力は打ち消された
「……何か、わかったか?」
夜も更けた頃だった。
ローウェンがノックして部屋へ入るなり、ソファに深く腰掛け物思いにふけっていたリューンが、すかさず問うた。だが、その目にはまったく生気が宿っていない。その様子をローウェンは心で苦く思いながら、一枚の紙をリューンへと差し出した。
「ワグナ国王室の要職についている私の大学時代の友人からです」
リューンは受け取ると、窓際まで近寄って、月明かりを頼りに手紙を読み始めた。
ある程度の時間を置いてから、ローウェンがリューンへと話し掛ける。
「リューン様、ムイは本当に変わっている子でした。けれど、本当にここまでとは思ってもみなかったのです」
「…………」
「まさか、リューン様と同じような力を持っているとは……」
「……ああ」
「リューン様、ここ最近、私に何か命令をしましたか?」
「え、あ、そうだな。あまり身に覚えはないが……」
ムイが去ってからのリューンは、ある種抜け殻のようでもあった。何を訊いても生返事で、ムイを奪われたと思っていた頃の激情もない。それをローウェンは苦々しく思ってはいた。
時々、ムイの面影を追ってなのか、思わぬ場所で見かけることがある。それは廊下の突き当たりのドアの前、もしくは中庭のバラ園を抜けた芝生、そしてムイが飛び込んだ蓮の畑。
先日もアランに会った時、アランが心配そうに言っていたことを思い出す。
「ローウェン様、実は中庭の先にあるガゼボで、リューン様をお見かけするのですが……」
言いにくそうにして、顔を歪ませる。
「えっと……その、リューン様がガゼボのベンチをじっと見つめているんです」
「ベンチを?」
「はい……よく、ムイがそこに座っていて」
「そうなのか?」
「リューン様がムイを愛していらっしゃるのは俺、わかっていたんです。でも、俺と結婚させようとしていたし、ムイを遠ざけようとしていた。領主と侍女ではもちろん身分が違うから、それで結婚を諦めてるんだと思っていました」
「それは違う」
ローウェンの言葉が、強く響いた。
「ムイがお前のことを愛しているのだと、思っていたのだよ。あの方は、人に命令し言うことをきかせるような領主ではない。名を握る領主と言われていても、その力を一番忌み嫌っていたのは、リューン様本人だからね。だからこそ、ムイが真の名前を持たないことを……」
ローウェンが息をついた。
「心の底から安堵されていた」
アランが、俯いた。
「俺、勘違いしていたんだ。ムイが、あの人に縛られているのだと思っていた」
「誤解が解けて、良かったよ。今さらだけどね」
「ムイの面影を追っているリューン様の姿は、痛々しくて見ていられないんです。ローウェン様、ムイを連れ戻すことはできないんですか?」
アランの必死さが伝わってくる。ローウェンは以前から持っていたアランに対する好感を思い出したが、そのまま胸の中に仕舞った。
「色々とやってはいるんだけどね。君はとにかく、アンドリューの介護を続けてくれ」
「それはもちろんです。アンドリューは城を放り出された俺を拾い上げてくれた恩人です。俺のじいちゃんみたいなもんですからね。最後までちゃんと、俺が側にいますから」
心強い言葉に、ローウェンは思った。
(こうして、人と人は繋がっていくのだというのに。命令し従わせるなど、そんな愚かな力がどうしてこの世に存在するのだろうか。しかもそれをよってたかって、皆が欲するのはなぜだろうか?)
今。
この目の前にいるこの領主も、それが愚かなことだとわかるまでに、随分と遠回りをした。
(ムイに出逢えて、幸運だったのか、それとも……)
ローウェンはそんな心のうちを押し込め、リューンとの話を進めた。
「リューン様、私に何か命令をしてみてください。どうやら、ムイの力とリューン様の力が、相殺されたのではという気がしてならないのです」
「え、ああ、そうだな。やってみよう……」
沈黙があり、ローウェンが呆れて言った。
「別に何でもいいですよ」
「いや、こういうことは、慎重にしなければ……」
あまりにおどおどとしたリューンの様子にぷっと吹き出すと、「ムイを取り返してこい、ぐらいのことを言ったらどうですか?」と言う。
リューンが顔を上げて、表情を固くした。そして、すぐにもくしゃりと崩す。
「お前はいつも、俺の心臓をえぐってくるな」
「どうぞ、ご自由に」
「……では、ローウェン、ムイを……ムイを連れ戻してくれ」
弱々しい声。
「ローウェン、頼む。ムイを……ムイを……」
けれど、ローウェンは返事をしなかった。そしてまた、部屋からも出てはいかなかった。
そしてリューンは、名を握る力から解放された。
二度と。
命令することもなく、命令に従わせることもない。