ファイナルラップへ
木下姉妹に両側から挟み込まれ身動きの利かない状態にも関わらず、千迅は楽し気な笑い声をあげていた。
恐れを知らないどころかそれを楽しんでいる千迅に対して、紅音は嘆息を吐きつつも静観していた。
千迅の笑い声は、紅音のインカムからも流れていた。それを聞いて彼女は、大きく嘆息していた。
レースにのめりこみ、千迅が笑い声を上げる事は過去に何度もあったのだ。それこそ中等部時代には何回も聞いたものであり、その当時は紅音も呆れていたものだった。
「でも今は……それで良い」
しかし今回は、これも紅音の計算に織り込み済みの事態だったのだ。
千迅が楽しめば楽しむほどに、彼女の集中力は増してゆく。そして今回においては、それこそが木下姉妹を攻略する一手となるのだ。
目の前で3台並んで繰り広げられる接近戦は、紅音には無邪気に遊ぶ子猫とそれを捉えようとする双頭の蛇の争いに映っており、それを後方から静かに観察する紅音もまた集中力を発揮し、さながら事態を静観する狼の様であった。
『こ……こいつ、やっぱり笑ってるんちゃうん!?』
『……うん。こいつ、笑ってるわ』
万理華と瀬理華が両サイドから挟み込み抑え込んでいる筈の千迅が笑っている事を確認して、木下姉妹は戦慄に近い感情を抱いていた。
本当ならば、両側に挟まれて身動きの取れない状態など恐怖して然りである。一般道のバイクよりも遥かに高速で走るレーサーマシンを駆っていれば、それはさらに増す事だろう。
恐怖は焦りを生み、弱気となる。だからこそ、殆どのライダーはこの戦法を仕掛けられれば一気に抜け出すか、諦めて後退するのだ。そしてそのどちらでも、彼女たちにしてみればしめたものである。
後退すればそれ以降木下姉妹を抜こうとは思わないだろうし、先行したとしてもマシンに予想以上の負荷を強いる事となる。遅かれ早かれ失速しペースダウンを余儀なくされるのだ。
だが今回は、何もかもが勝手が違った。千迅は恐れるどころか、むしろその状況を楽しんでいる。
飛び出すほどの走力がないにしても、後退すると言う考えを抱いていないのは並び走る内に彼女たちも感じ取っていたのだ。
『……けど』
『……そうやな。……行かせへん』
それでも万理華と瀬理華は、この戦法を解こうとは思わなかった。千迅にプレッシャーを与えている事に間違いはなく、いずれは脱落してゆく事が考えられたからだ。
奇しくもそれは、彼女たちの先輩にあたる岩崎海鈴が口にしたことと同じ「我慢大会」となったのだった。
一見楽しんでいるだけに思える千迅だが、何も考えていないと言う訳ではなかった。
コーナーごとに色々な試行錯誤を試し、彼女なりに何とかこの状況を打破しようとしていたのだった。
「う―――ん……。なんか違うなぁ」
コーナーへの突入スピードやタイミングを変えたり、立ち上がりの加速をワンテンポ早めたり遅らせたり。今の彼女に出来る様々な事を試みながら、それでもそれに納得出来ていなかったのだった。
彼女としても、並走状態が苦にならないかと言えばそんな事はない。何とか抜け出したいと考えている処は、他のライダーと大差ないのだ。
ただ決定的に違っていたのは、千迅の思考には「諦めて後退する」と言う発想がなかった事だろうか。
そして、24周目へと突入してゆく。
ここまでは千迅、万理華、瀬理華が一進一退の攻防を繰り広げていた。
だがそれは抜きつ抜かれつの好レースと言う訳ではなく、どちらかと言えば誰が最初に脱落するかというチキンレースにも似た競り合いだったのだが。
しかし、このままではいずれそのままレースは終了してしまう。千迅と万理華と瀬理華、誰がどの順位についても、このままでは木下姉妹の優勝となってしまうのだ。
たかが練習試合だと考えればそれでも良いのだろう。このレースはあくまでもレースやマシンに慣れる為のものであって、ムキになり勝利を求めるものではないのだ。
だが、そうは考えない者も中にはいる。
「……頃合いね」
残り2周となり、ここで紅音が決断を下した。
と言ってもそれは、先ほどまでのように千迅へ何かしろと言う訳ではない。勝つ為に、彼女自身が動き出したのだ。
それは、木下姉妹がとる戦法に対抗する……第4の選択に他ならなかったのだった。
紅音が、前を行く3台に一気にすり寄る。ここまでデッドヒートを繰り広げていた千迅たちと違い、マシンを温存出来ていた事がここで功を奏したのだ。
『なんやぁ!?』
『こいつ……ちゃう、こいつら、仕掛けてくる気ぃか!?』
千迅の存在に注意が向き、彼女を何とかしようとムキになった代償として、木下姉妹のマシンもかなり消耗していた。
それもそのはずで、この戦法はイン側でもアウト側だろうが、本来の彼女たちのラインで走っている訳ではないのだ。あくまでも相手を後退させる手法であって、木下姉妹がベストラインを取った結果ではない。
コーナーというコーナーで、ハードブレーキングやタイヤに負荷の掛けるコーナーリングを駆使し相手の動きに合わせる。これがこの戦法最大のデメリットでもあるのだ。
早々に退いてくれる事が前提であり、千迅の様にここまで粘りを見せられるとは考えてもみなかったのだ。
それが、今回は紅音にとって有利に働く結果となる。沈黙を守って来た狼が、ここへきて双頭の蛇に牙を剥いたのだった。
第13コーナー入り口で、紅音が先行する3台に仕掛ける。右曲がりのコーナーの最外に、かなり無理をして回り込んだのだ。
「こ……こいつっ!? ここで、外からっ!?」
千迅の外側についていた瀬理華が、突如自分の外側に出現した紅音の姿に驚きの声を上げる。3台並走でも普通では見る事のない芸当なのに、紅音の参戦で4台が並んで走ると言う異質な光景が作られた。
サーキットの路面幅はかなり広く、もしもレーシングマシン6台が並んでもまだ余裕があるだろうか。それでもそれは、ゆっくりと並走するならという話で、レースをするレベルで速度を出しているマシンのする事ではない。
そしてここで、瀬理華は今までにない状況に追い込まれていた。
いつもは万理華と共に相手を挟み込んでいたのに、今回は自分が挟み込まれると言う状況に置かれたのだ。これには、そんな状態に慣れていない者として慌てるのも仕方がなかった。
『ちょお落ち着き、瀬理華! まだ、ウチらの方が有利やで!』
この戦法を今まで使い続けてきた側にしてみれば、見様見真似で仕掛けてきた紅音の行為などすぐにボロが出ると万理華は考えた。
それも、一方では間違いではない。生兵法は怪我の元とは、古くから言われている格言でもあるのだ。
ただし今回に限っては、それは間違いであるとも言えた。
『こ……こいつ!』
ランチングコーナーを抜けてバックストレート。そして度胸試しコーナーから西区間へ。
コース上の全てで、4台はまるで曲芸でも演じている様に乱れる事なく並んで疾駆していた。これにはさすがの万理華も、焦りを覚えるなという方が無理であった。
その光景を、美里は唖然として見つめていた。
「……こんな光景、今までに見た事もない」
その理由は、この言葉に集約されていた。
それもその筈で、目の前のマシンを抜く事が何よりも目的としているレースにおいて、飛び出す事も抜く事もせずにただ並んで走るなど、そう目にする事はないだろう。しかも、ラップタイムはそれなりに出ているのだから余計に驚きと言える。
「うふふ。たぶん、これが見納めかも知れないけどね。でも紅音ったら、中々の策士ね」
美里にそう答えながら、千晶も面白いものを見ている様に目を輝かせて最後の周回を注視したのだった。
そして25周目。ファイナルラップとなる。泣いても笑っても、これが最後の周回である。
このレースに参加している全員が、最後の1周に残る全ての力を注ぎこむのがレースでは定石だろう。そして千迅と紅音、万理華と瀬理華もまた、相手よりも先にチェッカーフラッグを受けようと最後の力を振り絞り疾駆した。
『くっ! ……このっ!』
『瀬理華! 大丈夫なんか!?』
そうは言っても、これまで千迅と木下姉妹はかなり無理な走行をしている。気力や体力は勿論、タイヤの挙動も不安定で、思った動きを取れないでいたのだった。
第1コーナーのブレーキングからマシンをバンク、旋回の途中で、千迅のイン側を走る瀬理華は後輪が思った以上に滑り思わず激しい転倒……ハイサイドを起こしそうになっていたのだった。
イン側の選手が派手に転べば、その外側にいる千迅と万理華をも巻き込む事は必至だ。瀬理華は何とか挙動を取り戻し、辛うじてそうなる事だけは避けたのだった。
それでもこの時、彼女に多大な恐怖が植え付けられたのは間違いがない。
『だ……大丈夫や』
やや元気のない声で、瀬理華は万理華へと返答した。
ホッと安堵する万理華だが、彼女のマシンも決して安心出来る状態ではない。万理華のマシンも、瀬理華と同じ様な動きをしていたのだ。
普通に考えれば、瀬理華に起きる事は万理華にも起こりえるだろう。
恐怖と隣り合わせとなりながらも、4台は並走のまま最後の1周の完走を目指す。
レースも終盤となりマシンの挙動が安定しない4人は、それでも一歩も引く事なくファイナルラップへと突入していった。
レースの結末は、最後の一瞬まで目の離せない展開となっていたのだった。




