真の名前
「なんだ、どうした、こんな時間に? ね、眠れないのか?」
このような夜更けにムイが訪ねてきたことは、もちろん初めてで、リューンは驚きのあまり、声を上げた。
ムイは白いワンピースの寝間着を着ていて、いつもならもうとっくに自室のベッドで眠っているはずなのにと、リューンは怪訝に思った。
「ど、どうしたのだ?」
ノックもせずにドアを開けて入ってきて、その物音で起きたリューンがベッドから起きる上がる前に、ムイが側へと近づいてくる。
「ムイ、何かあったのか?」
月明かりの部屋に、リューンの優しさに満ちた声が響く。リューンが半身を起こすのと同時に、ムイが枕元に立った。
すると、ムイが突然、リューンのベッドに入り込んでくる。
リューンは焦って、ムイの身体に手を置いた。
「む、ムイ、一体どうしたんだ?」
構わずに、ムイがさらに布団の中に滑り込んでくる。そして、リューンの胸の中に頭をつけて、すがりついてきた。
リューンの心臓が早鐘のように打つ。途端に、身体が熱くなって、リューンは喘ぎ声を出した。
「む、、ムイ、こんなこと、」
腕を回せば、小柄のムイはすっぽりと入るに違いない。ムイの髪が、リューンのすぐ近くにある。滑らかな黒髪が、リューンの心臓をさらに跳ね上げた。
リューンの部屋着をぎゅっと掴むムイの両手が、小さく小さく見えた。
何もかもが小さくて、ムイのそれを感じると、リューンの奥底から、愛しさが溢れてくる。溢れてきて、自分ではもう抱えきれないほどに、リューンの気持ちは高まっていった。
「ムイ、お前、どうなっても、知らないぞ」
努めて明るい声を出した。冗談にできるなら、冗談にしたかった。けれど、ムイはリューンの部屋着を離さなかった。
観念し、ムイと何度も名前を呼びながら、リューンはムイを抱きしめた。洗濯の時に使う洗剤だろうか、ふわりと香りがして、リューンをさらに誘ってくる。
リューンは、ムイの黒髪に顔を埋めた。
少しの間、そうやって抱き合う。
ごそ、とムイが動く。そしてムイの手が、回していたリューンの腕を掴み、そろそろと手のひらに移動する。
「なんだ、また何か、書くのか?」
手のひらに指を乗せる。ムイの細い指が感じられて、リューンは嬉しくなった。
(これが、幸せというものか)
愛しいものを腕に抱き、こうしてくっついて話をしたり、一緒に眠ったり。ただ、それだけなのに。
リューンは今、幸福感でいっぱいだった。幸せが、全てを満たしていく。
ムイが指を動かす。
「今度は、なんだ? おやすみなさい、か?」
半分笑いながら、リューンが神経を手のひらへと、研ぎ澄ましていく。
「り、り、……」
リューンが声に出して、読み上げていく。
「ー、ら、ん」
(なんだろう、これは)
幸福感が思考を邪魔する。
「ぐ、れ、ー……」
そして、ムイが突然、手を引っ張り上げ、リューンの手のひらをリューンの口元に当てた。その行為に驚いてしまったリューンは、その拍子にごくんと、唾を飲み込んだ。
「な、なにを、するんだ」
その行為が持つ意味に気がつくと、リューンのあちこちに溢れていた幸福感が、さあっと引いていった。背中を寒いものが、ぬらっと上がってくる。
この動作は、リューンが今までに何度も何度も繰り返してきた行為。リューンがずっと、忌み嫌ってきた力の行使。
「ム、イ、お前、まさか……」
両肩を押し上げて、ムイの顔を覗き込む。
ムイの顔は、涙に濡れ苦痛に歪み、それはそれは酷い顔だった。眉根はぎゅっと寄せられて、眉間にしわを寄せている。月明かりが、濡れた滑らかな頬をほわりと照らしている。
その青白い顔色。
愕然とした。衝撃で、口も身体も固くなり、動かなかった。いや、脳も、思考を止めている。
リューンは震える手で、恐る恐るその頬を両手で包み込んだ。
「な、んてことをした、」
もう、二度とムイと呼べないことを、リューンは察した。
「なんてことをしたんだ。俺は望んでいない、」
リューンの目からも、涙が溢れた。
「望んでいないのに……どうしてこんなことをしたっ。俺を苦しめたいのかっ‼︎」
嗚咽がせり上がってくる。背中がビクッ、ビクッと跳ねるのをリューンはどうしようもできなかった。
「お前を、俺の、奴隷にだけ、は、したくなかった……のに」
リューンはムイを抱きしめた。ムイも小さくなって、身体を震わせながら泣いている。そして、二人は抱き合いながら、朝日が昇るのを待った。