予想外の出来事
始まったレセプションともいえる練習走行。
不慣れな千迅と紅音たちは、何とかマシンを前へと進めるだけで手一杯だった……のだが。
周回は6周目に入っていた。
レースではない。
もっとも、もしも最初からレース形式を取っていたのならば、すでにレースとは呼べない程の結果となっていただろうが。
兎に角、新入部員たちを引き連れた唯一の上級生、2年生の新条帆乃夏を先頭にした一団は、その隊列を長く長く伸ばしてホームストレートを通り過ぎて行った。
その姿は、見方によっては巨大な生き物……大蛇のそれにも見える。
「何度見ても、壮観だよね―――……」
そんな様子を司令塔から見ていた菊池美里が、同じくその行軍を見入っている本田千晶にそう声を掛けた。
「ええ……本当に……」
大音響を轟かせて過ぎ去って行く一団を見ながら、千晶も美里の言葉に同意を示していた。
千晶よりスピードアップを申し渡された帆乃夏だったが、別段本気の走りに切り替わった訳では無い。
そんな事をしてしまえば、釣られてペースを上げようとする者達で、後方では大クラッシュの嵐となっていただろう。
如何に2年生の中でも屈指ののんびり屋であり闘争心に疎いと評される帆乃夏であっても、それくらいの事は弁えている。
彼女は大体1周当たり15秒ほど短縮する走りに切り替えたのだ。
「うはっ!?」
「……くっ!」
僅か15秒……と侮るなかれ。
今までがウォーミングアップ程度の走りであったのだから、様々な部分で違いは顕著に表れる。
ストレートでスロットルを開ける量が違う。
コーナーでの速度も違う。
それによるバイクのバンク角度も違って来る。
立ち上がりの速度が違えば、凶暴なパワーを手懐けるのに四苦八苦だ。
がらりとその表情を変えた暴れ馬「NFR250Ⅱ」に、再び新入生たちは悪戦苦闘に陥っていた。
そしてそれは、当然千迅と紅音も例外ではない。
僅かにアクセルを開けるタイミングを間違えるだけで、途端にマシンは挙動を怪しくする。
パワーが正確に路面へと伝わらず、油断をすればすぐに後輪が暴れて「ケツ振り」を起こす。
コーナー途中でも2人は、何度も足元を掬われそうになっていた。
「これが……250CC!?」
「……これが……250CC」
もっとも、その状態における両者の反応は対照的であったのだが。
千迅はスピードが上がった事で手の中でこれまでに無い牙を剥きだした〝怪物〟に驚きと歓喜を露わとしていたし、紅音はどこか納得したように全ての神経を鋭敏にしてバイクから発せられるパワーを実感していた。
千迅は感覚で、紅音はその知識を以てして、互いにモンスターマシンを手懐けようとしていたのだった。
「あら、後続とは随分と離れて来たわね」
同じ苦戦状態であっても千迅と紅音、そして他の新入部員達ではどうやら地力が違っていた様で、先を行く帆乃夏に辛うじて追随しているのはやはりと言おうか2人だけであった。
「まあ……想像通りと言いうか、当然の結果なのかな」
千晶が漏らした言葉に、美里はどうにも面白そうな顔でそう返した。
千迅と紅音は、曲がりなりにも中等部のNo.1と2だ。元々の運転技術……つまりはセンスが他の者達と違って当然だった。
勿論、今は……と言う言葉がつくのだが。
中等部で使っていた「NFR50Ⅱ」で速かったからと言って、「NFR250Ⅱ」で速いとは限らない。そんな事は当たり前であり、その逆もあり得るだろう。
高等部で頭角を現し、部を代表するトップレーサーとなった者など、今までに数限りなく存在していた。
マシンに慣れ適性が高ければいずれは千迅や紅音たちのライバルとなり、彼女達の上を行く存在が現れないとも限らないのだ。
それはまた別の話として、今は最も早く新しいマシンに慣れつつあるのは千迅と紅音であった。
それでもそのパワーを持て余しているのは否めなく、余裕がある帆乃夏のライディングと比べれば、転倒の危険すら孕んでおりどうにも危なっかしい。
だがそれも8周目に突入する頃には鳴りを潜め、帆乃夏に追いつけないまでもそれ以上離されない程度には乗れて来ていた。
ただしそれも、3周の間だけ。
周回が11周目へと突入する。
「えっ!?」
「……なにっ!?」
残り5周となり、再び帆乃夏がペースアップしたのだ。
千迅と紅音は、分かっていた事とは言え帆乃夏の背中が離れて行く現象に少なからずショックを受けていた。
この高等部用サーキットの最速記録は、1分32秒029。
そして、千迅達が帆乃夏に付いて周った前半5周のラップタイムは2分30秒前後である。
6周目から1周を2分15秒ほどで周っただけでも、不慣れな千迅達は必死だったにもかかわらず、帆乃夏は11周目より更に15秒短縮する走りに切り替えたのだ。
この極端なペースチェンジは、目の慣れていない新入生たちに軽いパニックを与えるには効果的だったと言える。
勿論、その様に意地悪な意図があってこんな事をしている訳では無いのだが。
「ん―――んふふふ―――」
それが証拠にとでも言おうか、当の帆乃夏自身は未だ全力には程遠く、ラップを重ねるのも鼻歌交じりだ。
必死の形相で追いすがる新入部員たちの表情とは、正しく天と地ほどの開きがあった。
因みに、このコースのレコードを叩きだしたのは本田千晶が2年生の時である。
それ以降も非公式ながら千晶は最速タイムを叩きだしているのだが、本人の要望もあり計測はしていない。
もっとも、千晶のタイムを走る度に公式計測していては、その都度コースレコードを更新し続けなければならなくなるのだが。
そして帆乃夏は昨年秋に、1分34秒台を記録していた。
1年生ながらに千晶のレコードに迫るその走りは、正しく「天才」の二つ名に相応しいと言って良かった。
帆乃夏は速度を上げたにも関わらず、それはどこかマイペースで行程を消化している様であり、そんなライディングが2周ほど続いた。
「帆乃夏、コンディションはどう?」
インカムの向うより、千晶が帆乃夏の調子を窺う声がする。
「何も問題ありませ―――ん。後3周、この調子で消化して―――今年のレセプションも終わりですね―――」
その問いに答える帆乃夏の声にも、なんら疲れは感じられない。
そして今彼女が出しているラップタイムも、それ程気合も入れてなければ集中もしていない状態でのものだ。
それらを総括しても帆乃夏が疲労を感じているとは考えられず、彼女の言葉通り残りを周回する事など何の問題も無い……と思われたのだが。
「そう。でも、あなたが思うような周回にはならないと思うわ。楽しんでね」
ただし帆乃夏の答えに千晶が返した台詞は、彼女が考えていたものではなかった。
レーサーの本能なのか、のんびりとした性格の帆乃夏と言えども先の言葉を聞いて即座に後方へと上半身を捩った。
そして彼女の眼に飛び込んで来たのは。
まだ距離はあれど、帆乃夏に肉薄しようと追走する2台のマシンだった。
「もうすぐっ!」
「……追いついて見せる」
千迅と紅音は、まるで示し合わせた様にメットの下で同じ内容の言葉を独り言ちていた。
初めて走るコース、初めて乗るマシン、ましてやセッティングは他人仕様であり、タイムが出せる状態ではない。
およそ2分で1周するペースの帆乃夏に、それらの条件下で追い縋るなど普通では考えられない事だった。
これが自分好みのセッティングであったとしても、やはりそんなタイムをおいそれと出す事は難しい。
だが帆乃夏の視線の先で、間違いなくペースを上げた千迅と紅音が追走を開始していたのだ。
「……あはっ」
それでも帆乃夏は、そこから本気の走行をする……等といった事はしない。
ペースを保ったまま、彼女達がどれ程自分に迫る事が出来るのか、それを待っている風でもあった。
そして千迅と紅音は。
手に余るパワーと合っていないセッティングに体力を消耗させながら、それでも前を行く背中を睨みつけてアクセルを開けていたのだった。
ラスト3ラップ。その終盤で、予想外の動きが起こった。
先行する帆乃夏に、千迅と紅音が追い縋って来たのだ。
そしてここから、3人のバトルが展開……される?