乗れてる
仮想空間ないとは言え、千迅たちのレースが始まろうとしていた。
嬉々とした表情の千迅とは違い、紅音は不安を抱えていたのだが……。
シグナルは、レッドから……グリーンへ。それと同時に、スターティンググリッドに並んだ16台のマシンは、一斉にスタートを切った。
VR世界の中とは言え、ライダーたちにとってその臨場感は本当のレースに勝るとも劣らない。
爆音を轟かせて、各レーシングマシンは我先にと第一コーナーへと向かって行った。
『紅音ちゃん、付いて来てる!?』
殊のほか好スタートを切った千迅は、インカムを用いて後方の紅音に声を掛けるも。
『当然よ! あなたの2台後ろ!』
千迅の言い様に少し気分を害されたのか、どこかムッとした声で紅音は返答した。
今回のスタートだけを見れば、確かに紅音は千迅に後れを取っていた。
これがタッグレースではなくスプリントやマッチレースであったとしても、スタート時点で紅音が千迅の後塵を浴びていた事は間違いない。
ただその一方で、紅音としては千迅の前に出ないよう心掛けていたのも事実なのだ。
これはタッグレースであり、千迅は先行、紅音は後行。それがどれだけ不本意であっても、自身の気分で作戦を反故にする訳にはいかない。
だからこそ紅音は、グッと我欲を捨ててわざとスタートをワンテンポ遅らせたのだ。
しかしそれを改めて千迅に確認されれば、心情はどうあれ声に棘が入るのも致し方ない。しかも。
『じゃあ、どんどん飛ばしてくからねっ! ちゃんとついて来てよっ!』
だが残念な事に、千迅にはそんな紅音の気苦労など全く解してはいなかった。
とにかく久々に比較的自由な走りが出来ると言う嬉しさから、頭に浮かんだ言葉を後方の紅音に投げ掛けただけだった。
本人にその様な意図がないにしろ、どこか上からの台詞を投げ掛けられれば、紅音の苛立ちも更に上がろうというものだ。
『あなたこそ、序盤でこける様な真似はしないでね!』
売り言葉に買い言葉……ではないが、紅音の口振りもどうにも挑発的なものとなってしまっていた。もっとも、その言葉の内容は決して憎まれ口ばかりと言う訳では無い。
とにかく千迅は、そのライディングスピードはともかくとして、転倒の多いライダーだ。
タッグレースでは、どちらか一方のライダーが棄権した場合、もう一方のライダーがどれほど健在でも失格となる。紅音は、その事を危惧していた。
だが、その心配は、今回に限っては杞憂と言って良かった。
「……もらいっ!」
今日の千迅は、後方から見る紅音が驚くほど調子が良さそうだったのだ。
人の調子がバイオリズムに左右されている以上、その日その時の好不調に規則性はない。なんて事の無い日に絶好調かと思えば、肝心な時に不調である時も少なくないだろう。
そして今日の千迅は、自分でも驚くほどリズムよくバイクを操作出来ていた。
単なる練習……それも、VRレーシングという実際の運転ではないこの状況にも関わらず、千迅の神経はナチュラルに研ぎ澄まされていたのだ。
(おっもしろ―――いっ!)
波に乗っている状態ならば、全ての事が上手く行く。
それこそ、普段は上手に決まらない微妙なコントロールや、狙った通りのライン取りなど、まるで全てが成功する様な錯覚に囚われる程に。
そしてそんな現況なら、当人がこの上なく楽しいと感じるのもまた当然であると言えた。
見事にマシンをスピードに乗せ、千迅は次々とコーナーを攻略して行った。
(……乗れてる)
1台挟んだ後方で千迅の走りを見て、紅音はそう感じていた。
それは、彼女が千迅の動きを見ての感想だけではなく、千迅から発せられる気配をも読み取っての見解であり、そして間違いではなかった。
(……なんて楽しそう)
千迅のライディングはリズム良く、迷い無く、見事にコーナーを攻略して行く。
短くない期間を共に過ごして来た紅音には、ヘルメットの下で嬉々とした笑顔を浮かべている千迅が、手に取る様に分かったのだった。
(これは、早くあの子の後ろに付いておかないと……厄介ね)
そしてそれを理解したからこそ、紅音は目の前にいるライダーを早々に抜く事を決めたのだった。
乗れているライダーと言うのは、躊躇なく先へと進んで行く。
特に千迅の様な性格のライダーならば、目の前にいるライバルをとにかく抜いて、どんどん速度を上げようと考えるだろう。そして、実際千迅はそう考えていたのだ。
このままラップタイムの違うライダーが2人の間に居座り続ければ、千迅と紅音の差は広がる一方となってしまう。
これでは紅音が千迅をフォローするどころか、距離が開きすぎてしまえばどれほど順位を上げても無効となってしまう。
それはそのまま、紅音が千迅の足を引っ張ってしまうという結果にも繋がるのだ。
(それだけは……イヤッ!)
ただでさえ、千迅の背中を見て走り続けなければならないのだ。
それが例え作戦だと理解していても、まるで後塵を拝する様に走り続けるのは、少なからず隠忍自重を強いられる事でもある。
それに加えて、自分のせいで千迅の足を引っ張る結果となった暁には、自己嫌悪に陥る事は間違いない。それが分かる紅音は、未だタイヤが温まっていない状態であるにも関わらず、前を走る選手を抜きに掛ったのだった。
タイヤと路面には、密接な関係がある事は言うまでもない。それはそのまま、ライダーが叩き出すラップタイムにも影響する。
スタート直後に置いて、タイヤは常温以下の温度をしており、あくまでも路面上にあるという状態だ。
このままでは、タイヤが路面に食いつき粘りを見せる摩擦係数、いわゆる「ミュー」は低く、バイクのパワーを路面へと伝えきる事が出来ずまた、伝えたとしてもその力は逃げてグリップしてくれないのだ。
そうなれば、簡単にタイヤは滑る……いわゆるスリップし、タイムアップはおろか、そのまま転倒してしまう可能性さえ孕んで来る。
基本的にレースライダーは、序盤で無茶な追い越しはしない。それはそのまま、このタイヤの温度に依る処が大きいのだ。
勿論、他の理由も存在しているが、その様な状況であるのだ。未だ団子状態の中にある紅音が、追い抜きを掛けるのは一種の無謀……早計な判断だと思わされるのだが。
(……ここっ!)
紅音は前を行くライダーの僅かなスキを突き、コーナーの内側……インにフロントカウルをねじ込んだ。
前を行くライダーは思わぬ早々のアタックに驚いたのか、僅かにアウト側へと逃げてしまう。それを見逃さなかった紅音は、コーナー立ち上がりと共に加速を掛け、そのまま見事に前走者を抜き去ったのだった。
本当ならばこの様な抜き方は、ラップタイムに余程の差がなければ行わないだろう。
今ここまで無理をしなくとも、タイヤが温まった時点で仕掛けても一向に問題ない。後数周を消化してからでも、決して遅くは無いのだ。
だが先の理由から紅音は英断し、そしてそれが間違いでなかった事がすぐにハッキリとしたのだった。
紅音がそうした様に、乗れている千迅もまた前を走るライダーに襲い掛かっていた。こちらは確たる目的や作戦がある訳ではなく、単に勢いに任せての行為なのだが。
ただ乗れているライダーの恐ろしい処は、ネガティブな発想に囚われないという部分にある。「抜ける」と思ったら、自身や周囲の状況など顧みないのだ。
そして面白い事に、結果がそれに付いてくる。
(いけるっ!)
未だファーストラップであり、各車様子見でも決しておかしくない状況であるにも関わらず、千迅はまるでおもちゃを見つけた子猫の様に、目の前のライダーに襲い掛かっていた。
そのランディングには躊躇いはない。抜く事に、戸惑いがないのだ。
やや強引とも思えるライン取りで、千迅はアウト側から前走の選手を抜きに掛った。
(もう! 千迅のバカ!)
だがその様子は、後ろから見る紅音には冷や汗ものでもある。
なにせ、コーナーに突入しバイクが傾く……バンクしている状態で、わずかにその後輪が滑っていたからだ。
本当であるなら、それはそのバイクを操作している千迅も動揺すべき事である。
しかし勢いというのは不思議なもので、そんな慌てる場面であっても、当の千迅はそれさえ楽しんでいる風情があった。
紅音の懸念は見事に的中する。
レース序盤であるにもかかわらず、まるでスプリントレースであるかのように次々と追い抜きを掛ける千迅。
紅音の気苦労は、このレースが終わるまで収まりそうにない……。




