プラクティス
佐々木原雅の申し出を受けて、翔紅学園と宗麟高校の練習試合が実現した。
そして翌日。
千迅たちは、すでにサーキットの上にいた。
合宿初日となる練習は、本田資立翔紅学園とヤナハ資立第一宗麟高校との練習試合となった。しかもその内容は、レギュラークラスが殆ど参加しないと言うものである。
参加しない……と言うのは少し意味合いが違い、どちらかと言えば「出来ない」が正しいだろうか。
合宿明けには全日本グランプリ250CCクラススプリントレースが控えており、各校のレギュラークラスでライセンス所有者はそれに参加する事が決まっているのだ。
今ここで下手に練習試合に参加して体力を消耗させ集中力が散漫となったり、万一怪我をしようものならば目も当てられない。
「試合形式は『タッグレース』で行います。チーム分けは、今回はいつも行っている通りでお願いね。先行と後行は各々が決めて良いわ。何か質問はあるかしら?」
そして双方のメンバーは、すでにここ「菅島第二サーキット」に集合しミーティングを行っていたのだった。
監督として全体を仕切る千晶の言葉に、誰からも異論は挟まれなかった。
今回も後行を走る事となる紅音さえ、この決定に異議を唱えなかったのだ。
「あれ? 紅音ちゃん、私が前でも良いの?」
余りにも静かな紅音に対して、千迅の方がそう問い掛けていた。
ただし千迅の方も、先日から先行を走るようになりその楽しさを実感している。後行の大変さを考えれば、そう簡単に譲るつもりは無かったのだが。
それでも聞き方によっては千迅が後行でも良いと言っている様に聞こえないでもないが、これはあくまでも役割をハッキリとさせる為のものでもある。
「……良いわよ。その代わり……勝つわよ」
そして紅音は、そんな千迅に嘆息交じりの返事をしたのだった。
彼女は、十分に自分と千迅の特性を理解していた。
共に勝気な性格で、誰かの後ろに張り付く様な動きは苦手としていながらも、それでもサポートに適しているのは千迅より自分だと理解していた。
そして何よりも紅音は、負ける事が大嫌いだったのだ。
「うん! もっちろんっ!」
元気いっぱいにそう答えた千迅を見て、紅音は再度大きな溜息を吐いたのだった。
千迅としてはどんなレースでも負ける気など少しも無いのだからこれは当然の返答なのだが、とにかく転倒率が高い彼女が何を根拠としてその様に自信溢れる返事をするのか、紅音には理解出来なかったのだった。
「え? どうしたの、紅音ちゃん?」
その余りに「呆れました」と言わんばかりの態度を前にして、千迅が能天気な疑問を紅音に投げ掛ける。
千迅の完走率を考えれば彼女の自信満々な返答に嘆息してもおかしくないのだが、千迅はそんな事など歯牙にもかけておらず、だからこそ紅音はため息をつかずにはいられないのだった。
「とにかくあなたは、転倒だけはしない様に気を付ける事。……良いわね?」
まるで姉が妹に言い聞かせるかの様に、紅音は千迅に念を押し。
「分かってるわよぉ……」
先ほどと違い意気消沈した千迅は、唇を尖らせて紅音に返事をしたのだった。
そこから30分後。
第1レースに参加するメンバーは、すでに練習走行に入っていた。
新入部員の殆どは、この「菅嶋第二サーキット」を利用するのは初めてである。すぐに熟知する事は出来なくとも、このコースについてその流れを把握する為にこの練習走行は重要であった。
各レーサーは僅かな練習走行中にこのコースの“クセ”を知ろうと、そしてこのコースを攻略しようと黙々と走ってはピットインを繰り返していたのだった。
当然の事ながら、この合宿には技術チームも参加しており、マシンのセッティング変更は彼女たちの仕事である。
「……ふう」
数回目のピットインを果たした紅音は、ヘルメットのバイザーを挙げて大きく息を吐いた。
数えるほどしか乗っていない「NFR250Ⅱ」をコントロール下に置くだけでも随分と労力を要するのだが、最も天敵なのは……この暑さであろう。
「お帰り。随分としんどそうだな」
そして戻ってきた紅音を迎えたのは、第一自動二輪倶楽部でメカニックチームに所属している「真下このみ」だった。中等部時代から紅音たちのマシンの面倒を見ており、今は1年メカニックのチームリーダーを務めている。
鍔を後ろにして被ったキャップからはオレンジ色に見える短い髪が見える。
油まみれのその顔に湛えられたブラウンの瞳がランランと輝き、愉快そうに紅音へと向けられていた。
「……ええ。正直に言えば、随分とタフだわ。レースが出来るのは嬉しいんだけど、まだまだ不慣れなマシンではどれだけ戦えるのか……」
そんな彼女の前では、紅音も随分と素直だった。
元来信頼関係が重視されるライダーとメカニックにおいて、長い付き合いと言う事もあり紅音も心情を偽る真似はしなかった。
「はっはは。まぁ、こいつではレースするのは初めてなんだから、仕方ないんじゃないか?」
ニッと笑みを浮かべて答えるこのみの顔は、どこか少年の様だった。
真下このみはその口調も然る事ながら、風貌からしてまるで男の子の様である。
油で汚れた顔も、女子高校生だと言うのに気にもしない。
身に着けている物も今は作業用ツナギだが、普段から飾り気のないボーイッシュな物を好んでいる。
そしてその体型も、残念ながら女の子らしさには縁がなかった。
もうすぐ16歳になると言うのに、胸はまな板のようであり、全体的に女性らしい丸みを帯びていない。さらにそれを助長する様に。
「これだけ暑いと、最後までマシンが持つのか心配よね」
「なぁに。ボクがこのマシンの面倒を見ているんだぜ? 途中で音を上げる様な事がある筈ないだろ?」
このみは、紅音の不安を軽く一蹴して見せた。
そんな彼女の言葉には、どこか安心感があり、紅音もその台詞に異論はなかったのだった。
真下このみが男の子然としている最たる理由は、やはりこの「ボク」と言う言葉遣いだろうか。
中等部時代からマシンの造詣に深く努力家でもある彼女は、レーシングの花形であるライダーではないものの、実は密かに高い人気を得ていたのだった。もっとも、その事を本人は気付いていないのだが。
「それで? 何か気になる様な事はあったのか? 短い時間しかないけど、出来る限りセッティングしてやるぜ?」
呆れるほどに好青年然としたこのみの言葉であったが、それには紅音がゆっくりと首を振って応えた。
「いいえ、必要ないわ。じっくりとタイムを縮める為のトライアルならともかく、もう余り時間がないもの。後は時間の限り周って、このコースに慣れる事に専念するわ」
上げていたバイザーを再び下ろして、紅音はハンドルを取ると前方を見つめた。
軽く回したスロットルに呼応して、エンジンが軽快な咆哮を上げる。
「そうか。なら、行ってこい! ただし、無茶はするなよな」
このみの言葉に親指を立ててサムズアップで応え、紅音は再び飛び出していった。
その数分後には、今度は千迅がピットインしてきた。
「ぷっはぁ―――っ! 暑いねぇ!」
戻ってくるなり開口一番、千迅は大きな声でそう叫んでいた。
もっともその内容とは裏腹に、彼女の表情はどこか嬉しそうな……楽しそうでもある。
「なんだよ。ご機嫌だな、千迅。マシンの調子はどうだ?」
そんな嬉々とした雰囲気を感じ取ってか、話しかけるこのみもどこか愉快そうだった。
「うん、良いよ! 難しいコースだけど、どの場所でも問題ないパフォーマンスが出来たよ。さすがは、このみちゃんだね!」
ゴクゴクと水を呷った千迅は、満面の笑みでそう答えていた。
このみとしては、千迅のその表情を見る限りで問題がない事を察したのだった。良くも悪くも千迅は嘘のつけない性格なのだから、その顔を見れば不安があるかどうかなどすぐに分かると言うものなのだ。
「そうか。なら、どうする? このままピットに入って、休憩するか? コース上の体感温度は、たぶん50℃以上だろう? 体力は温存しておいた方が……」
「ううん! もう少し走ってくるよ!」
レースは、体力勝負。集中力を持続させるにも、やはり体力は必須である。
それを考えれば、マシンに問題がないのなら涼しい所で少しでも休憩する方が得策と言う事もある。
事実、両校の上級生やセッティングを済ませた下級生たちは、ガレージ内や木陰でレーサースーツを脱いで涼んでいる。
「……分かったよ。でもくれぐれも、転倒はするなよ? それから、体調に異変を感じたらすぐに戻って来る事。いいな?」
「うんっ!」
転倒をすれば、レース本番前に出番は終了してしまう。
そして、暑さなどで過剰に体力を消耗しても同様だ。今の千迅にとって一番の大敵は、まさにこの2つなのだが。
「……ったく。どこまで分かっているのやら」
返事だけは元気の良い千迅が飛び出していった後を見つめながら、このみは一人呆れるようにそう呟いていたのだった。
練習走行を終え、いよいよスタートを待つだけとなった。
炎天下の元、乙女たちの熱き戦いが始まろうとしていた!




