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遥かなるチェッカーの先へ  作者: 綾部 響
5.灼熱の対抗戦
35/42

ミドルステージ

逸る千迅を、紅音は抑えつける事に成功した。

レースはまだまだ長い。

しかし紅音の考えは兎も角として、千迅は先を急ぎたくてウズウズしていたのだった。

 レースは5周も過ぎると、さらに動きを見せなくなる。それぞれラップタイムに見合った位置に落ち着き、その周辺のライダーと激しい睨み合いとなるからだ。

 敵は何も、相手ライダーだけではない。マシンの調子にも気を配らなければならないし、何よりも太陽が容赦なく照り付けるこの暑さも問題だった。

 路面温度は刻一刻と上昇し、容易にタイヤ、マシン、ライダーを焦がしていく。そして僅かでも判断を誤れば、簡単にリタイヤせざるを得なくなってしまうのだ。


「ここからが長いな。私たちにしてみればどうって事のない周回だけど、1年生にはきついだろう。まだマシンにも慣れていないだろうし、何よりもこの暑さだからな」


 美里たちが居を構えるコントロールセンターの指揮所内はエアコンが効いているから室外の暑さは分からないのだが、室外温を示す温度計はすでに28℃を示していた。このままならば、すぐに30℃を超えてしまうだろう。


「そうね。彼女たちも分かっているだろうけど、我慢が必要になる時もあるわ。それがどれだけ実践出来るかが問題ね」


 そんな美里の意見には、千晶も同感だった。それは、同じライダーだから分かる感想でもあった。


 いかに千晶が高校生ナンバー1ライダーだったとしても、それは何も特殊な能力を使っての結果ではない。

 異常に周囲よりも速く走れると言う訳でもなく、常に予選1位本選1位(ポール・トゥ・ウィン)を繰り返してのものでもないのだ。

 確かに彼女は、高校生でも抜きんでた速さを持っている。だが、レースはライダーの才能だけで全てが決まる訳ではなく、時には我慢し、辛酸を舐める事も少なくなかった。

 そんな全てを受け止め乗り越えて、千晶はインターハイ1位の栄誉に輝いていたのだった。だからこそ、今サーキット場で戦う彼女たちの気持ちも、十分に理解出来ていた。




『紅音ちゃん、前と少し差が開いちゃったけど……』


 紅音の指示通り1位集団の最後尾に付いた千迅は、その後方を走る紅音に向けてインカムで問い掛けた。

 彼女の言う通りに競り合う事を止めて後ろに下がった千迅だったが、その後わずか数周でおよそ2秒の差を開けられていたのだった。

 2秒……と言えば、一般人にはほんの僅かな時間でしかない。だがこれがバイクや自動車ともなれば、一般道でも十数メートルの距離となる。

 ましてやレーシングマシンの2秒なのだ。その差は、40mに達しようかとしていた。

 そして高速で走るレーサーにとって、2秒差と言うのは致命的でもあった。

 止まっているならば即座に埋められる距離だが、当然の事ながら相手もマシンを走らせており、ラップタイムによほどの開きがなければ埋められない差でもあったのだ千迅が焦りを浮かべるのも、当然の事と言えたのだが。


『何言ってるのよ、千迅。レースはまだ始まったばかり。まだ中盤にも差し掛かっていないわ。こんな所で勝負を仕掛けてどうするのよ?』


 そんな不安を湛えた千迅の疑問に、紅音はいっそ冷ややかと言った声音で返答していた。

 ただ、いかに紅音が千迅に対して含む処があったとしても、チームメイトに向けてこれはやや冷たい態度とも思える。ただしこれには、紅音なりの理由もあった。


『でも……もう2秒は開けられて……』


『あなたねぇ。素人じゃないんだから、少しは気付きなさい。このまま走り続けても危険なだけだし、マシンの消耗も無視出来ないものになるわ。そうなったら、もう後半の競り合いには勝てないわよ?』


 だから紅音は、千迅の不安を一蹴していた。

 確かに今の千迅は、久しぶりのレースと言う事もありやや入れ込み過ぎの嫌いがあった。

 千迅とて中等部ではゼッケン2をつけるレーサーであり、レース経験もそれなりにこなしている。……もっとも、完走率は著しく低い訳だが。

 そんな千迅は焦りで自分を見失っており、それに気づいた紅音が彼女に自制を促したのだった。


『それに……見て』


 勿論、紅音が千迅を抑えた理由はそれだけではない。いや……むしろ、こちらの方が本意だったのかも知れないが。

 紅音に促されて、千迅は改めて前を行く数台のバイクに目を向けた。

 現在千迅は7位、紅音は8位のポジションにあり、前には6台3チームのマシンが密集して走っている。


『そろそろタイヤも温まって来た事だし、上位陣にも動きがあるわよ。あの人たちの争いに、わざわざ参加してやる必要なんてないじゃない』


 紅音の言う通り、すでに前方では各車が互いに牽制しあう素振りを見せていた。これから、どんどんとその動きはあからさまとなってくるだろう。

 経験上位者の仕掛けに千迅や紅音が振り回されれば、たちまち順位を落としてしまうのは目に見えて明らかだった。


『で……でも』


 もしもこれがスプリントレースならば、千迅は感じるままに加速していったであろう。……転倒するまで。

 いや、必ずしも転ぶとは言い切れないが、今までの彼女から考えればその可能性は非常に高い。

 しかし、良くも悪くもそれが彼女のスタイルであり、だからこそ徐々に離されて行くこの現状に不安を覚えていたのだった。


『それに……』


 ただし、紅音の話はそれだけと言うものではなかった。

 千迅の反論を遮った紅音だが、随分と間を開けて続きを口にしたのだった。それはどこか、非常に言い辛そうでもある。


『あなたは、前を行く人たちよりも速いわ。木島先輩や山田先輩よりも……ね。マシンの性能に問題なければ、たぶん終盤の競り合いで抜く事が出来る』


 紅音としては、千迅を褒めるなど出来れば口にしたくなかったのである。そんな事は、中等部3年間でも1度たりともした事がないのだ。

 互いによく知る間柄で、誰よりも長く共に走って来た。性格はもちろん、ライディングのクセやその自力も良く心得ていた。

 それでも紅音は、千迅の事を「親友」とは認めない。紅音の中で千迅とは、良くて「ライバル」なのだ。


 そんな紅音が後方より観察して出した答えがこれなのだ。

 タイムトライアルがなく正確なラップタイムが分からなかったが、実際に走ってみれば選手各個人の速さも分かる。これは紅音が、後ろから見続けた冷静な分析結果だった。

 もっとも、それが真実であっても、できれば口が裂けてでも言いたくはなかったであろうが。

 それでもあえて千迅に告げたのは、何よりも誰よりも……負けたくなかったからだ。


『う……うん!』


 千迅の方も、まさか紅音に褒められる様な言葉を告げられるとは思いもよらず、一瞬間を開けた後に嬉しそうな声で応じていた。その声音には、先ほどまでの不安や焦りは微塵も含まれてはいない。


『か……かといって、これ以上離されるのも得策ではないわ。できる限りペースを崩さずに、なるべくスムーズなラインで追走するわよ。1秒くらいの差なら後半……巻き返せる』


『分かった、紅音ちゃん!』


 そんな千迅の無垢な返事を聞いて、紅音は思わず赤面してさらに指示を出していた。

 彼女はこの時心底思っていた。「……ヘルメットを被っていて良かった」……と。


 しかし残念ながら、そんなやり取りも筒抜けになっていた。

 それは言うまでもなく、千晶たちのいるコントロールタワー指揮所内にいる上級生たち。彼女たちには、それまでの会話は全て聞かれていたのだった。

 それは何も千迅と紅音の会話だけではない。今コースを走っている、全てのライダーたちの会話がここに流れてきていたのだから当然の事だろう。

 ただし2人の会話は、他のチームには聞こえない仕様になっている。

 作戦の伝達や指揮を行うのにペアを組んでいる者同士の会話を聞く必要はあるが、それを他者に聞かせる事はしない。少なくとも今現在においては、同じ学校の生徒であっても……敵同士なのだ。

 それでも、先ほどの会話はこの場にいる全員に聞かれていた。

 いや、他のチームの会話を聞く事に専念している者も少なくなかったのだが、千晶と美里には全て傍聴されていた事となる。


「ほんと、あいつらって仲が良いのか悪いのか……」


 千迅と紅音の会話を聞いて、美里が微苦笑を浮かべて隣の千晶に零す。

 普段から関係の良し悪しが分かり辛い2人だが、協力するとは思えない間柄なのは彼女たちを見てきた美里の正直な感想だったのだ。


「さぁ……。2人が仲良しなのかは分からないけど、1つだけはっきりしているのは……」


 美里の問い掛けに答えていた千晶は、そこまで言って再びサーキットの方へと目をやり。


「2人とも、負けず嫌いだと言う事かしらね」


 そして、とても面白そうに笑みを浮かべてそう口にしたのだった。


レースは序盤を終えて中盤へ。

順位は徐々に移り変わり、各所で激しいドッグファイトへと変容していく。

……そして、千迅と紅音にもその戦いに誘う2つの影が接近しつつあった!

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