あなたと離れて
「愛人、だなんてただのジョークだから安心するが良い」
ムイがこくんと頷くと、ライアンは笑った。車輪が石でも踏みつけたのだろうか、馬車がぐらっと揺れて、肩が壁に当たった。肩に痛みがあったが、目の前の悲しみが大き過ぎて、大したことには思えなかった。
「しかし、よく決心してくれたな。名前を取り返すことができるなんて、思っても見なかったぞ。お祖父様もお喜びになるだろう」
ムイが、不安げな顔を見せると、ライアンは笑って手を伸ばした。ムイの肩に手を置いて、そして言った。
「大丈夫さ、お祖父様はお前を連れて帰れば、リューン殿には手を出すまい」
ムイが、不安顔のまま、顎を打つ。その様子を見て、ライアンはさらに続けた。
「まあ、でも縁談の方は受けてもらわないと困るけどな」
「…………」
「はは、そんな怖い顔をするな。せっかくの可愛い顔が台無しになる」
ライアンが、ムイの肩に掛けていた手で、頬をすっとなぞる。ムイは、ぞっとして後ろへと仰け反った。
「リューン殿の婚約者、トレビ領主のサリー=トレビアヌ嬢はね、まあ言うなれば廃人も同然なんだよ」
ムイが後ろへと下がったのを見て、ライアンは薄ら笑いを浮かべながら、続ける。
「心の病ってやつだ。一度僕も会ったことがあるが、うんともすんとも言わず、一日中ぼーっとしているのだよ」
ライアンは、馬車の窓から外を見た。
「結婚相手が決まらない者同士、お似合いだとは思わないか?」
ムイもつられて窓の外を見る。
「実際、リューン殿の周りは彼の操り人形しかいないだろ? その人形が一体増えるってだけで、話が丸くまとまるのだから、それはそれでいい話だと思うんだけどな」
馬の蹄が駆ける音はするが、気味の悪い二人組の従者は、馬車の後ろをついてきているので、ここからは視界に入らない。ムイはそんなことだけでも、少しは救われると思いたかった。
ライアンは得意げに話を続けているが、ムイはもう耳を塞ぎたかった。窓の外から視線を離さずに、リューンを想う。
(これからは、リューン様と離れて、生きていくんだ)
そう決めたのは自分だ。自分がライアンについていかないと、リューンがどんな目に遭うかと考える。ライアンをこのまま一人で帰してしまったら、国王にも目を掛けられているほどの地位にあるシーア=ブリュンヒルドの逆鱗に触れるのではと考えると、それは震えがくるほどの恐怖だった。
(リューン様には、幸せになって欲しい)
けれど、それと同時にこうも思う。
(リューン様と離れて、生きていくなんて、耐えられるのだろうか)
その事実が、ムイをこれでもかというほどに打ちのめす。リューンにもらった花の髪飾り。胸に下げた小袋の辺りを手で押さえると、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたような痛みがある。
「それで? お前の名前は? もう教えてくれてもいいだろう?」
はっと我に返って、前を見る。じっと見てくるライアンの視線から逃れたくて、視線を逸らした。
構わず、ライアンが問い詰めるように、訊いてくる。
「お前の名前を教えろと言っているんだ」
そして、思い出したように、手で膝をぽんっと打つ。
「ああ、そうだった。お前は喋れないんだったな。まあいい。今晩の宿に着いたら、ノートにでも何でもいい。ちゃんと教えるんだぞ」
ムイは唇を噛んだ。
(名前を知られてはいけない、名前を守らなくちゃいけない)
馬車の揺れに身体を任せて、ムイは目を瞑った。