今日という日
(どうしても、今日でなければ)
ローウェンは執事室で、一通の書簡を手にしていた。
封筒には、ワグナ国の紋章。そしてその封蝋にも、鷲の紋章の印がくっきりと押しつけてあった。けれど、これは国王じきじきのものではなく、国王の要人についている、旧友からの手紙だ。それを手にして、ローウェンは気持ちが高ぶっていくのを抑えられなかった。
(チャンスはもう今日しかない)
実は、以前にも手紙は受け取っていた。
その内容は、ムイの真の名前が持つ力で、国王の妃の病を治したというものだった。
にわかには信じられない話だ。
けれど話を総合してみると、どうやら妃の病を治すために、ムイは国王陛下によって呼び寄せられた、ということに落ち着く。
この事実は、妃が完全に元気になるまでは他言無用とされ、国民にはまだ知らされていない。だが、それをローウェンは旧友に頼み込んで、彼に一切の迷惑を掛けないという約束で、秘密裏に教えてもらっていたのだ。
「なんと、あのムイが妃のご病気を治したと言うのか」
ローウェンは最初、信じられずにいた。けれど、ムイの名前の持つ力はすでに、リューンの『名を握る力』と同じものなのだと理解して把握している。
「まずは病の者にムイの真の名前を貸与する。そして、病の者が自らの命令によって、自らの病を治癒するのだという……まるで手品だな」
そして今回。トレビ領主ジーベン=トレビアヌの次女、サリーが心の病を患っていることを知っていた国王が、領地は小さく辺境ではあるが遠縁に当たるジーベンに、ムイに娘を治してもらうのはどうか、という書簡を送ったのだった。
その話に父親が大いに乗って、トレビ領主が国王に直々にお願いに上がった、という流れだ。
「ムイをサリー様に会わせ、病を癒すようにとの、国王陛下の確約をいただいたわけだが……」
手にしていた一枚の紙を、机の上に放った。
「このように手を回すのも、これ一度きり、だ」
サリーがここリンデンバウムの城を訪れる日を、ローウェンは狙った。旧友に頼んで、ムイの来訪を手配したのだった。
ムイがこの城、リンデンバウムでサリーの心の病を治す。
その事実が国王の知るところではないことに、唯一問題がある。もしこのことが国王の耳に入れば、計画が全て泡となってしまう。
国王は、この城でムイとリューンが出会うことを、厭う。シーア=ブリュンヒルドやその孫のライアンを使ってムイをリューンから奪った黒幕とは、紛れもなく、国王自身だからだ。
国王へのことの詳細を綴った書簡は国王へ、ムイへの招集はムイ本人へ。
別々に手配をし、偶然を装うよう骨を折ってくれた旧友に、ローウェンは心から感謝した。
(これで失敗ならもう、それまでのことだ)
リューンにはもう、名前を握って支配する力はない。
まだ世の中には知られていないが、それを声高に宣言すれば、リューンの元へと嫁いでこようとする、各地方の領主の娘は、後を絶たないだろう。
サリーとの婚約を真摯に断り続け、他の姫君とも交友を断ち続けたリューンを想う。
(リューン様にとっては、ムイが全てなのだ……)
愛しいということの想いの深さ、力強さ、ただ一人の人間を想い続ける純粋さ。
(リューン様の瞳には、ムイが映っている。いや、違う。ムイしか映っていないのだ。何年経ってもきっと、それは変わらない)
どうしても、リューンには幸せになって欲しかった。
ローウェンは、忌まわしい力を失ったというのに、まだ不幸の中にいるリューンを、憐れにも思った。