シーア=ブリュンヒルド
「ムイとやら。名前を言う気になったかね?」
「…………」
「お前が、喋れないということは、ライアンから聞いておる。何もお前を取って食おうというわけじゃない。ただ、名前が知りたいだけなのだ」
目の前にいる老齢の男は、ムイをジロリと一瞥した。あちこちに刻まれた皺が、その人生を物語っているように見えて、ムイは畏敬の念を抱いた。
実は、相当な頑固で偏屈で嫌味な年寄りの男性を想像していたので、ムイはその想像とは正反対の、柔和な表情のシーア=ブリュンヒルドを前にして、驚きを隠せない。
(けれど、どんな人だろうと、絶対に名前は教えない)
シーアは、椅子に座りなおすと、扇子を取って自分へと風を送った。
「ライアンにもまだ教えていないようだな」
ぐっと口をつぐむ。そのライアンはここへ来るまでに、散々責めるのだろうと思っていた。だが、歌を歌って聞かせた日から、ライアンはムイの真の名前を一度たりとも要求してこない。
(どうしてだかわからないけれど……それでも絶対に誰にも教えない)
ムイは心でそう繰り返し、強く強く思った。その思いが顔に出ていたのだろう。シーアがそのムイの様子を見て、顔をしかめる。立ち上がり、そして言った。
「なるほど困ったことになったな。すんなりと手に入るのだと思っておったのだが」
強い口調。責められている。けれど、ムイは眉根を寄せて、ぐっと耐えた。
(どんな目にあっても、名前を守る)
「まあ、よい。ライアンにでも任せよう」
緊張の糸が切れた。シーアはその場から去ってしまう。ムイはだだっ広い部屋にぽつんと一人、取り残された。
改めて大広間を見回す。リューンの城より、どこもかしこもがはるかに大きくて広い。ここへ連れてこられるまで、延々と続く廊下をかなりの距離を歩いたし、たくさんの部屋を通って、ようやくこの大広間に辿り着いたのもある。
ムイは、部屋のドアを開けて、廊下に出た。そのドアも、ムイの身長の二倍もある大きなものだ。重厚で重く、かなりの力と体重をかけて、押し開ける。廊下は左右に続いており、どっちから来たのかも分かっていない。ムイは、キョロキョロとしながら、そっと足を進めた。
(すごく広い。リューン様のお城とは、また全然違う)
リューンの城の白いガゼボや湖の見渡せるバルコニーが、懐かしく思い出された。早朝もバラ園の匂い。料理室から聞こえてくる、マリアやソルベたちの荒っぽい会話。
鼻の奥がツンと痛んだ。
それらはすでに思い出に昇華されたものではなく、まだムイの五感が身近に感じる、生々しいものなのだ。
鼻が、バラの香りやガゼボに吹く風の匂いを。口が、マリアが作るまかないのサンドイッチの味を。目が、キラキラと太陽の光を反射させる広いマニ湖の湖面を。耳が、朝目覚ましがわりにしていた小鳥のさえずりを。
そして。
肌が暖かく包み込んでくれるリューンの体温を。
その全てを覚えている。
(リューン様に会いたい)
涙がぼろぼろ、溢れてこぼれる。
ムイは、涙を袖でぐいっと拭うと、そのまま延々と続く廊下を進んでいった。