってやってくれませんか」
そう言われて、私は初めて気がついた。今まで不通だった彼に、今は会うことができるのだ。
「私に会いたくないかもしれない」
弱気な私を楡山が笑う。
「最初は気まずいかもしれませんけど、きっと喜びますよ。先生をそりゃあ慕っていたんですから」
「昔の話だ」
「音楽をやってれば、すぐに昔に戻れますよ。そうじゃありませんか?」
楡山は彼なりに真剣な顔をしていた。
「音楽に私怨を持ち込むようなレベルの低い奴は、うちのオーケストラにはいません。でも、あいつはまだどこか怖がっています。まだ傷が癒えていないんです」
楡山は、私が彼を癒やせると言いたいらしい。
彼の最後の定期演奏会は、悲劇だった。本番になって団員が突然彼を裏切ったのだ。学生指揮者として堅実にオープニングの序曲を率いるはずだった。だが、彼が指揮棒を振った時、誰一人動かなかった。彼はストライキに遭い、失意のうちに会場を出て行った。その後に控えていた組曲と交響曲にも乗らなかった。当然だ。
私と楡山はその場面を客席から目撃した。楡山は、自分がエキストラとして乗っていればあんなことはさせなかったのにと悔しがり、私は大学とのレッスン契約を打ち切った。だが、あのどうしようもなく冷たいホールの空気と、彼の震える肩の借りを返すことはできなかった。
定期演奏会の後、彼がオーケストラを退団したと知り、当たり前だと思いながら彼に会った。暗い顔で喫茶店にやってきた彼は、最後まで私と一度も目を合わせなかった。あの定期演奏会の話をすること自体がタブーで、つまらない世間話や麻雀の話をした。相槌を打ちながら彼は終始上の空で、別れる段になってやっと自分から口を開いた。
『もう二度と音楽はしません』
__それが、四年間真剣に音楽に向き合った青年が出した結論だった。
彼のことを考えながらも、私自身のリサイタルが間近に迫っているし、生徒に教えなければならない。それから一週間は忙しく、電話をまたかける時間もなかった。だが、リサイタルの二日前の夜八時に、見覚えのない電話番号から電話がかかってきた。
応対すると、相手はためらいがちに自分の名前を告げた。私は驚きを抑え、落ち着いて聞こえるようにゆっくり答えた。
「君か。久しぶりだな」
『……お久しぶりです』
「携帯変えたのか?」
『はい。楡山から先生の番号を聞きました』
彼の声を聞くと、意識が過去に戻る。楽しかったことも、忌々しいことも。
『……すみません』
彼は私がまだ何も言わないうちに、謝った。
「何故謝る? 久しぶりに話すんだ。楽しい話をしよう」
『いえ……すみません』
昔は、こんなに謝ってばかりじゃなかった気がする。
「楡山のオケに参加したそうじゃないか」
『……はい』
「楽しかったか?」
『……分かりません。ただ、参加してよかったです』
「私もそう思うよ」
答えると、虚をつかれたように彼は黙った。
「なあ、明後日私は本番なんだ。市民アンサンブルホールで、午後二時から。無料券をやるから聴きにおいで」
彼は答えなかった。
「君のコントラバスも、一緒に持ってこい。……別に、リサイタルでいきなり弾かせる訳じゃないぞ」
『分かりました……』
「いいな、約束だ。来なかったらリサイタルは中止する」
電話の向こうで、えっとかそんな無茶なとかぶつぶつ言う声が聞こえたが、私は無視して電話を切った。それぐらい我が儘を言ったって、いいじゃないか?
彼は、ちゃんと約束を守った。客席の彼は、二十年以上の歳月を、私と同様に背負っていた。だが、懐かしさで補正がかかり、ほとんど変わっていないようにも見えた。
そして驚いたことに、上品な女性を隣に連れていた。
リサイタルが終わった後、併設された喫茶店で落ち合った。紅茶を二つ頼み、二人で待った。話すことは沢山あるはずだったが、かける言葉は見つからない気がした。
ただ、前回と今は全く違う。今は何を話しても良い方向に向かうはずだ。彼も私も、落ち着いている。
「一緒にいた人は、君の恋人かね」
私が聞くと、彼は笑って首を振った。
「ただの友人です。音楽が好きだそうなので誘いました」
「そうか」
紅茶が運ばれてきた。私も彼も、砂糖やミルクは入れない。そのままの渋みを味わうのだと私がかつて言ったから、彼はそれを真似し始めたのだ。
まだ十代だった頃の面影を、彼はまだ残している。真面目で、融通がきかなそうだが、素直な一面もある。そして見た目よりも感情の振れ幅が広い。
「素晴らしい演奏でした」
「褒めていただけて嬉しいね」
「本気ですよ」
「君の演奏も久しぶりに聴きたいものだな」
私がそう言うと、彼は目を白黒させた。
「ブランクがひどくて、とても聴かせられるものじゃありません」
「分かってるよ。二十何年も休んでいたんだから。……だが、初めて弾いた時よりは上達しているだろう?」
彼は肩を縮めた。
「まだあと何時間かホールを使える。それを飲んだら楽器を取っておいで。誰も聞いてやしないから。……いや、楡山でも呼ぼうか?」
「いえ、結構です。二人だけで」
紅茶を慌てて飲み干し、彼は腰を浮かせた。私は伝票を奪い、レジに向かった。
ホールへの入り方を教え、先に行こうと背を向けた私を、彼が呼び止めた。
「どの曲を弾けばいいですか?」
私は答えた。
「ウィリアム・テル序曲の冒頭を」
彼がその場で固まる。この曲は、あの定期演奏会で彼が指揮するはずだった。
私は彼に向き直った。
「本来のソロはチェロだが、弾けるはずだろう。何度も一緒に練習したものな」
彼は答えない。戸惑っている。
「私はあの時、君のウィリアム・テルを本当に楽しみにしていたんだよ」
それは紛れもない本音だった。楽器の奏者でなくとも、彼は彼なりにその曲を輝かせることが出来ると知っていたから。
「二十年越しに、聴かせてくれ。私はずっと君を待っていたんだ」
そしてそれは、彼も同じはずだ。
彼は、一つうなずいて、自分の楽器を取りに行った。私はその場で待っていたが、それほど時間はかからなかった。