逃げられない
「ムイ、歌を歌ってみろ」
なぜか、ここ数日ライアンが来ては、歌を歌うように言われる。
(名前のことは、もういいのかな)
絶対に名前を守ると心に強く決めていたムイだが、こうも何度も肩透かしを食らうと、さすがにどうしてなのだろうと疑問に思えてくる。
ライアンはムイが入れられている部屋へと入ってくると、どかっとベッドへと座った。ムイは、すぐにも窓際に避難して、ライアンとは距離を置いた。
(あまり近づきたくない)
ムイがあてがわれた部屋は、一階の奥の部屋だ。
ライアンはまずこの部屋へムイを連れてくると、「小部屋だが、お前一人ならここで十分だろう」と言って、荷物を放り投げた。
ライアンがムイを連れてきた部屋は、小部屋などとは到底言うことのできない、天井の高い広い部屋だった。
ムイは中に入ると、キョロっと見渡し、そして放られたカバンを椅子の上に置いた。
「お前の世話をする者だ。名前は何だったか……」
するとアランの隣に立っていた侍女が、キキと申します、と言って膝を折って礼をした。
「ああ、キキ。この子は大切な客人だ。この城は初めてなので、色々と骨を折ってやってくれ」
「承知しました」
こげ茶の髪を後ろで一つに束ね、そばかすが印象的なキキが、無表情のまま頷いた。
けれど、そのキキがいない隙を狙ってライアンが部屋へと訪ねてきているような気がして、ムイは警戒しながらライアンと今、対峙しているという状況だった。
「そんなに後ろに下がらなくても」
ぷっと吹き出して、ベッドに深く腰掛ける。
「リンデンバウムのお前の部屋は逃げ道があったが、ここにはないぞ」
ライアンが笑う。
ムイは後ろにある窓を覗き見た。
一階の部屋とはいえ、山の中に建つ地形からだろうが、窓の外は傾斜になっており、地上までは二階、もしくは三階ほどの高さがある。
リンデンバウムでは二階の部屋だがバルコニーがあったため、布に瘤を作って、手すりから垂らして地上へと降りることができた。けれど、この部屋は地上まではズドンと落ち込んでいて窓からはかなりの高さがあるし、バルコニーがないため、垂らす布を縛る手すりもない。
いわゆる、崖になっているのだ。
(この部屋から逃げ出すのは難しいだろうな)
この城へ来た初日、最初にムイが感じたことだった。
「その通りだよ。先に言っておくけれど、ここから脱出するのは、不可能だ」
ライアンが、楽しそうな笑みを浮かべて、ベッドのシーツを手で伸ばす。
「さあ、ここにおいで」
ライアンがベッドの上で手を伸ばす。
「ここへ来て、歌を歌ってくれ」
いつまでも無言のムイに痺れを切らして、ライアンが立ち上がった。ムイは、後ろ手に窓を開けた。
「……ムイ、その窓は危険だ。近づかない方がいい。危ないよ」
ライアンが、眉をひそめながらも、一歩、ムイへと近づいた。その分、ライアンの手が、ムイに近づく。
「おいで」
さらに、一歩、一歩と、歩を進める。
それを見たムイは、窓枠へと足を掛けた。
飛び降りて死んでも構わない、そんなムイの心の中が見えるような行為だった。
(リューン様の側にいられないなら、)
もう一方の足も掛けようとする。
「ムイ、危ないぞ。足でも滑らせたら、真っ逆さまだ」
膝を折っていた両足をそろそろと伸ばすと、窓枠に立って下を見た。
(絶対に、この人の言うことはきかない)
「わかった、わかったからっ‼︎」
ライアンが降参、というように両手を上げる。
「お前を大切にすることを誓う」
そして、後ろに数歩足を戻すと、ベッドに座り込んだ。
「だから、そこから降りてくれ」
ムイが疑いの目を向けると、ライアンは片手で両の目を塞ぐと、「やれやれ、そんな目で見ないでくれ」と言った。
ムイが足を伸ばしてそろっと窓枠から降りると、ライアンは苦笑いをしながら言った。
「お前には本当にヒヤヒヤさせられるな」
ベッドに座り直すと、ギギッと音がした。
「お前の歌を聞きたいだけなんだが……」
(変な人)
ムイはそろりと窓から距離を置くと、けれどベッドには行かず、その場でマリアがよく歌っていた歌を口ずさみ始めた。