歌を歌って
「なんだ? お前は、声を出せるのか?」
暗闇の中、後ろから声がして、ムイは飛び上がった。振り返るとそこに、ライアンが立っている。夕食を取った後、ライアンの目を盗んで宿屋を抜け出し、馬車が停めてある広場に行った。その車輪に背を持たせ掛けて、膝を抱えて座る。
ホウホウ、と遠くにフクロウの鳴き声。その声や風の音を聞いていると、ムイは途端に寂しくなり、膝に顔を埋めた。
(リューン様と離れて、まだ一日しか経っていないのに)
涙が出てきたが、ムイはそのままにしていた。鼻をすすると、思い出す。くしゃみをして、リューンが上着を貸してくれたこと。
(思い出しちゃだめだ。辛くなるだけ。違うことを考えよう)
すると今度は、城の料理室でのことが思い出される。マリアの機嫌が良い時は、皆んなで歌を歌って、夕食の後片付けをしていた。後片付けが終われば、一日の仕事も終わる。そんな気持ちの上での開放感からか、皆が楽しげに歌い上げるのだ。
まだ声が出せなかったムイは、歌の拍子に合わせて身体を動かすだけだったが、それでも楽しくて満足していた。
(みんなで笑ったり歌ったり。楽しかったな……)
じわっと涙が滲んで、ムイは慌てて、また違うことを考えようとした。けれど、頭の中はもう、マリアの歌が飛び回っていて、追い出せない。
仕方なく、ムイはマリアが歌っていた歌を口にした。
「Two Thousand Miles、I’ts very far……」
(この歌、マリアがよく歌っていたっけ)
歌詞がおぼろげではあるが、そこはハミングで歌う。歌っているうちに、ムイは楽しい気持ちになってきた。これなら、こうして歌を歌いながらなら、リューン様を忘れて生きていけるのかも、そう思い始めた時、声を掛けられたのだ。
「歌が歌えるだなんて、一体どういうことだ?」
立ち上がったまま、胸の前で手をギュッと握る。声を出せることを、ライアンに知られてしまった。
「お前は喋れないはずだろう」
ライアンがにじり寄ってきて、ムイの腕を掴んだ。
「皆を……リューン殿を騙していたのか?」
ううんとかぶりを振って、ムイは全力で否定した。この声は、リューンに名前を差し出した時、代わりに貰ったものだ。
「声を出してみろ」
ムイは、ぎゅっと目も口も瞑った。
「声を出してみろと言っている」
掴まれた腕に力が入り、ムイはたまらずその痛みに、声を上げた。
「んんっ」
パッと、手を離されて、後ろへと仰け反る。掴まれていた腕をもう一方の手でさすると、少しだけ痛みが和らいだ気がした。
「なるほど、お前は僕のことも騙していた、ということだな」
ムイは咄嗟に身構えた。これで、喋れるなら名前を言えと、迫られるに決まっている。
(言うもんか、絶対に言うもんか)
ぐっと唇を噛んだ。
けれど、ライアンの口から出た言葉は、思いも寄らぬ内容だった。
「さっきの歌をもう一度、聞かせてくれ」
え、と思った。
けれど、いつまで経ってもライアンのことは信じられない。噛んだ唇をもっと強く噛んだ。足はじりじりと後ろへとにじり動いていく。
「逃げるなよ、ここへ来い」
ライアンが、その場にどかっと座り込む。
「早くここへ来るんだ」
ムイが躊躇していると、「お祖父様にリューン殿のことをお話しするぞ」
脅されて、身体が縮み上がる。そろそろと近づき、隣に座った。
「さっきの歌を歌え」
ムイが噛んだ唇を離し、そして小さな声で歌い出すと、ライアンは目を瞑った。
マリアが気持ちよさそうに歌っていたのを脳裏に浮かべながら、ムイは歌っていった。