初めて交わす言葉は
手には、メモ帳とペン。おずおずと差し出されたものを受け取ると、ムイはこくっと頷いた。
メモ帳を一枚、めくる。ペンの蓋を取ると、隣から細く息を吐く音が聞こえてきた。
ちらと横を見ると、リューンが遠くを見つめている。ぼんやりとしているように見えるが、実際は握った拳にこれでもかというくらいの力が入っていて、どうやら緊張していることが窺えた。
その様子を見て、ムイもペンを持つ手に力が入った。
「その……前にお前が書いてくれた手紙を、や、破ってしまったことは、本当にすまなかった」
ムイが、返事を書きつける。
それを少し差し出すと、リューンは覗き込んでから、ほっと安堵の息を吐いた。
『いいえ、大丈夫です。気にしていません』
「それでその、あの手紙に書いてあったと思うのだが……アランとは結婚しない、と。それは、どうしてなのだ?」
ムイは、返事に困った。アランを好きではない、と書けばそれは嘘になって、けれど愛していないと書けば、それが真実だからだ。ムイのそんな少しの迷いを見て、リューンは言葉を揺らした。
「い、いいんだ、無理して答えなくてもいい。ただ、何も訊かずに手紙を破ってしまって……俺は、本当に、その……考えなしというか、気が短いというか」
『アランとは結婚するほど、仲がいいわけではありません』
「そ、そうなのか?」
リューンが、怪訝な顔を寄越してくる。
(そんなに仲がいい風に見えたのだろうか)
ムイは、唇を引き結んだ。不服な気持ちの表れが、顔に出る。
「……俺がまた、早とちりをして無理強いをするところだったな。お前は、アランをあ……」
言葉が切れたことを怪訝に思って、ムイは隣に座るリューンの顔を見た。その様子に気づいたのか、リューンが慌てて続けた。
「あ、愛しているのだと、思っていた」
ムイも慌てて、メモ帳に書きつける。
『アランのことは好きですが、愛しているというわけではありません』
「そ、そうか。それは、本当にすまなかった」
リューンが膝の上で両手を握った。
「俺はいつも考えが浅はかで、思いも寄らぬ自体を招いてしまう。お前に怪我を負わせてばかりいるし、それに髪飾りの件で、お前が蓮の畑に飛び込む羽目になったのも、全て俺のせいだ」
『そんなことはありません。髪飾りは本当に嬉しかったです』
「そうか、それなら……お前が喜んでくれたなら、俺も嬉しい」
ムイは不思議に思った。喋ることができない自分が、読み書きを習っただけでこうして、リューンと普通に会話が出来ている。
(初めて、リューン様とお話ししている)
胸がいっぱいになった。嬉しさで、満たされていく。さっきまで、ヒリヒリと痛みがあった足も、大きな靴に包まれて、今ではもう痛みすら感じない。
(これが、幸せというものなのかな)
貧しいながらも家族で暮らしていた頃の生活が、脳裏を掠めていった。確かにあの頃は、こんな風に幸福に満たされていた。優しい母、頼もしい父、喧嘩はしたけれど、自分を可愛がってくれた兄弟。
失ってから、その大切さを思い知らされた。
(リューン様も、幸せだろうか?)
ムイは、慌ててペンを走らせた。
『リューン様は今、お幸せですか?』
「ん? 急にどうした?」
リューンの動揺が見て取れた。けれど、ムイはさらに書き続けた。
『私は今、とても幸せです』
「そうか、それは良かった」
『リューン様は?』
「俺か、俺は……どうだろうな」
言葉を濁すリューンを見て、ムイは心が千切れる思いがした。自分が隣にいることで、リューンに幸せを感じて欲しかった。おこがましいとは思うけれど、リューンを幸福でいっぱいにしたかった。
ミリアのように、リューンを笑わせたい、楽しそうに笑ってもらいたい、そう思う気持ちは日に日に強くなっていく。
『何か欲しいものはありませんか?』
リューンがそれを見て、立ち上がる。
「さあ、もうすぐ朝食だから、お前も仕度をしなければならないだろう」
ムイが思わず、リューンの袖を握る。
「ん、どうした? 大丈夫だ。部屋まで送っていくから。さあ、立て」
握った手を掴まれ、引っ張り上げられる。
「抱っこしていってやろうか?」
ムイがその言葉にぎょっとして、赤面すると、リューンが笑って言った。
「なんだ、恥ずかしいのか? お前を抱き上げて、何度運んだことか」
腕を引っ張られて、大きな靴をずりながら、歩く。
「ゆっくりでいい」
ムイは、嬉しくて仕方がなかった。優しい人だとは、もうわかっていたけれど、その優しさが染み入ってくるようだった。
(いつまでも、リューン様の側にいたい)
素直な気持ちが出た。けれど、それは一度、リューンによって拒否されている。
(喋れなくて良かった。喋れたらきっと、口にしてしまう)
ムイは、リューンに半歩遅れながらも、そろそろと歩いていった。この芝生広場が、このバラ園が、永遠に続けばいいのに、と思いながら、足を進めていった。